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サマスペ! 九州縦断徒歩合宿(10) 

四日目★★★★            

「なんだ、あれ」
 国道212号を歩いていた悠介は、急なカーブの先で足を止めた。

 林が開けた前方に現れたのは、見渡すかぎりの緑の山。いや、あれは山というよりも壁だ。見たこともない眺めに、ガードレールから身を乗り出した。

 丘と呼ぶにはあまりにも高すぎるし広すぎる。横に連なる山脈の頂を粘土の山のようにならしたらこう見えるのだろうか。

 だがそんなことができるわけはない。観光客用に説明を書いた看板がないか探したが、カーブ注意の黄色い標識以外は見当たらない。

 ぶつぶつと何かを唱える声が聞こえてきた。景色に見入っていた悠介の後ろを、紺のリュックが通り過ぎようとしている。

「高見沢さん」
「おっと悠介か。脅かすなよ」

 顔を上げた高見沢は胸の前に両手で小さなものを持っていた。真面目な顔をしてこっそり隠していたのか。

「高見沢さん、ゲーム機でしょ、それ。俺にも貸してくださいよ」
「ゲーム? これのことか」

 持っていたものを手のひらに乗せて差し出して見せた。白い紙の裏表にアルファベットと漢字が書かれている。端に金属のリングが光っていた。

 単語カードだ。受験の時の暗記用に使ったことがある。

 お勉強だったのか。
 ミニゲーム機を持ち込んで、サマスペのルールを無視する反乱分子に会えたかと思った悠介は拍子抜けした。

「悠介、昨日は大変だったな」
「いえ、遅くなってすいませんでした」

 悠介は左手で腹を押さえた。朝になっても胃は少しも痛まなかった。嘘のようだ。

 野犬に襲われたことが関係しているのは間違いないと思う。
 死んでしまう。食べられてしまう。その恐怖とショックで、今も感覚が麻痺しているのだろうか。

 それなら、またあの痛みに襲われるのだろうか。悠介にはわからない。

 昨夜、悠介たち三人がミニバンをお供にして小学校に到着した時、全員が食事もせずに待っていてくれた。

 大梅田がスマホで水戸に連絡するまで、懐中電灯を持って国道沿いを探してくれていたそうだ。悠介と次郎は責められるどころか、拍手で迎えられた。アッコには車に乗らずに歩いてきたことを褒められた。

「涼のこと、次郎から聞いたぞ」
「あいつ、口が軽くて」

 次郎は野犬に襲われた話を誰彼なく自慢顔で話した。遅れて道に迷うという失態の末のことなのだが、浮かれた次郎は止まらない。浮かれついでに涼の脱走の真相まで話してしまった。

「お母さんが連れ戻しに来たんだってな。涼は心臓の調子が悪かったんだろ。そりゃあ脱走を止めるどころじゃない。すぐに医者に診せなきゃ」

 次郎のお喋りのおかげで、メンバーが悠介を見る目は穏やかなものになった。

「涼には親が来たことは言わないでくれって、言われてたんです。涼の面目が丸つぶれになっちゃいました」
「親が心配するのは当たり前さ。心臓だぞ。おそらく涼は心臓に小さな穴が開いていて、それを子どもの時に手術で閉じたんだろう。
 成功したからって無茶はしないようにしないと。涼はサマスペを始めてから不整脈のような症状を感じていたんじゃないかな」

 悠介は高見沢を見つめた。
「先輩、医者志望ですか。うちに医学部はなかったですよね」
「ばあちゃんが心臓病になったんだ。それで調べたんだよ。とにかく心臓病を起こした人がこんな合宿に出るなんて、家族なら心配で堪らないよ」
「涼の病気のことを知っていたら、捜索しないで黙って逃がしてあげたんですかね」

 高見沢が笑った。
「誰が脱走しても必ず捜索はするさ。病気じゃなくたって、逃げても金もケータイもないんだ。疲れ果ててその辺でぶっ倒れてたらまずいだろ。
 逃げるなら無事に逃げてもらわないとな。だから涼が車に乗るところまで悠介が見届けて、幹事長たちは安心したはずだ」
「そうだったんだ……」

 悠介は頬に手をやった。
「でも斉藤さんは新人の脱走は絶対に許さないって感じでしたよ」
「もちろん基本はそうなんだけど、それぞれ考え方があるんだ。ちなみに俺は、去る者は追わず派だよ」

