2年後のしゅたいって?
2023年3月16日に「しゅたいって?」と題したトークセッションを友人たちと行いました。「主体」あるいは「主体性」をテーマに5名の大学生がトークセッションを行うイベントです。また、トークセッション全体を別の友人にリアルタイムでグラフィックレコーディングしてもらいました。
約2年が経って振り返ってみても、このトークセッションの構成はなかなか面白かったと、我ながら思います。まず、私を含む友人たち5名で「主体」あるいは「主体性」をテーマにしたエッセイを書いて、下記のnoteマガジンとして公開しました。
そして当日、私が司会として2名ずつエッセイの内容について話を聞いていくトークセッション第1部・第2部を行い、さらにその内容を踏まえて登壇者全員で話をする第3部を行いました。
元々、noteマガジンのエッセイとトークセッションの文字起こしを合わせて、ZINEでも作ろうと考えていたのですが、会社員生活が想像以上に多忙だったこともあり、この2年間手付かずのまま放置してしまっていました。当面は編集できる見込みもなく、このままお蔵入りになるのも勿体無いので、録画がちゃんと残っていたトークセッション第3部だけ文字起こしをnote公開します。私たちの学部時代の感覚が表れているやりとりだと私は思っているので、ぜひお読みいただけると嬉しいです。感想等をいただけるともっと嬉しいです。
登壇者紹介
2023年3月当時の登壇者紹介を掲載します。ぜひ各登壇者のエッセイをご覧いただいた上で、トークセッションの文字起こしをお読みください。
青木門斗(Mondo Aoki)
2001年生まれ。栃木県出身。東京大学教養学部在学中。NPO法人KATARIBAの運営する文京区青少年プラザb-labにて活動中。「自分と他人の関係性」を哲学のなかで探る一方で、同時に、対話の場づくりや居場所づくりなどの実践にも取り組んでいる。また、写真作品の制作も行っており、学問・芸術・実践の両立を試みている。
筏千丸(Chimaru Ikada)
早稲田大学創造理工学部建築学科所属。建築デザインへの市民参加に関心を持ち福島県双葉郡葛尾村で家具制作や民家改修にたずさわる。また、歴史的な観点から人間の原初的な営みとして建築するという行為に目を向け学習研究に取り組んでいる。日常的に時間が空けば映画館に通う。
姜利英(Riyon Kan)
東京大学農学部応用生命科学課程獣医動物行動学研究室所属。東京大学のギャップイヤー制度・FLYprogramの7期生。FLY Program中に葛尾村での復興創生インターンシップ(2020年春)に参加。その後定期的に葛尾村を訪れている。教育や心理分野に興味を持ち、哲学対話のファシリテーターや、日本最大の高校の探求学習の授業作成を経て、現在は葛尾村でのハッカソンを企画している。休みの日はゲームやネトフリに時間を浪費している。
堀田滉樹(Kouki Hotta)
2000年生まれ。東京経済大学在学中。2022年度は大学を休学し、地元である新潟県に空き家を取得。その一部を活用して「たてよこ書店」という書店を12月に開業した。今後は空き家の他の部分も活用して、小さい複合施設化を目指す。休みの日は多摩川の河川敷でボーッとしている。
余田大輝(Hiroki Yoda)
2001年生まれ。千葉県出身。慶應義塾大学経済学部在学中。首都圏と葛尾村を往復する大学生活を過ごす。 学部生として原発被災地域における移住定住促進政策にまつわる研究に取り組みながら、 Webエンジニアとして人に住まれなくなった家の暮らし方を友人たちと模索している。 たまに小さなカレー屋さんやラーメン屋さんになる。
グラフィックレコーダー
文字起こしの最後にトークセッション全体のグラレコを掲載します。
野月そよか(Soyoka Notsuki)
2001年生まれ。東京学芸大学教育学部生涯学習コース在学中。成人学習について学ぶ傍ら、ワークショップ、セッション等でグラレコを行う。個人の資格取得から企業における組織変革まで多様な変容学習が生じる場に関わり、おとなが「いかに生きるか」を志向する学習環境について研究している。味噌汁と梅干しをこよなく愛する。
トークセッション文字起こし
余田)それでは第3部を始めていきたいと思います。よろしくお願いします。第1部・第2部では、登壇者2人ずつで自分自身が書いてきた文章とそれについてお互いが考えたことを話してきました。第3部では、参加者の皆さんに書き込んでいただいた質問をもとに話してまいります。
傷ついている話し手と聞き手
余田)「たとえば語り部が深く傷ついているとき、聞き手は主体になることができるのか?というもやもやを持ちました」という感想をいただきました。話し手と聞き手というところで「対話の中での関係性」「相互的な主体性」という門斗の話に近いのかなと思うんですけど、この点はいかがですか?
