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サマスペ! 九州縦断徒歩合宿(9)

 しばらく歩くと左手の山の中腹に、温泉宿がへばりついている。

「恐ろしい。崖の上に建ってるわ。秘境やな」
「あそこにも人がいる」
 道路沿いに屋台のような店が並ぶ。観光客だろうか、久しぶりに十人以上の人を見た。

「こんな秘境に来るなんてよっぽどの物好きだな」
「と言うことは、俺らはさしずめ物好きの王様ってことや」
 次郎が店をなめるように見て歩く。産みたて卵、辛子レンコン、ソフトクリーム。野菜や果物も混ざっている。近所の住民も買いに来るのだろう。

「次郎、見てたってしょうがないだろ。一文無しなんだから」
「そうやけどな。おっ、自販機がある。飲みたいなあ。ジュース」

 次郎がふらふらと自動販売機に近づく。釣り銭口に指を突っ込んだ。
「……次郎、行こう」
 次郎が思った以上に疲れていることに気がついた。かすかに足を引きずっている。

「足、大丈夫か」
「うん、ちょっと腿の後ろが痛いんよ」
「少し休むか」
「いや、休んだら動けなくなりそうだから」
「ちょっと君ら、いいかな」

 中年の男に声を掛けられた。隣には奥さんらしき人が立っている。
「僕ら、さっき松原ダムにいたんだ。君らが走り出すのを見ていたんだよ」
「ねえ、あなたたち、どこから歩いてるの」
 奥さんが男の語尾に被せるように訊いてくる。

「ええと太宰府からです」
 悠介が答えると二人とも口をぽかんと開けた。

「歩いて旅行してるのはわかったけど、まさか太宰府からとはね」
 奥さんが次郎に近づいた。しわの寄ったシャツを見ている。
「それで、この温泉に泊まりに来たのよね」
「素通りです。鹿児島まで歩くんですわ」

 夫婦は絶句したが、すぐに男が笑い出した。
「冒険じゃないか、それは。歩いて九州縦断か。いやあ感動しちゃうなあ」
「それより、ちゃんと食べてるの」
 奥さんはせっかちらしい。

「ダムで見たわよ。さっきはおにぎりだけだったでしょ」
「一日食費、三百円なもんですから」
 次郎が情けない声を出す。奥さんが目をむいた。

「三百円ですって? ああもう、なんでそんなひどい旅行をするのかしら」
 肩に掛けたショルダーバッグに手を突っ込んで、包みを取り出した。
「これ、食べて。このまま食べられるから」

 ビニールパックには『こだわりの手作りウインナー』とラベルが貼ってある。土産物だろう。太くてうまそうだ。悠介は唾を飲み込んだ。

「でも差し入れはお断りするようにって、先輩に言われてまして」
 こら、余計なことを言うな、次郎。

「もうばかね。自販機のお金を拾って歩いてる人たちが、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
 人たちって、悠介も釣り銭泥棒だと認定されているのか。

「そうだよ。先輩には黙っていればいいからな。その辺で食べちゃえよ」
 男はさっきから、高ぶった顔をしている。奥さんはウインナーの入った袋を次郎に押しつけた。
「気をつけるのよ」

 二人は傍らに停めてあったスポーツカーに乗り込んだ。
「いやあ、青春っていいなあ」
 小気味いいエンジン音とともに、温泉街の方に去って行く。夫婦でドライブ旅行を楽しんでいるのだろう。

「悠介、いいもん、もらったな」
「さっそく食べよう」
「それはあかんよ。差し入れをもらったときは、宿まで持っていってみんなで食べるのがルールやからな」

 驚いた。もらったのは俺だからと、一人で食べようとするんじゃないかと思っていた。

「固いこと、言うなよ」
 次郎は「あかん、モラルの問題や」と言ってリュックに入れてしまった。

「釣り銭泥棒よりはいいと思うけどなあ」
「何を言う。ウインナーは俺のあのパフォーマンスのおかげやぞ」

 次郎の足取りが軽くなったのは、ほんの一時だった。温泉街を離れると、目を留めるものもない単調な景色に戻る。

「なあ悠介。ここ、日本かな」
「おそらく。証明するものは、何もないけど」
 ごくたまに現れる道路標識がなければ、ここはただの緑深い山の中だ。
どこの国かもわからない。次郎は肩を落として歩く。へたばっている。日が傾いてきた。大きな羽を見せて鳥が悠然と飛んでいる。鷹だろうか。