 高見沢は悠介の後ろを眺めて黒縁の眼鏡に手をやる。
「おっ、これは絶景だな。さすが阿蘇国立公園だ」
 隣に来て目を細めた。

「悠介、あの壁みたいの、なんだかわかるか」
「それがわからなくて。阿蘇山ですかね」
「違う違う。カルデラって聞いたことないか」

 高見沢の後ろに、黒板と大きな地形図が目に浮かんだ。やはりこの人には教壇が似合う。 

「俺、地理は取ってないんで」
「この一帯はな、はるか昔に阿蘇山の火山爆発で陥没してできたくぼみなんだ」
「くぼみ?」
「そう。あれはその外側の壁っていうわけだ。あの壁がこの辺をぐるっと取り巻いているんだ。確か半径十キロくらいあるんじゃなかったかな」

 悠介は「はあっ」と息を吐き出した。
「半径十キロのくぼみですか。なんか壮大ですね」

 高見沢はリュックのサイドポケットに単語カードを入れて、代わりに九州のガイドブックを取り出した。

「壁の内側に阿蘇市とか町があって、五万人が暮らしているんだな」
「あれ、そうしたら今歩いているところは?」
「俺たちは北側の壁にいることになるな。これから人が暮らしているくぼみに降りていくんだよ」

 足元に見える街を見下ろして、また壁を眺めた。壁の向こうから裸の巨人が乗り越えてきそうだ。

「すると阿蘇山は?」
 高見沢先生は付箋を貼ったページを開いた。

「阿蘇五岳なら方向が違うよ。大観峰っていう展望所からだと五つの山の頂上が、お釈迦様が寝ている形に見えるんだ。熊本の絶景ランキング第一位だよ」

 大観峰か。由里が来るのを待って二人で見に行けないものか。そんなに人気のある景色ならば、由里だって胸を打たれるだろう。

 神秘的な阿蘇の光景に息をのむ由里の横顔を想像した。

「悠介、言っとくけど」
「あっ、はい?」
 高見沢がガイドブックから目を上げて、黙り込んだ悠介を見ていた。

「展望所は道が違うから、戻って余計に歩くことになるよ」
 せっかく歩いた道を戻るのだけは勘弁だ。
「‥‥バイクか車で来てたらなあ。あっという間なのに」

 ツーリングする人たちが増えていた。雄大な自然を満喫しながら風を切って走るのは、最高に気持ちがいいだろう。

「先輩だって、そんな本まで持って来てるのに、観光したくないんですか」
「それだとサマスペじゃなくなっちゃうからなあ」

 別にいいではないか。

「さて行こうか。もうじき昼食休憩だ。腹が減った」
 悠介も腹が鳴りそうになった。ビックリおにぎりを求めているのだ。高見沢の後について歩き始める。国立公園らしく、道は曲がりくねっていたが整備されている。

「先輩、さっき単語カードを使ってましたよね」
 高見沢が笑った。
「今時って言いたいんだろ。スマホがあれば暗記用のアプリを使うんだけどな」

 暗記用アプリか。悠介ならスマホがあれば間違いなくポケモンGOをやりまくってる。阿蘇の山奥なら、相当にレアなポケモンが生息しているに違いない。

「ここまで来て勉強なんてと思って」
「一人で歩いてると退屈だからさ。勉強すれば一石二鳥だろ。東京へ帰ったら後期の授業が始まるしさ」

 面白いキャラだ。この非日常的なサマスペの中でせっせと勉強をしているのは笑える。日常生活の枠外にあるサマスペを、さらに一段上から小馬鹿にしているようだ。

「余計なことですけども、勉強するならサマスペなんかに参加しないで、涼しい図書館かどこかでしたらいいんじゃないですか」
「一石二鳥って言っただろ。サマスペは、俺には大切な意味があるんだよ」

 昨日、サマスペのことを玲奈に「意味がない」ときっぱり言われた。サマスペが始まった頃は、悠介も玲奈とまったく同じ意見だった。

 しかし今、悠介の中に、毎日ひたすら歩き続ける非常識極まりない旅の意味が、少しずつ形を取り始めていた。モヤモヤとしていてその正体はつかめないが、無意味ではなさそうだと思う。

「先輩、大切な意味って何ですか」
 常識人に見える高見沢なら、このイベントの意味を論理的かつ明快に教えてくれるかもしれない。

「質問しているうちは、言葉で教えても理解できないと思うよ」
 禅問答か。むっとした気配が伝わったのか、高見沢はほほ笑んだ。この人は大人だ。

「そうか、悠介はサマスペの説明ミーティングも出ずに参加したんだったな」
「そりゃそうですよ。こんなとてつもない合宿だって説明を受けていたら誰も参加しませんよ」
「その割に悠介は、涼と一緒に逃げなかったんだな。脱走するなら悠介が最初だろうってみんな思っていたよ」
「それはその……」