青木)難しいですね。多分ここで言ってる問い自体が多分難しいと思うんですけど。「語る人が傷ついている時って聞けるような語りをできるのか」という問いなんじゃないかと僕はとりあえず読んでいます。自分の傷ついたことをわーって話してくるのを聞いている人ってただ一方的に聞かされている感じになってしまって、ちゃんと聞くっていう主体性が発揮できないんじゃないか、主体として現れないんじゃないか、という問いなのかなと思って読んでいました。逆に、おそらく聞く側が深く傷ついている時もまた、語る人がちゃんと聞かれることができなくて語り手と聞き手の間に主体性が現れないということもおそらく想定されると思います。深く傷ついているときに傷ついていない時と同じような主体が出来上がるのかと言われると、そうは言えないような気が個人的には確かにしています。そうではあるんですけど、さっきの余田のコミュニティの話のところに対して、やっぱり僕は意義を唱えたくて、やはり最初に関係があると僕はどうしても言いたくなってしまうんですね。最初に私とあなたの関係があるんだと。だから、その傷ついているということが語りの中で癒されていくとき、もしかしたらその人の主体が途中で現れることはあるだろうと思うんですよね。語る側が傷ついていて聞く側が傷ついていない時、語る側が傷ついていて一方的な語りをしてしまう時に、やはりそれでも傷って少しは癒されていく側面が現実あって、理論上あるのか僕は今確かめることはできないんですけど、現実にそういう場合はたくさんあって、語る側が回復する中で対話がやっと始まるって事はあると思うんです。でも同時に、傷を聞くということによって聞き手もまた傷ついてしまい、やはりまた対話が成立しなくなるということはいくらでもあって、でもそれでもなぜか私たちは人に話すんですよね。そこがたぶん対話の1番面白いところだと思っていて、傷ついていて話したら主体が現れないのならば、私たちはどこかで話すことを諦めてもおかしくないと思うんです。もちろん話すことは諦めてしまう人はいっぱいいるんですけど、私たちは傷つき傷つけられながらなお話すこととか人と関わることをやめようとしないというのは、私たちの主体の最もめんどくさいところに最初に関係があるからだと僕は思っていて、その関係があるから何度関係が途切れても再び関係を取り戻そうとするということができるん じゃないかと思っているんですね。だから常に他者とつながっていると言いたいわけじゃないんです。私たちは実際問題として他者を自分の道具として使ってしまう瞬間はやはり絶対にあって、他者を利用したりとか使ってしまう時ってあるのだけども、その利用したり使ってしまう瞬間からもう一度対話の可能性が現れてくるということが、たぶん相互的な主体性が現れるということで、だから何度でも関係は現れるし相互的な主体性は現れる、ただし何度でも失われてしまうものだと思うんですね。という価値観に立って主体性を考えるのが、僕の考え方なのかなとこの感想を見ながら思いました。
筏)「語り」という話題を出した部分が僕もあるので、この話で今面白いなと思ったのが、まず最初に関係があるという話を共有していて。それってたぶん、語り手が誰を聞き手として選ぶのか、あるいは聞き手が誰を語り手として選ぶのか、ということでもあると思うんですね。それは深く傷ついてる時にそれを相手方として誰を選ぶのか、あるいはどういう人たちを選ぶのか、というのはすごい大事なことで、それはもしかしたらお互いにその悲しみを元から共有している同士がお互いにそれを癒すということもあるだろうし、そこから新たなもしかしたら共有できるかもしれ ないと思ってる相手にその関係を求めるということもあると思うんですけど。ここには誰でもいっていうわけじゃないんですよね。関係がまずあるというのは。それはたぶん、第1部第2部で話していて「コミュニティ」というのは裏テーマであるなと思っていて。コミュニティとか人の関係性というものをいかに主体があることの時の苦しさみたいなものからのバックアップとしてなりうるかというのであって。