「もう五時か」
 次郎がぽつりと言った。

「悠介、すまんな。俺がもたもたしてるから。ほんとならとっくに小国に着いているはずやのに」
「いいよ、俺も靴擦れしてるからさ」

 そうは答えたものの悠介も不安だ。標識、標識、小国の標識、と頭の中で繰り返しながら歩いた。カーブを曲がった所に縦長の看板が立っている。

「次郎、おい、あれ見ろよ」
 ずっと下を見ていた次郎が顔を上げる。

「みんなでつくろう……おっ、おおっ」
「安心の町、小国町、だ。やった」

 久方ぶりに次郎が笑顔になる。
「立ちんぼは? なあ、立ちんぼはどこや」
「気が早いよ。熊本銀行がある交差点って幹事長が言っただろ」

 それでも次郎の歩くペースは上がった。二人は励まし合いながら歩いた。ちらほらと民家が見える。

「おお、家がある。町だ。ゴールだ」
 次郎が飛び上がった。しかし家に明かりが点いていないのはなぜだ? その先はまた人気のない道に戻ってしまった。町じゃない。辺りはどんどん暗くなってきた。

「こんなに暗くちゃ、標識も見えないな」
 街灯がない。信号もしばらく見ていない。悠介たちは懐中電灯を出した。もはやトンネルと変わらない状態だ。

「悠介、道、これで合ってるんかな」
「実は気になってたんだ」
 小国町の中心部に近づいているのなら、もっと家や店が出てくるはずだ。

「さっき分かれ道があったけど、もしかしたらあそこで間違えたかも」
 悠介たちはまったく違う道を、励まし合いながら歩いていたのだろうか。

「やばいんちゃう?」
「もう少し進んでみよう。何か出てくるだろう」

 何もなかった。しんとした闇にくるまれただけだ。前にも後ろにも明かりが見えない。車の一台も通らない。歩いている道が国道なのか県道なのか、ただの林道なのかもわからない。暗いから枝道に入ってしまった可能性は十分にある。

「なあ、俺たち、遭難するんと違うか」
「大げさだな。雪山じゃあるまいし。いざとなったら寝袋で寝ればいいだけだろ」
 笑ってみせた。

「そうだ、次郎。こういう事態になったわけだし、あれ食べてもいいだろ」
「そやな。モラルとか言ってる場合じゃないよな」
 次郎がウインナーパックを取り出した。悠介は懐中電灯で照らす。

「エネルギーチャージしないと、やな」
 次郎がパックを開いた途端に、よだれの出そうな肉の香りが広がる。
「すげえ、いい匂い。ほら、悠介」

 二人は同時にウインナーをかみちぎった。パキンという音が夜道に響く。
「うまあい」
 自分の声がこだました。

「ほんまやなあ。もう一本、食べよう。十本あるから半分ずつな」
「次郎、もう一本食べて残りは取っとこう。夜中に腹が減るかもしれない」
「……そうやな。そうしよか」

 悠介たちは貴重なごちそうを咀嚼しながら先に進んだ。
「あっ、悠介。あそこ」

 次郎が照らした右手の前方に、小さな箱のような建物が見えた。
「バス停じゃないか」
「そしたらバスが来るよな。頼めば乗せてくれるやろ」

 道から外れて近づいていくと、ふっと明かりが点いた。センサー式だ。今にも切れそうな電球だが、瞬く光に心底ほっとした。電球の下の引き戸は上半分がガラス窓になっている。中には誰もいない。建物と言うより小屋だ。