 高見沢は悠介の歩調に合わせて黙って歩く。
「俺、やっぱりサマスペに参加するべきじゃなかったですよね。こんな問題ばかり起こす奴、お荷物ですよね」
「何だ、悠介。思ったより素直なんだな」

 自分でも妙だと思った。何でも受け止めてくれそうな包容力が高見沢にはある。

「同期が脱走したり、先輩と殴り合ったり、野犬に噛み殺されそうになったり、面白くないか。サマスペって」
「いや、別に面白くなんかありませんよ。必死ですよ」
「だからサマスペなんだよ」

 また禅問答だ。それきり高見沢は喋らない。

 つづら折りの道路は下りの勾配が続いて膝が笑いそうになる。街に降りてきた気配がした。

「悠介のほかに一年が四人も参加してるじゃないか」
「えっ、はい」
「彼らに聞いてみればいい。どうしてサマスペに参加したのかを」

 高見沢が遠くを見る目をする。
「説明ミーティングの梅さんのトークにだまされただけかもしれないけどな。熱く語るんだよなあ、あの人。俺もそれで思い切って新潟まで行ってさ……大変だったなあ」

「あのむっつりした幹事長が熱く語るんですか」
 そう言ってから、みえちゃんたちに交渉をした時の大梅田を思い出した。

「そう言えば日田で公民館を借りるとき、営業トーク全開でした」
「梅さんや水戸さんは、サマスペ愛が半端ないから」
「サマスペ愛、ですか」
「そうだよ。じゃなけりゃ、幹事はできないよ。知ってるか、うちの同好会の幹事はサマスペ経験者しかなれないんだ」
 初めて聞いた。

「知りませんでした。うちって八十人とかの大所帯ですよね。サマスペなんてその二割も参加してませんよ」
「うちの同好会はな、今はレクリエーション的なウォーキングを楽しむサークルになってるけど、そもそもサマスペが目的で結成したんだよ」
「えっ、マジですか」

「当時はただの夏合宿って呼んでたらしい」
「これがただの夏合宿ですか」
「そう。別にスペシャルじゃない。冬合宿もあったらしいぞ」

「へええ、冬もですか」
「寒風吹きすさぶ酷寒の雪山。吹雪になったら一メートル先が見えない。寝たら死ぬぞ、の世界だね」
「……冬も大変そうですね」

 高見沢が笑ってリュックベルトにぶら下げた時計を見た。いつしか下りの山道は終わり、平坦な並木道になっていた。畑に混じって商店やガソリンスタンドが見えてくる。

「もうそろそろ休憩ポイントじゃないかな。悠介、俺、ペース上げるから」
「どうぞ。先に行ってください」 

 高見沢は早足になる。悠介に合わせて歩いてくれていたのだ。先輩たちのペースは速い。競歩に近いスピードだ。
 どんどん背中が小さくなっていく。しかしむやみに追いかけてはいけない。大事なのは一歩一歩、自分のペースを守ることだとわかってきた。

 サマスペの過酷な毎日に変わりはないが、連日数十キロ歩いていると、気がつくと何も考えていない時がある。

 その間は疲れも足の痛みも感じない。一種のランナーズハイのようなものだ。今日もその境地を目指すことに決めた。
 よし、ここから無念無想だ。

「追いついた」
 その声は。

 振り向くと目の前に由里がいた。
 悠介を追いかけてきた? 

 由里は緑のランシャツを着て、短パンの下に黒いタイツをはいている。
 本日も可愛い。無念無想どころじゃない。

 由里の肩越しに後ろを見た。いつもセットのアッコはいない。何かと悠介になついて寄ってくる次郎もいない。おっかない顔のゴリラも。

 パーフェクトに二人だけだ。二人きりで歩く時間がようやく訪れた。これは太宰府天満宮の神様の思し召しに違いない。
 悠介は後ろ手に天満宮で買った鷽のストラップを撫でた。