「まちってなんだろう」みたいな話を余田が言った時に、Neighborhoodのことを「まち」と訳してるという字幕を見たことがあって。それはだから、ご近所さんというわけですよね。物理的なご近所さんだったりとか、あるいはもしかしたら趣味が合うみたいな心のご近所さんかもしれないんですけど、そういうご近所さん感覚みたいなものというか、お互いその関係を支え合って、それが誰かが苦しんでいる時にそれを受け止められるという自信は、元から関係から自信があるという。あるいは、元からその同じような文脈を共に生きているから、その誰かの悲しみは元から一部を自分の悲しみとして持っているみたいな、そういう人間関係があると、そこにお互いの関わり合いが生まれる可能性があるんじゃないかと思いました。
関係は主体に先立つか
余田)ありがとうございます。2人の話を聞いて、特に門斗が「関係が先立つのではないか」という話に対して思ったことを話します。その点で言うと、関係が全くない主体や行動があるかというと、それは幻想だと思うんですよ。なんだけれども、関係から逃れて何かをしたいとか、そこから超えて動きたいみたいな幻想としての欲望みたいなものがあるんじゃないかなと思っていて。よく言う話で言えば、村社会のつながりからとか、家族のしがらみからとか、もうちょっと探求学習みたいなところで言えば、なんとなく鬱屈とした学生生活から活動をすることでとか、そういう今ある関係性から逃れたい欲望みたいなものがある。それの発露の仕方ってたぶん色々で、東京に出ていくとか、バンドマンになるとか、起業するとか、地方創生に興味がありますとか、いろんな発露のされ方があると思うんですけど、それって関係から逃れたいみたいな欲望なんじゃないかと思っていて。根源的にはやっぱり関係があるというのは確かにわかるんですけど。全ては関係の中だよねってまとめ方でとどめることになんとなくの抵抗感があって。また逃れたらその逃れた先ではどうせやっていけないので、また関係の中に取り込まれていかれるんですけど、でもやっぱり幻想としての関係から逃れてコンセプチュアルに何かしていきたいとか、どこかに行きたいみたいなのがあるような気がしていて。またそれが偶然によくわかんない関係をまた作り出してってこと もあるんじゃないかなって考えると、関係の中であるよねっていうことだけ言っていると、捉えられない動きみたいなものがあるんじゃないかなと思いました。
青木)僕の語りか千丸の語りかどうかわからないけれども、ちょっと失敗したかもしれないって今思ったのは、関係って全くポジティブじゃないっていう話で。良い悪いはたぶん別にしている。現象的な話だというのはすごく言い得ていて、関係の中で生まれてくる主体って全く良いものとか楽しいものという話ではないんですよね。だから、誰かの話を聞いて現れてくる主体はすごく苦しいものでつらいものかもしれなくって、でもこんな話聞かなきゃよかったって思うその瞬間に主体があるよねって、僕は言っている。全然ポジティブなことにはならないんですよね。だから、地域との関係の中ですごく苦しくてもうここを出たいって思うその瞬間が僕は一番主体性だと思うんです。出たいというのは関係から始まるよねって言いたいというよりは、その苦しさこそ主体である、だから関係から逃れたいということはすごくわかるし、逃れようとしていい。で、それが全て関係の中にあるよねっていうまとめ方は確かにたぶん雑で、しかも関係を美化してしまうような語りになってしまう。たぶん美化はしてはいけなくて 、関係が苦しめる側面とか、ケアが暴力に変わる瞬間とか、そういったものを見つめなきゃいけないんだろうなというのはすごく思っています。でも、たぶん余田の最後のところへの答えはこの30分間の中で出せる気がしないので、ちょっと考えたいなと思いました。ただ、これだけは言わなきゃいけないなと。
自分との関係性
