サマスペ! 九州縦断徒歩合宿(4)
「悠介、起きろ」
遠くで声がする。手足がしびれたように力が入らない。
「食器持って来いよ。メシがなくなるぞ」
一発で目が覚めた。リュックからアルミ製のキャンプ用食器を素早く取り出して、手招きする二年の食当、高見沢の元に走った。
「なんだよ、悠介、その顔は」
高見沢に指を差された。黒縁眼鏡をかけた高見沢は、悠介が高校生の時、教育実習に来た大学生に似ている。
「えっ、何かついてますか」
車座に爆笑が起こる。
「床の跡がついてるよ」
頬に指を這わせると、くっきり筋が走っている。寝返りも打たなかったようだ。
高見沢が釜のご飯をしゃもじでよそり、受け取ったライトが鍋のふたを開けて、カレーを慎重にかけてくれた。小学校の給食の時間を思い出す。
アッコが手を上げた。
「報告です。生意気な悠介君ですが、ひいひい言って走りましたよ。旗持ちは合格です」
メンバーの顔を見た悠介は、アウェーではなくなったことに気づいた。自分は二十二キロを歩いたみんなの車座の輪の中にいる。あの過酷な旗持ちをしたおかげだ。
胸が温かいもので満たされた。照れ笑いをして空いている場所に座ると、胃が締めつけられるように痛んだ。さっきの痛みよりも強く、それが悠介の記憶を無理やり呼び起こす。
机。
教室の隅にぽつんと一つだけ置かれている。茶色い天板がパイプ製の脚に支えられた簡素な生徒用の机。悠介の机だ。
忘れることなどできなかった。
悠介は俯いたまま記憶を振り払うように目を固くつぶった。もう終わったことだと自分に言い聞かせながら、息を深く吸って吐いた。この痛みには慣れている。
あの記憶から気持ちを逸らせば、痛みは消えていくこともわかっていた。
カレーの匂いが戻ってきた。
悠介はそっと目を開けたが、みなは自分のカレーを凝視していて、悠介の様子に気がついていない。
正面に涼が座っていた。元気のない顔をしている。涼は長身のイケメンで、女子会員の中では、今年の新人、ダントツ人気ナンバーワンらしい。悠介は密かに平野由里獲得の仮想敵国に位置づけていた。しかし敵国は疲れているのか、まったく生彩がない。あれでは相手にもならない。
「よし、じゃあ、ライト」
水戸がライトを促す。
「あっ、はい。一同、正座」
照れくさそうに、しかし胸を張って言う。食当の役割なのだろう。
「一年、正座は最初と最後だけでいいからな」
水戸が付け加えてライトに頷く。
「それでは姿勢を正して、いただきます」
「いただきます」
全員が復唱する。悠介もほとんど怒鳴るように言って、カレーにスプーンを突っ込んだ。胃の痛みには何か食べた方がいい。胃酸のせいだということはわかっている。
夢中でかき込んだ。ジャガイモ、ニンジン、玉ネギ、肉は豚が少し。何も足さない、何も引かない。ジス・イズ・カリー。美味かった。
「うまい」と大梅田が唸った。
「やっぱサマスペはカレーだね」
鳥山が茶髪の頭を振って、しみじみ言う。
「お代わりってあるんですか」
悠介が聞くとライトが手を上げる。
「あるよ。一人一回だけど」
空になった食器を持って立った。
「わっ」
よろめいて隣の斉藤の肩に手をつく。
「危ねえな、悠介。しっかりしろ」
「すいません。足が痺れて」
見回すと足を崩してなかったのは悠介だけだ。食べるのに夢中になっていた。足をさすりながらライトの所に歩く。食当の高見沢とライトの隣には、大釜とたらいのような鍋がある。
ライトがご飯とカレーをよそってくれた。
「もう具はあんまりないからね」
それを聞いたメンバーが次々に立ち上がって、お代わりに殺到する。
「ちょっと待ってください。順番によそるから」
「こら、斉藤。あたしの方が先でしょ」
アッコが斉藤の髪の薄い頭をたたく。
「ライト、俺のカレー、少ねえぞ」
囲まれたライトが怯えている。由里と涼はお代わりしないのか、座ったままだ。悠介はカレーが余るという事態に備えて、少しご飯を残してスタンバイした。
「水戸さん、もう完売です」
ライトが悲鳴を上げた。斉藤の食器の上で鍋を逆さにして振っている。悠介は残しておいたご飯を口に入れてゆっくり噛みしめた。
甘い。ただの米がこんなに甘いのは発見だ。
「しょうがないな。おい、高見沢、ライト。あれ、出してやれ」
水戸が言った。ケーキか何かあるのだろうか。お堂を出て行った二人がビニール袋を持ってきた。
「これ、明日の朝食用に買ったんだからな。我慢できるなら明日に取っとけよ」
高見沢とライトは全員にリンゴを丸のまま、一個ずつ配った。
オンリー・アン・アッポー?
