父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと2
上野の山は、今も昔も大好きな場所です。家族でよく出かけました。子どもにとっては動物園が何より楽しみだし、世の中の不思議が詰まった国立科学博物館も大好きでした。リズミカルに曲線を描く噴水、トンネルのような桜並木、三色団子の新鶯亭。最近では、上野といえば東京国立博物館が主な訪問先なのですが、いつも直帰しがたくて、ぶらぶら散歩してしまいます。今はなき、京成線の博物館動物園駅、あの薄暗い地下から地上に上がる時のワクワクした気持ちを、国会議事堂の中央塔を切り取ったような洋館風地上口前を通るたびに懐かしく思い出します。私が上野好きなのは、東の端っこで育ったからということもありますが、もっと大きな理由があります。父の家族と尾崎さん一家の出会いの地が上野だから、なのです。
戦前、父たちが暮らしていたのは、言問通りの、カヤバ珈琲がある上野桜木の信号から東京藝術大学へと抜ける道、その最初の路地にある借家でした。今も住宅が軒を並べる静かな路地です。尾崎さんの作品に、横丁物と呼ばれる「なめくぢ横丁」「もぐら横丁」「ぼうふら横丁」の三部作がありますが、その中の「ぼうふら横丁」が父たちの暮らした路地で、タイトルからも当時の雰囲気は推して知るべしです。最近では観光地として人気が高い谷根千に隣接する一角で、父にとっての谷根千は、庭のような感覚です。友達にジュースを奢ったというカヤバ珈琲、母親と一緒に行く女湯が嫌だった柏湯(現在のスカイ・ザ・バスハウス。ギャラリーの人の話では、銭湯だった時代には何度も名前が変わったという。閉店するときは、再び柏湯)、同級生の家であのあたりはいい水が出るから豆腐も美味しい、と懐かしむ藤屋豆腐店など、父の思い出話には、今も人気のお店がしばしば登場します。
父は上野の隣にある本郷の帝大病院(現・東大病院)で産声を上げました。界隈の子どもたちはだいたいそこで生まれていて、「僕たちは東大出だよな」とは、父が還暦を迎えた頃に再会した小学校の同級生たちの定番ジョーク。ここで生まれた父が四歳の誕生日を迎えた頃、向かいの家に尾崎さん一家が引っ越してきました。
前回書きましたが、父が尾崎さんの一年祭(神道の一周忌)を前に開かれた偲ぶ会で朗読した「思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭」は、尾崎さん一家との出会いの日から始まります。
昭和十二(一九三七)年九月、上野の森の蝉時雨が上野桜木町の路地にまで響きわたっています。空は青空。この日、我が家のお向かいに、小説家の尾崎一雄さん一家が引っ越してきました。「天に代わりてアァカッテ」出征する兵士を送る歌『日本陸軍』を繰り返し歌う男の子の声がします。あっ、友だちもできる!
母は、〝暢気眼鏡〟が引っ越してきた、と近所の人達と立ち話をしていました。尾崎のおじさんは、この年の七月に第五回芥川賞を受賞、巷の話題になっていたのでしょう。けれど、当時四歳の私は小耳に挟んだ話を、漫画に出てくる暢気な父さんが来たのだと思い込み、お向かいを覗き込んでみたのですが、ごく普通のおじさんで、少しも変わったところはなく、おかしいな、と思ったものでした。
引っ越し当時の尾崎さん一家は、後におじさんの代表作のひとつとなる『芳兵衛物語』の主人公、松枝夫人と、長女の一枝ちゃん、長男の鮎雄ちゃんの四人家族でした。私の家も両親と兄と私の四人家族。しかもその後、我が家に妹の雅子が、尾崎家にも次女の圭子ちゃんが生まれています。家族構成が似ているのも、ご縁だったのでしょう。
ここで、父の家族と出会うまでの尾崎さんの半生に触れる必要があるでしょう。尾崎さんは一八九九年(明治三十二年)生まれ。神奈川県足柄下郡下曽我村谷津(現在の小田原市曽我谷津)にある代々宗我神社の神官を務める家に、クリスマスの日に生まれています。当時、尾崎さんの父親である尾崎八束は、伊勢の皇學館の教師だったため、下曽我を離れ、三重県宇治山田町(現在の伊勢市)での誕生でした。
下曽我は、梅干しでその名を知られる土地で、尾崎さんも梅干しづくりの名人でした。「尾崎屋謹製と称して、味にはいささかの自負なきにしもあらず」と、日本経済新聞の「私の履歴書」に、そんな一文を残しています(文化出版局刊季刊『銀花』8号にも、「尾崎屋謹製わが家の梅干し」という随筆を寄せています)。うちの家族も、そのお相伴にあずかっていました。
古風な儒教的精神が息づく家で育った尾崎さんでしたが、十七歳の時に古雑誌に掲載されていた志賀直哉の『大津順吉』を読んで大きな衝撃を受けます。小説というものによって、これほどの感動を与えられるものなのか、と。しかもこの時、尾崎さんは、志賀直哉のことをまるで知りませんでした。何しろ、直哉を、ちょくさい、だと思っていたくらいです。志賀直哉の弟子として知られる尾崎さんですが、このあたりのことについて、国語学者の中村明が書いた自身の評を「私の履歴書」で引用しています。