「入りますよ」
 建て付けが悪いらしく開けるのが大変だった。

「ごめん、次郎。バス停じゃなかった」
 中に入ると悠介のワンルームの部屋より狭い。壊れそうな木製の椅子が三つあるだけだ。次郎はその椅子に腰掛けてリュックを下ろした。

「とにかくちょっと休もうや。下手に動かない方がいいと思うし」
「だからそれ、遭難しかけた人のせりふだって」
 悠介もリュックを肩から下ろして水を飲んだ。

「地元の人が立ち寄る場所なんかなあ」
「林業をしてる人が多いみたいだから、連絡場所とかにしてるのかもな」
「腹減ったなあ」

 ウインナーをもう一本ずつ食べた。チープカシオは六時半を過ぎたところだ。もう食事の時間だ。
「今日の夕飯、なんやろなあ」
「あの食費じゃそんなにいろいろ作れないからな。どうせカレーかシチューだろ」

 女子が混ざってはいるが、雑そうなアッコに期待はできない。
「ああ、ウインナーじゃ足りん。みんなもう食べてるやろな」
「お代わり争奪戦が始まってる頃だな」
 待たされたりしたら暴動が起きるだろう。悠介なら先頭に立っている。

「本当に俺たちを放っておいて食べてるんかな。誰か捜しに来ないんかな」
 次郎が膝を抱えるようにして言う。
「捜すって言ったって、ここ、どこかもわからないだろ。真っ暗闇だし、捜しに来たらみんな迷ってしまう」
 二次遭難と言おうとした口を閉じた。

「でもなんか方法があるんやないか。俺たち、仲間やぞ」
「来るわけないよ。危険じゃないか」
 次郎は「ああ、そやったな」と呟く。
「悠介は仲間とかそう言うの、嫌いなんやったな。関係ないんだもんなあ」
 次郎は黙り込んだ。悠介も何も言わなかった。風が出てきた。木の枝がざわめき、戸がガタガタと鳴るのをしばらく聞いていた。

「一人で閉じてるのにはわけがあるんだよ」
 悠介が言うと次郎が顔を上げた。
「中学の時に、俺、無視されちゃってさ」
 冗談のように言った。

「無視? 誰にや」
「クラスメート全員。卒業まで三年間」
「三年間? きついな、それ」

 悠介は話し始めた。これまで誰にも言わなかったことだ。
「中学に入学してすぐの頃に、野村っていう同級生が先輩に目をつけられてさ。呼び出されたんだよ。それで正義感の強そうな奴が、助けに行こうって男子を集めて声を掛けたんだ」
「ありがちやな」

「でも、俺は行かなかった。野村は小学校が一緒で、乱暴でいじめをしていたから。いっそ懲らしめてもらいたいと思ったくらいだ。
 だからさ、俺は関係ないから、って言って帰ったんだよ。その後、クラス会議になって、全員で野村を取り返しに行ったそうだ」

「全員って女子もか」
「そう。盛り上がったんだと思う」
「クラスが結束したんやな。青春ドラマやないか」
「放課後、一斉に動いたから教師も気がついて、大騒ぎになったらしい」

「そこに悠介はいなかったわけか。それはちょっと具合悪くないか」
「次の日に登校したら黒板に、若山悠介は転校しましたって書いてあった」
「なるほどなあ」
「自分でも失敗したと思ったし、助けに行かなかった引け目もあった」
「それで三年間、つまはじきか」

「どうしても学校に行けなくなって、二か月くらい休んだ。それもいけなかったのかもしれない。登校したときには、もう完全に孤立状態だったよ。野村がクラスのリーダーになってた」
「先生は……教師はどうしてたんや」
「見て見ぬ振りだった。暴力とかはっきりしたいじめがあったわけじゃなかったし」
「余計、陰湿やな」
 次郎が鼻をすすった。