「あっ、今の悠介の間抜けな顔、撮っとけばよかったなあ」
デジカメを首にぶら下げた鳥山は、もうリンゴにかぶりついている。
「洗ってきたから、そのまま食べて大丈夫だよ」
ライトが一年の顔を見て言った。普段なら農薬が、とか考えそうだが今はどうでも良かった。食べられるものは何でも腹に入れておかなければ。
赤い皮に歯を立てた。
「東京の人は、リンゴを丸ごとかじるんか」
隣に座っていた同期の次郎は関西出身だった。東京弁に直そうとしているのか、どこか言葉や抑揚がおかしい。
「そんなことないんじゃないか」
「この夕食、意外に栄養バランスいいかもなあ。ご飯に肉に野菜にフルーツ。リンゴは皮に栄養あるっていうし」
次郎が指を折りながら講釈している間に、悠介は皮どころかリンゴの芯に極限まで近づいていた。種は……食べられないだろうな。
「みんな、聞いてくれ」
大梅田だ。
「初日の行程は予定通りだ。明日は大分県の日田市に向かう。今日は午後スタートだったが、明日からはいよいよ一日歩き続けることになる」
単純に考えても倍の距離を歩く、いや、走りながら歩くということだ。
「今日はゆっくり休んでくれ。消灯は九時、明日の起床は五時だ。以上」
「九時?」と次郎。
「五時?」と悠介。
お子さまの寝る時間とお年寄りの起きる時間だ。今度はライトが立ち上がった。
「食当から連絡事項です。食器は各自、台所で洗ってもらいます。洗剤は控えめに使ってください。洗顔、歯磨きもそこでお願いします。トイレは台所の反対側にあります。汚さないように注意してください」
ライトは「えー」と言葉を切って目を泳がせた。水戸が「あと銭湯な」と横で言う。
「そうでした。お寺に来た道をさらに五百メートルほど行くと、銭湯があります」
「ラッキー。初日から銭湯あったんだ」
アッコがガッツポーズをしている。
「入浴料は五百円だそうです。入る人は水戸さんにお金をもらってください。後日、精算します。それで、ええとですね」
今度は言い憎そうにする。水戸が笑って手を上げた。
「銭湯に入った振りして、五百円で買い食いするなってことだ」
なるほど、その手があったか。髪とタオルを水道で濡らして帰れば、ばれないだろう。楽勝だ。
「そんな奴は死刑だからな」
大梅田が新人をぎょろりと睨む。今日のところはやめておこう。
「それじゃ台所、案内します」
ライトが空になった鍋と釜を抱えた。悠介は米粒一つ無く、カレーもすべてなめ取った皿を見た。
「洗わなくても良いような」
呟くと次郎に笑われた。
「夏だからな。一応、洗っとこうや」
食器を順番に洗い、歯も磨いて戻ると、特にやることはない自由時間だ。悠介は、はたと気づいた。スマホとゲーム機がないと、どうやって時間をつぶせばいいのかわからない。
二、三年生は板の間に寝転がって文庫本を読んだり、おもちゃのように小さい将棋を指したりしている。奇妙な光景だ。タイムマシンで昭和に来たらこんな感じだろうか。
仕方なく片づけてあった古新聞を手に取る。『ロシアの情報工作、ウクライナ侵攻の前兆か』という記事を読んだ。この頃に何とかできなかったのだろうか。
「なあ、悠介。銭湯、どうする」
次郎が寄ってきた。顔に手持ちぶさたと書いてある。
「俺はいいや。往復一キロだろ。もう歩きたくない。旗持ちだったしさ」
一人になって今の自分の状態を点検したかった。
「そうやったなあ。アッコ先輩の伴走、大変だったんか」
新聞に目を落としたまま黙って頷いた。答えると次郎の暇つぶしの話し相手にされてしまう。
「由里さんもいたんやろ。うちのツートップやな。サマスペ初の女性メンバー」
「えっ、そうなのか」
顔を上げた。次郎の話に俄然興味が湧いた。
「知らんのか。俺も水戸さんに聞いたんやけどな。去年、あの二人がどうしてもサマスペに参加したいって粘ったらしい」
アッコにあの勢いで迫られたら、びびるだろう。
「それでそん時の幹事長が困ってな、断るために山手線一周歩けたら考えるって、言ったんやと」
「山手線? それで? いや、ここにいるってことは」
次郎が首を縦に振る。