「一級小説家としての志賀直哉が作家志望の尾崎一雄を導いたのではなく『どこの誰かまるで知らない』〝志賀直哉(ちょくさい)〟とか称する無名の若手文士の書いた『大津順吉』という一作品が、透明な一青年の心をとらえたのだという事実である。つまり、志賀直哉が尾崎一雄を認めるより前に、いわば尾崎一雄が志賀直哉を発見したのである」
私は、透明な一青年の心、という表現がとても好きです。これはきっと尾崎さんの一生を貫いた、直観的な心の持ちようだと思うのです。
尾崎さんの父、尾崎八束は神官の職から離れ、伊勢にある神宮皇学館の教職についていました。厳格な父親は文学など軟弱な、と認めません。やむなく法政大学に進みますが、意に染まぬ大学生活を送る尾崎さんは、授業などそっちのけで図書館に通って文学書を読み漁る日々。が、父が急逝、尾崎さんは思いがけず家長としての役割を担うことになるのですが、同時に父ゆえの蹉跌から解放されて、いよいよ文学の道を歩み始めるのです。
二十一歳で新設された早稲田大学第一高等学院に入学し直します。良き教師や若き文学青年たちと出会い、同人誌の創刊など活発な文学活動を始めます。病気による休学を経て、二十五歳で早稲田大学国文科に進学。この高等学院、大学時代こそが、のちに『あの日この日』『続あの日この日』という尾崎版近代文学史の土壌を耕すことになります。多くの同人誌に関わり、作品発表や作品講評などを精力的に手がけ、近代文学史に名を刻む作家たちとの交流盛んな熱き時代でした。憧れの志賀直哉とも繋がりが生まれます。父親の財産を手に兜町に通ったり、友人たちに振舞ったり、なかなか豪気に遊びもしていたようです。
そんな矢先の関東大震災。故郷の下曽我は甚大な被害を受け、家屋崩壊、父の残した家財も失ってしまいます。財産も底をつきます。さらに、台頭してきたプロレタリア文学の作家たちから、志賀直哉の作品がブルジョア文学として批判の矢面となり、尾崎さんもまたその渦中に巻き込まれて、スランプに陥ります。この時期に最初の結婚もするのですが、その関係はうまく行かず、さらには、志賀直哉を敬愛し、追随するあまり、独自の作風を切り開けずにいて、尾崎さんは絶望的な気持ちを抱え込みます。
妻から逃がれるように、また、抱えきれない絶望を背負って、倒れこむようにして、奈良で暮らしていた志賀直哉を訪ね(奈良市高畑にある志賀直哉旧居)、しばらく奈良に滞在。志賀直哉の間近に身を寄せ、志賀直哉の人となりに直に触れて、尾崎さんは大きな悟りの境地に至るのです。
「鵜の真似をする烏がどうなるかを、三年も四年ものあがきの末、漸く悟ったのである。この迂遠さは、我がことながら茫然自失ものではないか。十年にも及ぶ志賀直哉追跡が無駄ごとだったとは」と。
このあとの一文が、清々しく心に残ります。
「志賀直哉は亭々たる巨松、自分は──庭の隅にある八ツ手ぐらいか。とはいえ、松は松、八ツ手は八ツ手だ、自分が八ツ手なら、どこまでも八ツ手らしく生き切ればいいのだ」
こうして尾崎さんは自分らしい文学表現へと舵を切ります。そんな折に出会ったのが、女学校を出て間もない、姉を頼って金沢から上京してきた松枝さんでした(前妻とは離縁)。仲間に借金をしながら、二人の新婚生活が始まります。まもなく長女の一枝さんが誕生。若い松枝さんは、世間知らずで心身健康、どこか底抜けにとぼけている。松枝さんの桁外れな楽天的性格が尾崎さんの屈託を解放してくれたのです。そうして、立ち現れた尾崎文学の新たな境地。極貧暮らしの中での若い妻との生活から生まれた作品が、昭和八年(一九三三年)に発表された『暢気眼鏡』でした。
この作品が第五回芥川賞を受賞、尾崎さんは一躍人気作家となりました。当時も、芥川賞作家と作品は、世間的な話題性が高かったのでしょう。父の母親、つまり私の祖母ですが、のような主婦が井戸端会議で噂するくらいだったのですから。
この文章を書き進めるため、しばしば尾崎さんの作品に目を通します。読むたび感じるのは、削ぎ落とされた文章に込められた深い思索と真理です。『続あの日この日』のページを繰っていたら、太宰治との逸話がありました。尾崎さんは早くから太宰の才能を見出していた人でした。太宰の愛人だった太田静子の作品『あはれわが歌』の中で、太宰が「尾崎さんは、もう古いね」としきりに言ったことが記されているのですが、それについて、「彼から見れば私は古いに決つてゐる。言はれなくても判つている。それよりも大体私は、作風が古いとか新しいとかいふことをさして気にしてゐないのだ。一番気にすることといへば、自分の考へや心情を、できるだけ尠(すくな)い誤差で人に伝へるにはどう書けばいいか、それがうまくいつたかどうか、ということである。だから、いくら「古い」と言はれたつてこたへないのだ」と飄々と綴ります。
それでは今日はこれまで。次は、上野桜木町の日々について、書いてみようと思います。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。
三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!
※トップの写真は、上野動物園旧正門。父の思い出の場所。