「昼食の時って、仲の良いグループごとに机を合わせて食事するよな。俺は教室の隅にたった一つ離れた机に座ってパンを食べた。その頃からずっと胃が痛くてさ」
「それ、ストレス性胃炎やな。可哀想になあ、そうやったんか。ごめんな」
 悠介は涙を腕で拭う次郎を見て驚いた。

「また同じ思いをさせてしまったわ。涼の病気のこと、俺が先輩たちに言えばよかったんやな。
 それで? それでどうしたんや」
「……気持ちを動かさないようにしたよ。みじめだとか悲しいとか悔しいとか、そういう感情を殺したんだ。
 高校に入っても新しいクラスメートに話し掛けることもできなかった。友人関係に臆病になった。腹を割って本音を話せないから、表面上の付き合いでごまかしてきた。距離を詰められると正直怖いんだ」

「怖い?」
「そう。この気持ちはどうしようもない」
「……」
「友情とか親友とか、全然信用してない」
「閉じちゃったわけやな」

「閉じたっていうのかな。でも高校では受験勉強という口実があった。それが距離を置く言い訳になったんだ。同級生との会話は勉強や受験の情報交換だけだったけど、それで十分だった。
 悩みを相談し合うような場面からは逃げていた。本音は決して見せなかった。それで良かったし、その関係性が安心できたんだよ。
 付き合いより勉強に時間を費やした結果、志望校に入学できた。正解だろ」

 悠介は笑ってみせた。次郎は首に掛けていたタオルで顔を拭いた。
「寂しくないんか。持つべきものは友って言うぞ」
「次郎は本当に友だちが必要だと思うか」

「俺は一生の親友がほしいと思ってるよ。何を言っても誤解せずに信用してくれる、時には厳しく指摘してくれる、そういう存在やな。
 これから社会に出るやろ。仕事とか彼女のことで、困った時、悩んでる時、真剣にとことん話を聞いてくれる奴がいたら嬉しいやんか」
「一人でもやっていけるんじゃないかと思ってる」
「悠介はあきらめてるだけやろ。だから一人でもなんとかなるってのが先に来てるんや」

 次郎の顔を見た。
「そうかも」
「意固地になってるんやろ。自分をつまはじきにした仲間たちに、俺は一人でやっていけるぜってとこを見せたいんや」
 悠介は黙って次郎の言葉を考えた。

「あれやな、悠介の今の状態は病気やな」
「病気なのかな」
「けがの後遺症と言った方がいいかもしれん。どっちにしてもやな、病気なら治療、後遺症ならリハビリをせんといかんぞ。涼と一緒や」
「どうやって?」
「それは……俺は医者じゃないから、わからんけども」
 気が抜けた。

「なんだよ、それ」
「俺だって偉そうなこと言えんもん。実を言うと俺もな」
 何か言いかけた次郎が黙った。

「悠介、あの音、なんやろう」
 耳を澄ませた。がさがさと何かを踏みしめる音がする。
「誰かいるみたいだな」
 立ち上がって懐中電灯で窓越しに小屋の前を照らした。

「な、なんだ、あれ」
 人じゃない。犬だ。何十匹もいる。
 光を浴びた犬の群れが走り回っている。
「野犬だよな。大きい。レトリーバー並みのもいる」
 もちろんレトリーバーのようなペットになる犬種じゃない。

「なあ、あれ、ぐるぐる回って何をしてるんかな」
 懐中電灯の細い光では、はっきりとしないが、時折、犬の顔に光が当たる。歯をむき出してこちらを威嚇している。

「俺たちに……関心があるんだ」
「悠介、おい、こっちに来る」
 野犬の輪が小さくなって小屋に近づいてきた。

「次郎、何か、武器になるもの、ないか」
 怒鳴った。怒鳴らないと声が震えてしまう。
「外に出れば木の棒があると思うけど」
「ばか、出ちゃ駄目だって」

 激しい音と震動に悠介は後ずさった。犬が突進して戸に体当たりをした。上半分のガラスにひびが入る。一斉に犬が吠え始めた。次郎が耳を塞ぐ。

「次郎、ウインナーだ。あの匂いで引き寄せちまったんだ」
「あいつら、飢えてるってことやな」
「残りを投げよう。匂いがなくなればどこかに行ってくれるだろ」
 次郎は泣きそうな顔をしたが、リュックを開けた。
「こんなもんでいいなら、くれてやるわ」
 パックを出して右手に持つ。

