
父の事
去年の8月終わり、父が亡くなった。81歳だった。腎盂がんと肺がんを患い、最後は緩和ケア病棟に入って2週間足らずで逝ってしまった。
父は中卒だった。三人兄弟の末っ子で、兄と姉からはとてもかわいがられていた。
親戚の集まりに出ると、自分の子供の自慢話ばかりする長男と、きつい性格の男勝りな長女の傍らで、いつも所在なさそうな顔で笑っていた。
普通なら中卒では入れないような大手製紙会社の工場に勤務していた父は、当時その工場の食堂で働いていた祖母の口利きで入社したようだ。昭和45年頃は、そんなことがたまに起こる時代だったらしい。
職場では、無下にされていたみたいよ。そんな話を母から聞いたのは、私が大学生の頃だった。
同僚たちはみな父より高学歴。しかも父はもともと口下手で、人とのコミュニケーションが上手なタイプではなかった。
ある時、工場の動線の改善案を父が提出し、会社がそれを採用したことがあったそうだ。会社から報奨金が出て、母はとても喜んでいた。その金額は微々たるものであったが、母は喜び、私たちにも誇らしげに話してくれた。喜ぶ母の横で、父はテレビを見ながら何を言うでもなく黙ってビールを飲んでいた。その横顔を今でも鮮明に思い出す。
この話には後日談がある。
実はその報奨金は全額ではなかったという。上司がピンハネしていたらしい。母の兄も同じ時期に同じ工場に勤めていたため、その事実を私たちが知ることになった。母の兄は烈火のごとく怒り、その上司に直接掛け合い、またもなけなしの金額が返還された。父はその時も、一言も愚痴を言わなかった。憤った母や私がブツブツその上司の文句を言っても、フイッと私たちに背を向けてテレビを見ているような人だった。
私が大学生の頃、父がお酒を目いっぱい飲んで酔っ払って帰ってきた。「大学はどうだ?」と珍しく私に話しかけてきた。
いつもは寡黙な父なのだけれど、酔っ払うと少し饒舌になる。それに付き合うのが面倒くさくて、「まあまあ」と適当に返事をすると、「父さんはバカじゃけ、(お前は)いっぱい勉強しんさいよ。あんたは賢いけぇね。」と言ってへらっと笑った。
父が父自身のことを「バカ」だと言ったのは、後にも先にもあの時だけかもしれない。けど、あの一言に込められた父の想いが、今もたまに私の心を切なくさせる。
偏差値の仕組みも大学の難易度も、何も詳しくは知らない父だった。私が偏差値の高い大学に行った訳でもないのに、大学に行っている、というだけで、父は私を誇らしく思い、自慢に思ってくれていたのだ。
定年後は知り合いの自動車工場で、自動車整備のアルバイトをさせてもらっていた。暑い日も寒い日も、毎日お弁当と水筒をもってアルバイトに行き、貯めたお金で青春18きっぷを利用して、一人旅をしていた。「青春18きっぷって、目的地まで時間かかるのに、どこが楽しいん?」私がそう尋ねると、「電車に乗ってると、世間話をしてるおばちゃんたちの言葉(方言)がだんだん変わっていって、なんかそれが面白い」と言ってへらっと笑った。
父が亡くなった翌日、2024年9月1日、台風10号の影響で東海道新幹線の一部区間が終日運休した。通夜のため、関東から中国地方まで移動しなければならないのに、新幹線で行くことが出来ない。私は、夫と運行状況を確認しながら、北陸新幹線とサンダーバード号を利用し、なんとか丸一日かけて実家にたどり着いた。
精神的にも肉体的にも疲れていたけれど、「お義父さん、電車好きだったけぇ、俺らを使ってサンダーバードに乗りたかったんじゃない?」と夫が言い、泣き腫らした顔の母がアハハと声を上げて笑った。その言葉に一瞬救われたような気がして、父のためならもっとサンダーバードを堪能してくるんだった、と思った。そんな夫は納棺前の「湯灌(ゆかん)」で誰よりも泣いていた。
父の遺骨は、生前父が最も多く時間を過ごした一番日当たりの良い和室に置かれた仏壇の中にいる。旅行の行程を書き込んでいたメモ帳といつも旅のお供をしていた小さな肩掛けカバンと共に。分厚い時刻表を食い入るように見ながら、電車の乗り継ぎの時間を調べていた後ろ姿。
機械が好きで、やっとガラケーからスマートフォンに変えた時は、誰も好き好んで読まない分厚い取扱説明書を隅々まで読み、あれこれと画面をタッチしていた。操作方法に慣れず、変な操作をするたびに母や兄に怒られていたっけ。
私は遠くに嫁に行ってしまい、父とは20年近く一緒に暮らしていない。一緒に暮らしていた時には、両親の人生に思いを馳せるなんて思いもしなかった。彼らは、私が生まれた時から完全に「父親」と「母親」だった。悩み、苦しみ、迷い、時に自尊心を傷つけられながらも、必死に私たちを育ててくれた。時代や境遇は、常に彼らの味方ではなかったはずだ。当時の両親の年収で、子供二人を大学に行かせることは、決して簡単なことではなかったと思う。しかし、その厳しい生活の責任を、私たちのせいにしたことは一度もなかった。
子育ての神髄というものを、父と母の背中で見せてもらったような気がする。今の私がそれを実行できているのかは自信がないけれど。
父の人生の陰に隠れていた部分を、少しでも輝かせたい。そんな思いでこの文章を書いたけれど、書き進めるうちに、心の中がどんどん整理されていき、楽になるのを感じた。父を亡くしてから、様々な想いや後悔が頭を駆け巡り、心が苦しかったのだけれど、それらが一つ一つ昇華されていくような気がした。
父の人生を追随することで、私はこの歳になっても、また何か大きなことを両親から教わったような気がしている。