わかりあえないけれど
人と人は必ずしも全てをわかりあえるわけではないと、大人のみなさんはお気づきだと思う。
(子どもでもそう思う子はいるだろう)
世界が一つになるまでずっと手を繋いでいよう
と、小学生のころみんなで楽しく歌った、ある歌の歌詞にある。
今はあまり好きではないフレーズだ。
なんだかイライラして、
どうしても心の中で「一つになれるわけねぇだろうがっっ!!!」と叫んでしまうのだ。
わたしは10代半ばくらいまでは、誰かとわかりあって、一つになることができると、なんとなく信じていた気がする。
でもいつからかわからないけれど、どうがんばってもわかりあえないこともあるのだと知ったのだった。
これを“大人になった”とは言わないかもしれないが、大人になる過程で考えることの一つではないかとも思う。
自分以外の誰とも共有できない想いがある。
わかりあえないという事実はさみしい。
家族がいても、友達がいても、恋人がいても、
人間みんな、根っこの部分は孤独なのではないかとわたしは最近よく思う。
わたしは不幸ではないが、
孤独だと感じることがよくある。
そんなことを考えていてふと、
でははじめから、子どものころから、
「人と人は必ずしもわかりあえない」と教えられていればよかったのかな?という疑問が浮かんだ。
しかしすぐにそうではないと思い直した。
わかりあえると教えられて周りの大人に育てられたから、人を信じることができる人間になれたのだと、わたしは思うのだ。
「わかりあえない」とはじめから信じていると、
誰のことも信じたくなくなる気がするのだ。
人は孤独だからこそ、一人では生きていけないのだととわたしは思う。
結果はどうであれ、とりあえず相手を信じることができなければ、協力することなどできない。
生まれてから今まで、人を信じることができてなければ、わたしはとっくに死んでいたかもしれないとすら考える。
「ほんの少しでもわかりあえるかもしれない」
という希望は、
信じたいというひたむきな想いは、
たとえ叶わなくとも、
わたしたちに生きる力をもたらしている。
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