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怒り、続編

本日の稽古中。とあるシーンで、ある役がその時抱えている感情は何か、という話になった。その役の俳優は「悲しみ」といったが、演出家は「怒り」ではないのか、と提示した。

私設の女学校を創立した女性教師二人が、ある問題児(中学生相当)について話すシーンである。その問題児に手を焼き、彼女の親戚にあたる学園の出資者のことにも話は及ぶ。その際の、話し手の感情についてがポイントだった。

この作品の主役であるその教師がその時どんな感情を抱えているのか。俳優はさまざまな解釈をもってそれを探ろうとする。しかし、俳優が探らなくてはならないのはそこではない。それは台本に書かれた台詞を体験しながら、自分の中に沸き起こるものだ。そしてその時起こる感情は、その役のものでなくてはならない(素の自分のものであってはならない)。その役として感情を動かすためには、いつもの自分の思考の癖は抜かなければならない。私だったらこう思う、というのは「主観」なのだ。いうまでもなく、演技は「客観」であるべきものだ。

リアリズムの演技、と一言でいうけれども。俳優の身体の中はとことんリアルではない。観客にとってナチュラルに見えるものは、技巧と理論の末にきちんと組み立てられたものなのである。あらゆるMethodはそのためにある。「嘘をつかない」というけれども、それは今演じている役にとっての「嘘か本当か」であり、けっして生身の自分のものではない。

話を戻すと、「怒り」という感情について俳優と演出家の意見が食い違ったのは、それを舞台上での「怒り」なのか、生身の「怒り」なのかを語るレベルが違ったからであるのが一点。そして、「言葉」としての「怒り」の認識が全然違うことが一点だろう。本当に言葉というのは恐ろしい。日本語で「怒り」と書くとえらく強い。ニュアンスの部分が全然くみ取れない。対して、英語の「anger」は「腹立ち」「いらだち」くらいの感じでも使う。俳優の仕事というのは、このニュアンスの中から、「これだ」というものを選び取って、はっきりと表現していく仕事なのだと、改めて胆に銘じる。

シェイクスピアが「歩く影法師」と「あわれな役者」を並べて人生を表したが、俳優が扱う「言葉」と「身体」というのは過去と現在の幻であると感じる。それが確かに存在している、という証明は観てくれた人の心の中にしかない。そして、それも時間とともに薄れていくのだ。

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