「悠介、開けてくれ」
「遠くに投げろよ。せーの」
 悠介が開けた隙間から、次郎がウインナーを思い切り投げた。途端にすさまじい吠え声とぶつかり合う鈍い音がした。それはすぐに止んだ。そしてまたこちらに向かって吠え始める。

「どこにも行かないやないか」
 吠え声が大きくなる。もう犬たちは回っていない。この小屋の前に集まっている。
「次郎、あいつら、俺たちを狙ってるんだ」
「な、なんでや」
「俺に聞くなよ」

 次郎が座り込んだ。悠介は小屋を見回した。どこにも隠れられない。リュックを持って、戸の前に立った。
「次郎、戸を守るんだ。戸が破られたら……」

 次郎は床に尻をついたまま、呆けたような顔をしていた。腕をつかんで立ち上がらせる。
「すまん、悠介」

 二人はそれぞれのリュックを戸に押しつけて楯にした。片手で懐中電灯の明かりを外に向ける。野生動物は光を嫌がると何かに書いてあった。
 一瞬、吠え声が止んだ。悠介はリュックを構え直す。

「うわっ」
 強い衝撃が悠介を引き戸ごと小屋の中に押し倒した。ガラスどころか戸をぶち破って犬が飛び込んできた。どう猛な唸り声。歯噛みする耳障りな音。

 次郎がわめく。悠介は無我夢中で懐中電灯を振り回した。大型犬の固い骨にぶつかって電灯が弾き飛ばされた。
 胸が床に押しつけられて顔の上で歯が鳴った。

 食われる。犬に食われてしまう。

 両手で顔をかばった時、覆いかぶさる犬の荒い息づかいが止まって身体が軽くなった。
 まぶしい。外からの強い光。射るような光は野犬の群れを照らし出した。耳をつんざくクラクション。車が突進してくる。

 小屋の前で急ブレーキを掛けた。鳴り続けるクラクションとヘッドライトに肝をつぶしたのか、野犬の群れは散り散りになって逃げていく。
 急停止した車から、勢いよく大男が飛び出してきた。手には火を持っている。いや、あれは発炎筒だ。男は小屋に飛び込んできた。

「次郎、悠介。大丈夫か」
「幹事長」
 大梅田は発炎筒を刀のように振って、まだ残っている犬を追い散らす。

 助かった? 
 悠介は座り込んだまま呆然としていた。次郎がむしゃぶりついてきた。
「悠介、よかった。俺ら、死ぬところやったぞ」
 悠介も両手で次郎の背中を何度も叩いた。
「次郎、俺、食われると思った。顔に犬の息がかかって、もう……」

 それだけしか言葉が出なかった。何度も頷く次郎の身体も震えている。抱き合ったまま、ライトに照らされた大梅田を眺めた。そのシルエットをどこかで見たような気がした。
 そうだ、無人島で恐竜を蹴散らすキングコングの映画だ。

「おい、犬は逃げたぞ。しっかりしろ」
 クラクションは止んでいたが、まだ鼓膜がワーンと鳴っている。

「立てるか、次郎」
 そう言った悠介も足が言うことを聞かない。何か喋ろうにも、歯がかちかちと鳴るのを止められない。

「二人とも咬まれてませんか。狂犬病になったら大変ですよ」
 長い髪にワンピース。玲奈だ。どうしてここに。

「玲奈さんやないですか。大丈夫ですよ、どっこも咬まれてません」
 次郎がすっくと立ち上がる。素晴らしい脊髄反射だ。
 悠介は座ったまま身体を触って痛むところがないか確認した。悠介も咬まれてはいないようだった。