姜)昔にUTSummerの対話で、例えば人をうっかり傷つけることに言っちゃった時に「あー、しまったな」と思うことってあると思うんですけど、その傷つける言葉を言っちゃったのと、「あー、しまったな」と思っているのだと、どっちが自分なんだろうな、ということを話したような記憶があって。どっちが主体、いや主体という言葉があっているのかわからないんですけど、僕は他人との関係性の前に自分との関係性みたいなのがあるんじゃないかなと、今話を聞いてて思って。自分とそれを振り返る自分、少し上から見下ろす自分みたいな、俯瞰して見る自分みたいなものがあるんだろうなと思っていて。僕はTwitterをよくやっていて、アカウントを何回も消したりして繰り返すんですけど。Twitterのアカウントって、例えばフォロワーが5人いたとしたら、5人に見られている聞かれている読まれている状態だと思うんですけど。アカウントを消すと、また新たな自分としてフォロワーを7人獲得して、見られて聞かれて読まれてということを繰り返していく。これは生まれ変わる行為に近いなと思っていて。それこそ「アカウントを転生する」という言い方をすると思うんですけど。余田くんが言っていた「自分から関係性から逃げ出す」「自分はこうありたい」みたいな欲求も結構これに近いんだろうなと僕は思っていて。それってさっき門斗が触れていた「他人との関係性を利用する」みたいなこと、「自分がこうありたい」「自分とはこうなんだ」という強い発露のために他人を使うみたいなのはあるんじゃないかなと聞いていて思って。千丸が言っていた「シェルターが変わっていく」みたいな話もTwitterの話としてすごくよく理解ができたんですよね。というところで、さっきソフトに移り変わっていくんじゃないかと振ったら、もうちょっとハード面を話をされたからどうなんだろうと思っています。
筏)その話を聞いていて、ほっちゃんの本の話がやっぱり面白いと思って。本屋さんをやると本という第三者がいる。だからそうすると、人間関係での行き詰まりとは、また関係のないものがある。その本屋さんの話をして欲しいなと思います。
堀田)その話をするならば、やっぱり言葉の関係性から抜けたくなった時にあるのが本なんだろうと思っています。千丸が言ってくれているように、逃げた先に全く知らない空想の世界や本の世界が開けていることがいいなと思って本屋をやっているんですけど。物語だとか、誰か違う人が自分の生活を綴ったエッセイだとか、目の前にある関係から逃げたくなった時の本というものがあると思っていて。結局、書いた人とか、その中の登場人物とか、実際に存在しないかもしれないものとの関係性みたいなのがあると思っているんですが。その中に本というモノが1つあるのが大きな違いなのかなというふうに思っていて。人との関係性の他にも、モノがクッションになる。僕の場合は本屋さんなので、本というモノとそこに書かれた文章の言葉がクッションになり得るんじゃないのかなと思っています。
筏)建築がシェルターであるというのに対して、Twitterがシェルターだと言っていて、多分本とか物語の世界までシェルターなんですよね。
主観と主体、客観と客体
筏)ちょっといい質問があって。「主観と主体、客観と客体はどんな関係にあるんでしょう」という。哲学をやっている門斗くんに聞いてみたいなと思います。もしかしたら言葉の使い方の話かもしれないですけども。
青木)めちゃめちゃ難しい問いで、ちょっと困ってしまうんですけど。正確な定義は調べてもらった方が早そうなので、正確というか正確とされている定義という感じで、それは調べてもらうといいと思うんですけど。ひとつ、パッと調べて出てこなさそうなところで言うと、フッサールという人が間主観性なる言葉を発明したんですね。その単語はドイツ語で Intersubjektivität という単語なんですけど。この単語は「相互主観性」とも「間主観性」とも訳されます。ちょっと気になって調べたんですけど、これ別の言葉がないんですね。Intersubjektivität という単語でどちらにもなるんですね。