父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと9
私が小学校高学年、いや中学生か、な頃、父から小倉百人一首の上の句と下の句を書き分けた赤いリングノートをもらいました。父はなかなかの達筆で、むすめふさほせ、の一枚札から始まる端正な文字が並ぶノートを、私は長いこと大切に持っていました。時間があるときには、声を出して読みながら歌を暗記したものですが、もうかなり忘れてしまっている脆弱な記憶力に、我ながらがっかりします。ともあれ、実家でカルタといえば百人一首でした。
晩年の母は、リウマチに加えて白内障が進み、あまり目が見えなくなっていましたが、父がびっしりと百人一首の歌を書き出したA4サイズの紙を、いつもベッドサイドに置いて、時折、顔に寄せるようにして読んでいました。緊急入院したときも、持ってきてほしい、と頼まれました。母の告別式の朝、納棺するものを揃えながら、ふと思い出して、その紙を加えて、好きだった服や身近な品々とともに収めました(葬儀後しばらくして、そのことを知った父に、また書き直さなきゃ、とちょっと恨まれました)。
実家には、木箱に入った百人一首があります。物心ついた頃には幼くてもできる坊主めくりをしていました。父は今も、母の遺影の前でよく百人一首の歌を読み上げ、母に解説したりしています。興がのった時は、カルタの札を取り出して読むこともあります。つい先日、父が百人一首の箱を裏返して何か文字を見ていることに気づきました。のぞいてみると、日付が書かれています。時代焼けした桐箱ゆえ、文字は見えづらくなっていますが、昭和二十八年元旦と読めます。購入した年の備忘録でしょう。私が幼い頃どころか、母と結婚する前から父の手元にあったカルタだと、その時初めて知りました。
「上野桜木町の時代に、お正月になると鮎雄ちゃんと二人で百人一首のカルタが入った箱を抱えて、路地を行ったり来たりしてカルタ仲間を探してたんだ。尾崎さんの家のカルタは木の箱に入ってて、うちのは紙の箱だったな」お正月になると、各家で百人一首カルタが盛んに行われていた戦前。札の読み手は外に聞こえるくらいの声で上の句を読み上げます。それを耳にしたカルタ上手は、道場破りのようにその家に乗り込んで飛び入り参加するという無礼講があったのだそうです。「木戸御免、って言ったかな。美大生や書生さんなんだけど、負けると罰ゲームがあるんだ」
ある書生さんは、罰ゲームに童謡を歌ったそうです。きっと音大生だったのでしょう。「雨降りお月さんだったんだ。上手くてねえ。二番は節を変えて歌うんだ。それ以来、童謡に興味が出たなあ」
余談ですが、当時、東京の商家では地方出身の小僧さんを多く抱えていました。百人一首カルタを覚えることで、教養を身につけ、言葉も覚えることから、商家でもカルタは盛んに行われていたと、父はいいます。
実家にあるカルタは、高校を卒業した父が、東京に戻り、働くようになった最初のお正月に、住み込み先の小岩(東京都江戸川区)の本屋さんで買ったものでした。「上京した春に尾崎さんと八年ぶりに再会して、そのお正月にカルタ遊びをするから下曽我にいらっしゃい、と誘ってくれてね。それじゃ少し練習しなければ、と買ったんだ」。正月三が日に尾崎さんの家に行ったとしたら、元旦からの練習ではずいぶんな付け焼き刃で、思わず苦笑いです。よく見ると、購入日の横に、山下昌久私物、と書かれています。「住み込みだったから名前を入れておかないと誰のものかわからなくなるし、自分としては張り込んで買ったものだからね」。
ああ、そうだったのか。父は子どもの頃から憧れだった、念願の木箱入りを頑張って買ったのです。失った家族と、懐かしい日々。若き日の父は、ミッシングピースを埋めるような気持ちで、思い出につながるものを買い求めたのです。
ここで、父が書いた「思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭」を引き続き引用します。
おじさんは、人の幸運を心の底から喜んでくれる稀有の人でもありました。我が家に慶事があるたびに、人一倍喜んでくれました。その場面場面のおじさんの表情は、いまも忘れることはありません。テレビに出演したとき(東京12チャンネル『人に歴史あり』、この件については後述)、この話をしなかったことが悔やまれてなりません。尾崎さん一家との上野桜木町での出来事は、忘れることのできない懐かしい追憶の数々です。お正月は一緒にカルタ遊びをしました。夏は夜空の星を眺めました。また、東京郊外までハイキングしたり、芋掘りにも行きました。私たち一家が深川の木場に引っ越しするときには、上野の料亭・世界で、おじさんが送別会を開いてくれました。