 その時、ずっと重苦しかった胃の痛みが消えていることに気づいた。腹筋を硬くしても、指でへその上を押してもなんともない。
 教室の隅に置かれた悠介の机を思い浮かべた。胃壁はぴくりとも反応しなかった。

 見上げると次郎が玲奈にへらへらと笑いかけている。その膝の裏を押してやった。次郎が「わっ」とよろめいた。

「なんや、悠介。こんな時にふざけるなっての。ほら、立てよ」
 悠介は次郎の指しだした手を摑んで立ち上がった。身体が軽い。
 大梅田が悠介と次郎の様子を点検するように見て笑った。

「どうやら生きてるようだな」
「すいません、幹事長。道に迷ってしまって」
 喉がからからだ。

「間一髪だぞ。玲奈さんが車を出してくれなかったら、やばかった」
 玲奈が胸に手を当てて、ふうっと息をつく。
「間に合ってよかったあ。幹事長さん、よくここだってわかりましたね」
「今日の道筋で間違えるとしたら、ここしかないですから」

 大梅田がスマホを出した。耳に当ててすぐに話し始める。
「ああ、見つけた。大丈夫だ。これから向かうから、先にメシにしてくれ」

 次郎が玲奈の手を握る。
「玲奈さん、ありがとう。命の恩人です」
「やだもう、大げさなんだから。あとちょっとでゴールだったんですよ」

 玲奈は大梅田に向き直りながら、次郎の手を外す。
「ねえ、幹事長さん。泊まる小学校はすぐ近くですものね」
「すぐ近く?」
 次郎のひっくり返りそうな声に大梅田が首を縦に振る。

「お前らが間違えた所から五百メートルも歩けば、立ちんぼがいたんだ。目と鼻の先ってやつだ」
「なんや、そうだったんですか」
 暗くさえならなければ楽勝だった。

「さあみなさん、乗ってください。小学校まで送っていきます。お腹すいたでしょう」
「腹へった……」
 悠介の口から溜め息のような声が出た。もう味噌汁ぶっかけご飯でも何でもいい。ミニバンに乗りかけた玲奈に、大梅田が手を上げた。

「玲奈さん、少し待って」
 俺たちに向き直って、ぱんと手をたたく。
「さてお前ら、どうする。小学校までは一キロもないけど乗っちゃうか?」
 えっ、どういうことだ?

「……や、歩きます」
 次郎がきっぱりと答えた。
 悠介は「えっ」と声を上げた。
「はあ?」と玲奈。
「悠介、歩こうや。あと一キロもないのに、車に乗ってしまうなんてもったいないやろ」
「もったいない?」 

 悠介は次郎の耳元で言った。
「お前、玲奈さんの前で格好つけてんのか」
「ちゃうわ、阿呆たれ」

「悠介、夜歩くのもいいもんだぞ」
 大梅田はにやにや笑っている。その顔は車に乗るのを選んでもいいぞ、と言っていた。
「……俺も、歩きます」
「玲奈さん、そういうわけで我々は最後まで歩きます」
「へえー」
 玲奈は細い両腕を胸の前で組んだ。あきれているのか、怒っているのか不明だ。

「そう言った後で、お願いするのもなんだけど、国道のこいつらが間違えた所までは乗せてもらえますか。後は大丈夫。それで玲奈さんは先に戻っておばあさんを乗せて、お宅に帰ってください。遅くなってしまうから」

「わかりました」
 玲奈はさっさと運転席に乗って窓から顔を出した。
「国道だってもう暗いです。私、国道に出たら小学校まで後ろから徐行してついていきます」
「おお、それは助かる。おい、乗せてもらおう」 
 ミニバンの後部座席に乗り込んだ悠介と次郎に玲奈が声を掛けた。
「アッコさん、おいしそうなチーズハンバーグを作ってましたよ」

――――サマスペ三日目 日田市~小国町 歩行距離三十一キロ+α

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