ただ、ある哲学者は subjektivität という単語と subjekt という単語を「主観」と「主体」という訳語に分けていて。訳語に分けたのは日本の人ですけど、ちゃんと別のものとして扱っていて。さっきまでの人を利用してしまうよねって話と、関係とか対話を結ぶよねって話を「主観」と「主体」に分けている哲学者がいまして。マルティン・ブーバーというユダヤユダヤ教系の哲学者の人なんですけど。「主観」と「主体」には別の側面がありそうだなとは個人的にも思っています。もう1歩だけ踏み込むと、「主観」という言葉とか「間主観性」という言葉とかを使うときは、私が最初に必ずいます。基本的には。私が誰と見るという立場なんですね。それは相互的という言葉を持ってきて、「相互主観性」という言葉を使ったとしても、私の目から見て誰かが私と同じような世界を持っている。例えば、「千丸には千丸の世界があると私が信じられること」を指して「間主観性」と言います。私たちに戻ってくるのが「主観」です。「それが他者にも同じようにある」ということをさらに広げていって、「誰の目から見てもそうである」ということを言うと「客観」になります。「主体」とか「客体」とかはおそらくそういうものではないというのが、そこの切り分けなのかなと僕は思っています。
筏)たぶんこの言葉が出てきたのは、りよんのプレゼンテーションの中で「主体」というのは「客観的」に見て「主体的」になったという話があったかなと思ったんですけど、そこについてどうですか?
姜)そこはちょっと触れたいなと思っていたところではあるんですけど。僕がさっき言っていた「主体を客観的に見る」みたいな話は、僕がさっきTwitterの時に話したようなことと似たようなことをたぶん言っていて。自分自身を常にこう俯瞰して見ながらも、人間ってたぶんどこか自分の目線で見ながらも俯瞰して見るみたいなところがあるんだろうと思っている中で出てきたのが「客観的に主体を見ること」なのかなと思っており、たくさん上の層から自分を振り返るとか、自分を離れたところ、一人称の視点を離れたところから、自分を見て判断するのが「主体的」なんだろうなと思いつつ、刹那的な話をしていたと思うんですけど。ほっちゃんもnoteで触れていたよね。今やりたいことをやっていくんだみたいな。やりたいことってなんだろうみたいなことを探究学習のワークショップでよく作るんですよね。「やりたいことってなんですか?」みたいなことを問いかけることがあって。そこに合理性を求める。どうしても。「なんでそれがやりたいんですか?」「こうだからです」みたいな。それでたぶんnoteの中にも合理的であることは「主体的」なのかみたいなことを書いたような問いかけを投げたような記憶があるんですけど。うーん。やっぱり僕はそこについて結構合理的で、、、合理性ってその客観的に見るじゃないですか。だからやっぱり客観的な主体性に戻っちゃうんだろうなと思っていて。だからやっぱり合理性を求めちゃいけないんだろうなと思うんですよ。「どういうふうに生徒に接してますか?探究学習の中で」という質問をもらって、結構そのことについて考えていて。あんまり「なんでしたいの?」とか聞いちゃいけないんだろうなと思うんですよね、僕は。でもUTSummerでやっていたことって、「なんでそう思うの?」ってめちゃめちゃ聞いていく中で、「なんでそうなっていくのか」を考えていく中で、新たな自分に触れることもあるし、難しい、、、難しいですねえ。
堀田)主体的かどうかって、その場ではわからないみたいな話がたぶん第一部ではあったんですけど。まさにそれかなという風に思っていて。結果的なこの瞬間この瞬間で、動きたい人に持っているか、やりたいことを。周りから見て、どうなんだろうとか。長期的に自分の将来を考えてみた時にどういう判断をするんだろうとか。いろんな軸が、自分の中で考えてしまう部分もあるし、自分の周りの環境に作用される部分ももちろんあるとは思うんですけど。全体的にやっぱり結果でしかないですかね、主体的なのかどうかというのは。なので、なんなんですかね。うーん。なんなんですかね。主体性を求められた人がどこまでそこに抗えるかという言葉を使ったら正しいかどうかはわからないんですけど。周りからの圧力みたいな言葉は違うかもしれないんですけど、周りのなんとなくの雰囲気にどこまで立ち向かえるかとか、抗い続けられるかとか、そういう環境が大事かなと思ったんですけど、よくわからない着地になりました。