「涼しい顔で歩いたらしい」
「それ……何キロあるんだ」
「四十五キロって言ってたかな。それを六時間で歩いたそうや」
「吐きそうだな」
「コースを教えて一緒に歩いたのが水戸さんでな。二人が時々走り出すんで、ついていくのが精一杯だったそうや」
「半分マラソンだよな、それ」
悠介が初めて由里を見た時もランニングの途中だった。
「まああの二人は猛者やな。悠介が疲れ果てるのも無理はない」
陸上部のスターと応援団員、確かに豪華な組み合わせだ。
「由里さんって華奢な感じだし、体力なんか無さそうだけどな」
「つんつん姫な」
「何それ」
「由里さんは取っつきづらいって評判や」
「そうなんだ」
「話してても上の空やし、冗談言っても笑わないやろ。笑ったら罰金取られるとでも思ってるんちゃうか。一、二年の親睦カラオケにも来なかったしな」
つれなくされてるのは悠介だけではない。貴重な情報だった。
「やっぱり女の子は愛嬌が大事やわ。可愛い女子のにっこり笑顔が男の休息なんやからなあ」
「まあ……そうかな」
悠介は女子と交際したことがないから、次郎の言うことがピンとこない。
にっこり笑顔どころか由里につれなくされるほどに胸がときめく。その初めての心持ちが不思議で楽しい。由里に会ってからの悠介はナチュラルハイになっている。
明日は由里と二人で歩こうと決意する。しかし由里のペースは速い。左のかかとの絆創膏をそっとめくった。十円玉大の水膨れができている。
「おっと、でかいのつくったなあ」
「やっぱり潰しておこうかな」
「あかん、あかん。その皮の中の水はリンパ液だから。細胞を再生してくれるんだぞ」
「よく知ってるな」
「ミーティングで注意されたんや。水膨れはほっとくのが一番ってな。ただ清潔にしないと。庭の水道、行こうや」
靴をつっかけてお堂から出た。もう薄暗くなっている。悠介は首に巻いたタオルを水で濡らして、足を慎重に拭いた。この足はどこまでもってくれるだろう。
隣でしゃがんだ次郎は頭からホースの水を浴びている。肩までのロン毛がワカメか昆布のように垂れ下がる。サマスペにはどう考えても短髪が適していると思うが、何かファッション的なこだわりがあるのだろう。
「最高じゃん」
頭をぶるぶる振って盛大に水をまき散らした。
「おい、水が飛ぶって」
「悠介も、ほれ」
次郎がホースを下に向けてくれる。
「いい、自分でやるよ」
ホースを次郎から取って自分の頭にかけた。冷たい水がしみ通るようだ。
「その足、明日は擦れないようにせんと。俺が上からテープを巻いてやるわ」
「いいよ、自分でできるからさ」
「そうか……」
次郎が雨に打たれた子犬のような目をした。
悠介はタオルで頭を拭いて顔を隠した。次郎は友好的でオープンだ。仲良くしようや、悠介、と距離を詰めてくる。
次郎が嫌いだとかいうことではない。
怖いだけだ。
顔を上げると次郎の姿はなかった。ほっとした。中学卒業以来、こんな気持ちにはならなかった。悠介は中学三年間のことは記憶に蓋をしたつもりだった。高校で少しずつ傷が癒えて、上京して環境が変わった今は、もう過去のことだと思っていた。
胃はまだ重苦しい感じがする。もう一度顔をゴシゴシと拭く。
「悠介、これ、渡しとく」
次郎がテープを差し出していた。
「どうせ持ってないんだろ。これ、テーピング専用で通気性がいいんや。使ったら返してくれな」
自分のリュックから出してきてくれたらしい。悠介は深呼吸した。
「悪いな。借りるよ」
次郎がにっとした。
「怖い顔してたぞ。なんか悩み事か」
「いや、なんでもないんだ」
笑ってみせた。顔は強ばらなかった。大丈夫。普通に振る舞える。
東京暮らしを始めた悠介は、各地の高校から集まって来た新入生の中に自然に紛れ込めた。キャンパスは知らない学生ばかりで注目されることもない。彼らと話を合わせることは難しくなかった。
コンビニのバイトを始めたが、店のスタッフとは自然に接している。何も問題ない。
しかしこのサマスペは違う。そんな上っ面の付き合い方ではごまかせない。こんな旅だとは思わなかった。
