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「生きる」をつくる。

書きたい。と、思った。

描きたい、ではなく、書きたい、と。

この感情を、温度を、そのまま文字にしたい、言葉にしたい。そう思った。

すべて、生きていた

彼女の作品の原画を見たのは初めてだった。

知り合った頃に教えてくれたウェブサイトに載っているポートフォリオは何度か見たことがあって、温度感のある素敵な絵だという認識はあったのだけれど、やはり画面を通して伝わる温度は実際のものよりも少し低い。

実際に作品を目の前にすると、その想像以上の生々しさに絵の前からしばらく動けなくなった。


どの作品も驚くほどに「生きて」いて、それぞれがしっかりと呼吸をしている。


どうして、こんなに生きているんだろう。


「生きている」ということ

作品には、想いが乗っている。強く。

想いが強ければ強いほど、その作品は生き生きと躍動して、見る者に「生(せい)」を感じさせる。だからこそ彼女の作品は「生きている」と感じたのだと思う。

生。

作品を「生きた」ものにするには、とても繊細な感性が必要で。ただ、その感性を澄ませるには、技術とは全く違う方法が必要で。

それは、物事に対する考えの深さであったり、自分と対峙する時間であったり、つまるところ「その人自身」なのだと私は思う。


絵が上手い人なんて、この世にごまんといる。素晴らしい作品を作る人だって、ごまんといる。作品が上手ければ成功するのであれば、世の中成功している人だらけなはず。


作品で成功?それは、一体どういうことなのだろう。


会場には、アートに精通している人がたくさん居て、思い思いに彼女の作品を眺めては、感想を話し、技術を、感性を讃えていた。プロだからこそわかる内容や、プロだからこそ目をつける点の話を聞いて、私自身、そうか、と感銘を受けたりもしたのだけれど、芸術や絵画を勉強してきたわけじゃない私だからこそ見えるものも確かにあったと思う。


ギャラリーでお会いしたフリーのイラストレーターの方は「一度はアートで食べていくことを諦めようと思った」と言っていた。違うフリーのイラストレーターの方は「知り合いに、お前はイラスト以外じゃ無理だよ、なんて言われて、確かに、と思って」とポツポツ話してくれた。

別の方は、ギャラリーの事務員をしていて、絵は少し描きます、と控えめに言っていた。

「どんな作品を描くんですか?」そう聞いた私におずおずと出してくれた絵は、とても繊細で美しくて、思わず声が出た。

「こんなものしかなくて、どこにもあげてないんです」なんて苦笑いしながら言っていた。


その世界にずっといるからこそわかることもたくさんあると思う。だけれど一方で、その世界にずっといると苦しくなってしまうことも同じくらい、もしかするとそれ以上にたくさんあるかもしれない。

見せてもらった絵はとても美しかったし、素直に私は感動した。その絵は「その人自身」なのだと強く思った。作品、って、本来そういうものじゃないのかな。


同じ「生きる」はない。

作品を作る、ということは、自分と対峙していくこと、つまり「生きる」を形にすることであり、それが、アートであれ、商業であれ、そこは関係ない。

どんなものを作っていても、皆、大なり小なり「生きる」ことを考えながら作っているのだと、私は思う。


同じ「生きる」はどこにもない。


私は私として生きているし、それは唯一無二だ。

進む道、生きていく方法、自分を置く環境、紡ぎだす言葉、そして作り出す作品。それはすべて唯一無二だ。

すべてが「生きて」いるということなのだ。


みんな、それぞれに「生きて」いるのだ。


日々の、流れていく混沌とした波の中にいれば、それがぽっかり抜け落ちてしまいそうになることもある。

私は、それをはき違えないように、忘れないようにいたい。どんなときでも、それぞれに「生きて」いるのだと、物事を見ていたい。

そして、それを丁寧に形作りたい。


私の「生きる」を作っていきたい。

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