「いい天気ですね」
 何を言っているのだ。
「いい天気っていうか、悠介君は暑くないの」
 由里は手で顔をあおいだ。

 悠介、集中するんだ。この機を逃してどうする。なんのために逃げずにこの行軍を続けてきたんだ。

「昨日は大変だったね」
「いえ、とんでもないです。夕食の時間を遅らせてしまって、ご迷惑を掛けました」

 硬い。硬いぞ、悠介。

「大丈夫。みんなアクシデントには慣れてるから」
 由里は軽く頭を下げる。

「ごめんね、悠介君のこと疑って。涼君、心臓の調子が悪くなってお母さんを呼んだんだってね。それじゃ私だって引き留めないよ」
「あっ、いえ。黙っていてすいませんでした」

 この瞬間、悠介は次郎に感謝した。
「私、涼くんのことも悠介君のことも信用してなかった。駄目な先輩だよね。今後は教訓にするから。メンバーを疑うなって。
 たとえサマスペで初めて会った新人だとしてもね」

「えっ、初めて? 初めてじゃないですよ。由里さん、勧誘チラシをくれたじゃないですか。それで俺、入会名簿に名前を書いたんですよ」
「そうだっけ。たくさん新人がいたから覚えてないの」

 のけぞりそうになって悠介は由里を見た。悠介はサマスペの前に二度も由里を見ている。チラシを渡された日、それと由里が子どもを助けた日だ。

 自分が悠介を勧誘したことは覚えていてほしかった。

「それより野犬が小屋に飛び込んできたんでしょ。私、そこを聞きたかったんだ。次郎君、目をつぶっていたみたいで要領を得ないの」
「……いやあ、大変でしたよ」

 走り回る野犬が戸を破って入ってきた瞬間や、救出に来た大梅田と玲奈のことを身振り手振りで話した。

 調子が出てきた。由里は頷きながら聞いている。

「でもなんで野犬が集まってきたんだろうね。向こうだって人間を警戒すると思うんだけど」
「それが謎なんですよ」

 ウインナーを食べながら歩いていたことは、決してしゃべらないと次郎に約束させた。あの肉のたまらない匂いが、腹を空かせた犬たちを呼び寄せたのは明らかだ。

 危機一髪のところで難を免れたドラマチックストーリーが間抜け話になってしまう。そして差し入れを食べたと言ったら、更にややこしくなる。斉藤の説教など二度と御免だ。

「それにしても危ない合宿ですよ。高見沢さんに聞いたら、ずっと前から続いているらしいけど」
「そんなに危ない? 今は幹事がスマホやタブレットPCを持ってるもの。昔ほどじゃないよ」
「……そうですよね」
「昔はケータイもなかったんだから。電話を探さないといけなかったのよ」
「事故があっても連絡も取れないですよね」
「それがサマスペなのよ」

 由里が人差し指を立てた。
「自分たちで何とかすることを学ぶ旅なの。だから私は今だって幹事がスマホとか持たなくていいと思うんだけどね」
「……俺もスマホに頼りすぎる生活はよくないと思ってました」

 由里と話していると調子が狂う。簡単にはこの人を理解できそうもない。

「犬、怖かった?」
「もちろん。食べるなら次郎をお先にどうぞ、ですよ」

 由里がくすくす笑う。世界の彩度が鮮やかに上がる。

「うらやましい」
「えっ」
「一生の思い出になるよね」
「思い出ですか……」
 足を止めた。

 絶好のスルーパス。
 ここだ、悠介、シュートチャンス。

「どうかした、悠介君」

 僕には今、あなたと歩いているこの瞬間が一生の思い出です。

 口の中で唱えた。唾を飲み込む。由里を正面から見つめて口を開く。

 ひたひたと後ろから足音。
「わっ」
 背中を突き飛ばされた。

「何、突っ立ってんの、悠介」
「出た。アッコ先輩」
「出たって、何よ。失礼なやつ」
「いや、あの」
「由里、旗が見えてる。ラスト、走るよ」

 アッコは風のように走り去る。
「アッコ、ちょっと待って」

 由里がその背中を追って駆け出す。ちょっと待って。

 取り残された悠介は一人、呆然とする。せっかくのチャンスが見る見る遠ざかっていく。二人は競争でもしているような走り方だ。

 旗持ちでも伴走でもないのに、何が嬉しくて走るのか。二人がスパートする先のガードレールに『レッツ・ウォーク!』の旗が見えた。休憩地点だ。
 横断歩道を渡ったコンビニの駐車場に、先を歩いていたメンバーが何人かいる。

 悠介は歩きながらリュックに手を回して鷽をぐいっと握ってやった。 
五十円じゃ賽銭が足りなかったか。

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