父の兄、佳伸さんは、天文や昆虫に詳しく、「兄貴とはあまり仲良くなかった」という父も、そのあたりは一目置いていたようです。まだ東京の夜空が数多の灯りで白ばむことのなかった時代、年下の子どもたちが夜空を見上げる横で、佳伸さんがあれこれ解説したのでしょう。父が、幼い私と妹を、渋谷の五島プラネタリウムによく連れていってくれたのは、教育的な面ももちろんあったでしょうが、子ども時代に見上げた星空への郷愁があったのかもしれず、今更ながら切ない気持ちになります。
芋掘りは、電車に乗って村山貯水池の方まで。今の多摩湖です。上野から随分遠く感じますが、父の話を聞いていると、電車に乗って遠出することは少なくなかったようです。戦争が激化するにつれ、食料確保は各家庭にとって大きな問題で、芋掘りや栗拾い、潮干狩りは実のある娯楽でした。「おじさんは文壇の付き合いや執筆があるから同行しないよ。うちの家族と一枝ちゃん、鮎雄ちゃん、おばさん、時折、おじさんの弟だったかなあ」
父の父、林平さんは、農家の出らしくこうした行事では本領発揮、大収穫に子どもも大人も大喜びでした。
そして、父の一家の深川木場への引越し。昭和十八年の春の引越しが、父の人生を大きく変えてしまうことなど誰も予想などできず、むしろ喜ばしいことでした。だからこそ、尾崎さんは送別会を開いてくれたのです。父の兄の中学合格祝いも兼ねての大盤振舞い。上野の料亭・世界は、今のABABあたり、もう数軒上野駅寄りにありました。父は「きっとおじさんは文壇関係の会合などで、その料亭を使っていたんだろうね」と言います。父の家族が引越しするその経緯を、尾崎さんは作品『山下一家』に書き記しています。
山下一家五人は、深川木場一丁目の新建ての豪勢な家へ越して行つた。職務勉勵、勤儉力行、小さな家に住んで何一つおごりをせず營々と家運の興隆につとめた山下夫妻としては、自ら會心の笑を禁じ得なかつたであらう。主人は出張所所長となり、俸給は上り、手當は好く、折柄長男佳伸君は優秀な成績で市立二中に入學したのである。山下一家の人々の表情には、内に幸ひを藏した者の自ら發する和やかな光がただようてゐるのであつた。近所合壁、衆目の見るところ、山下一家は確かに、今や生活の上昇線を着々と進む前途多幸な人々であつた。
その豪勢と表現された家は、鹿島組の深川出張所々長の社宅で、父はその家の間取りを今でも書くことができます。それまでの平屋から二階屋に。木場の材木商が趣向を凝らした銘木をふんだんに使った家は、「窓がたくさんあって、雨戸を閉めるのが大変だったけれど、それもなんだか嬉しくてね」。立派な防空壕も備えていた家でした。
上野桜木町と深川で、尾崎さん一家とは距離ができますが、父の母である久子さんと尾崎夫人の松枝さんは姉妹のような仲良しですし、姉御肌の久子さんは、何かと上野桜木町に出向いて横丁の奥様連と付き合い、また松枝さんも時折深川に訪ねてくることがありました。
父は父で、小学校を転校したわけですから、新たな環境に戸惑っていたはずです。それに、上野の忍岡小学校では、初恋の人と上野公園でデートしたばかり(戦前ながら、父は合組という男女混合のクラスでした)。「だから引っ越ししたくなかったなあ」。あらあらお父さん、以前には「深川に引越しする話が持ち上がったとき、行こう行こうと僕が言ったから、あんなことになっちゃったんだ」と後悔していた気もします。
でもまあ、それが人の記憶というものです。父から聞く昔話は、時折事実誤認もありますが、それでもよくぞここまで覚えているなあと驚かされます。
さて、前回からちょっと時間が経ってしまいましたが、今宵はこのあたりで。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。
三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!
※トップの写真は、父が暮らしていた頃の上野桜木町の地図。父の小学校時代の級友、三宅さんが調べて同級生に配ってくれたもの。