一貫性を演じること
筏)余田が前に主体性を要求されることに関して「演じるんだ」と言っていたことがあって。それがすごいなと思って。ずるいなと思ったんですけど。「演じているんだ」ってことで「自分の責任じゃないもん」みたいに一時的に逃げられるということで。演じられる主体性というのもあるだろうし。特に就活とかを経験した中で、すごい話を聞いたなあと思ったので、主体が演じられる話について。
余田)千丸のフリがなくても同じ話をしようと思っていたんですけど。まずは、りよんの「合理性って何なんだろう」という話を考えたくて。合理性ってなんとかに対する合理性じゃないと言葉として成立しないと思うんですよ。それは何なのかなって思った時に、やっぱり第1部で話した解釈できる他者から、他者がその人のことを理解できることとか、こちらから説明できることとか、説明可能であることと解釈可能であることっていうのと結びついてるなと思って。また自分の話で恐縮なんですけど、僕は高校の時に棚田で使える稲刈り機を作っていて。棚田が好きなんですね。棚田が好きなんですけど、棚田が好きって意味わかんないじゃないですか。でも、「棚田が好きだから、棚田用の稲刈り機を作っている」は意味がわかると思うんですよ。それがある種の感触の良さみたいなものもあり、評価のされ方もあり、探究学習的なキャリア教育的な文脈で評価されて、活動みたいなことを続けてきたんですけど。それって合理的というよりかも、説明ができる、他の人から「こんな人なんだな」と認知をされるという意味での合理性なんじゃないかなと思った時に、演じるということがどこに繋がるかを考えると。そうやって説明をしている自分というのを、僕はそういう風に語っているんだと認知する瞬間があったなと思って。それは第一部でもりよんが話していた「ベールを被ることに辛くなった人たちとか気づいた人たちをどうするか」という話と、私の個人的な話が繋がるなって思った時に、演じるというのは「この先、自分どうしていこうかな」と考えた時に思ったことで。今回のイベントでもnoteを書いたんですけど、自分は毎年振り返りのnoteを1年に1回書くことにしていて。それを読むと、いろんなことを考えて筋を通して頑張っているような人間っぽい文章が書いてあって、自分もびっくりするんですけど。あれはすごく構築して説明可能に作っている自分だと思うんですね。なんだけれども、昔はそんな自分が嫌だなと思っていたんですけど、そうでもないなと思って。そうやって「こういうののために自分はこれをしているんだ」って自覚的に積み上げるから、こういう話ができるし、村で何かするとか、仕事でこれするみたいなこともできるんだけども。でも、それはあくまで主体的である自分をとりあえずそこで作っているという感覚があるので、一歩引いて見ることも同時にできるなっていうふうに思っていて。そういう意味では、りよんの話を引っ張ると、説明ができることというのが求められてる合理性みたいなものなのかなと思っていて。その説明される自分だけだとつらいのかなっていうのがそういう話で。それが暴力的なもの、外から要請されるのであれば暴力的なものなのかなって思うところで。それでも、それでも何かこう、全員がそうじゃないと思うけれども、それでも何かをし続けたいとか考え続けたいと思うならば、そういう自分に距離をとって演じていく、自覚的にそう振る舞っていくということがすごく大事なんじゃないかなって思います。この一連の話を通じて、演じるということについて考えていたりします。というところなんですけど、なんかこの話についてありますか。