「そんなら行こうか。そろそろ寝る支度やぞ」
悠介は頷いてタオルをもう一度絞った。
お堂に戻ると板の間には寝袋がいくつか敷かれていて、もう寝そべっている先輩もいる。
「手が空いたら敷いときな。もうじき消灯だから」
高見沢が右手の床を指さす。
「この辺に、頭はこっち」
リュックに縛ってあった寝袋をほどいた。お堂の左手の隅にどこから借りて来たのか、屏風が立ててある。竹林の中から虎がにらんでいる。
「あれは何ですか?」
「屏風の向こう側にも寝袋が敷いてある。女子だからな」
銭湯から戻ったアッコと由里は虎の前でストレッチをしている。更にその手前、女子と男どもを隔てるように寝袋が二つ、横一列に敷いてあった。大梅田と水戸がその上に座っているから、二人はここで寝るのだろう。
あれは鉄壁のガードだ。正副幹事長は地図を見ながら何か話し込んでいる。明日からの行程を相談しているようだ。
悠介と次郎は、二人の寝袋に垂直になるように、拡げた寝袋を並べた。
「悠介もマミー型やな。知ってるか、マミーってミイラのことなんだぞ」
次郎がにやりとした。脅かしているつもりらしい。うろうろしていた鳥山がカメラを構える。
「そうそう。こんな配置で発見されたミイラの棺をテレビで見たことあるよ。エジプトだったな」
「先輩、やめてくださいよ。ここ寺ですよ」
次郎が顔を引きつらせる。鳥山が笑って他のメンバーの所に歩いて行く。
「今、何時」
土の中から漏れてくるような低い声。
「わっ、何や涼か。もう脅かさんでくれよ」
次郎の隣の寝袋から、ミイラならぬ涼の顔が覗いた。
次郎は時計に目をやる。
「八時五十分やけど、涼、具合悪いんか。さっきカレーのお代わりしなかったやろ」
涼は目に力がない。彫りが深いので余計に陰が目立つ。
「風呂に入ったら眠くなって」
次郎が涼の顔を覗き込む。
「涼、ほんまに大丈夫か」
「……ノープロブレム」
次郎が真面目な顔をしてから笑った。
「銭湯に行ったんやもんな。それだけ元気なら、な」
涼の寝袋をぽんぽんと叩く。
「消灯五分前です」
ライトが大声を上げた。全員が寝袋にくるまる。ファスナーを閉める音がした。ライトと高見沢は、懐中電灯をお堂の対角線上に二つ向き合うように置いた。これも食当の仕事らしい。
「消灯」
ライトが壁のスイッチを押して、天井の蛍光灯が消えた。お堂には懐中電灯の頼りない明かりが二筋だけになる。沈黙、そして無音。
悠介は細く長く溜め息をつく。闇の中で横になっていると、水膨れになった踵が神経に障る。皮が破けていたら痛くて眠るどころじゃなかったかもしれない。
絆創膏をくれたアッコに感謝した。いや、この水膨れは彼女に追い立てられたせいだ。
長野の山育ちだから足には自信があった。新人歓迎のウォーキングイベントは十キロを歩いたが余裕だった。九州を縦断すると聞いたときも、女子が参加するのだからハイキングに毛が生えた程度だろうと高をくくっていた。
大間違いだ。サマスペはまさにスペシャルだった。
誰かがいびきをかき始めた。そして二重奏、三重奏になる。寝袋の中で耳を塞ぐ。これでは眠れない。旗持ちというミッションをまっとうして初日をやり過ごしたと思ったが、寝付くまで試練は終わっていなかった。
右足が熱を持っているのを感じる。左足をかばって歩いたからだ。そちらに意識を向けると、どんどん熱くなる。右のふくらはぎを両手で掴むようにして擦る。芋虫のような自分が情けない。
しかし問題はそれだけではなかった。
腹に片手を置いた。あの胃の痛みは警告だろうか。
サマスペは僅か半日で、悠介が封印していた記憶を引きずり出した。
由里との出会いに運命を感じて衝動的に参加したサマスペだったが、悠介はとんでもない場所に自分から飛び込んでしまったのかもしれない。
合宿は九日間。気が遠くなる。
無理だ。声が出そうな口を手で覆った。
鹿児島まで歩くなんて、俺には絶対に不可能だ。
――――サマスペ初日 太宰府市~久留米市 歩行距離二十二キロ
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