青木)めちゃめちゃわかるなと思って。b-lab で働いている時、上司にもんどってすごく一貫してるよねって言われたことがあって。「ああ、そう見えるんだ」って思った瞬間があったんですよね。でも、自分の中では何も一貫していなくて、その都合その都度やりたいことをやっているだけなんですけど。語った瞬間にすごく一貫した語りをしてしまうってことに後で気づいて。そこから逃れる方法を一度模索しようとした時もあったので、すごいわかるなと思って聞いていました。今、余田の話を聞きながら、それって現代で要請される主体性からの1つの一つの逃げ方だったんだろうなとは思っていて。主体性を求められる中で、「そうじゃない。別に求められていなくても、やりたいことを好きにやらせてほしい。刹那に生きさせてほしい」という思いと、「でも、主体性を求められるから、それにもある程度従っておかないと生きづらい。上手くは生きづらい」という中で、主体性を要請された時に答えているように見せかけながら、でも刹那的な生き方も上手くやってしまおうという、両方上手く取ろうとした生き方をしてきたのが余田の今の話であり、自分もそうだったのかなって聞いていて思ったんですよね。そこには、二つのことを同時にやらなきゃいけない葛藤とか、矛盾していることをやっている感覚とか、自分に嘘をついている感覚という、たぶんそこの苦しさが伴ってしまうものだと思うんですけど。でも、その二つを両立してきたからこそ、今こういう話ができているんだろうなという感覚はあって。じゃないと、たぶんもっとラディカルに話をすることができたんですよね。僕と千丸がもう一つの主体性みたいな言い方をしないで「今の主体性は全部嘘っぱちです」と言ってもよかったんだけど、そうも言えない自分がどこかにいて。やっぱり「個人だ」という主体性はあったというか、あったように思ってしまう。ないと言ったら、これまでの自分は否定されてしまう。けれども、それだけだと言っても、これまでの自分は否定されてしまうから、こういう語りを、全員がかはわからないですけど、自分は特にしてきたんだろうなと、今日を振り返って、余田の話を聞きながら思っていました。
筏)今の2人の話を聞いていく中で、自分がnoteに書いた一つの例について、「あ、なるほど」と思ったことがあって。noteの一つにキリスト教の初期の礼拝堂について書いたんですけど。それのすごい面白いのは、特に紀元前の生まれた頃の紀元前一世紀くらいのキリスト教の教会って、見た目がキリスト教の教会じゃないんですね。その当時のローマ帝国のごく一般的な普通の家とか、あるいは集会所の建物の形そのままで、でも中でキリスト教の儀式をやっている。まさにそれを模倣してというか、そういう普通のくらいというのを真似ることによって、キリスト教の信仰を守っていたというのがあって。僕がnoteを書いたときはそれによって、当然その社会では肉体的な迫害ってのすごい起きていますし、それから当時のローマ帝国の社会においてキリスト教というのは許されていなかったという歴史があったのは、同時にキリスト教の人々がローマ帝国の人としても生きつつ、キリスト教の人としても生きるという二つの主体を上手く生きるために、その形式を選択したんじゃないかなと組み合わせたところがあって。まさに今の2人の話があったみたいに、「主体的だ」と言われることが辛いんだけど、でもそこを求めてるところがあるというのは、やっぱり同時に自分の中で複数の主体的なあり方というのがあって、その揺れる動きを、どうやって揺れる動きの両方を守れるかというのがシェルターとしての役割であって、それは建物なのかもしれないし、Twitterなのかもしれないし、本の世界、物語の世界、あるいは他者と語ることなのかもしれないですけど、それによってたぶん一つの主体ではない、主体の揺れる動き自体を守ろうとしているじゃないかというのを思いました。
余田)そうですね。今の揺れ動きというのを別の言葉で言い換えるなら、読み替えたり訂正したり改変にしたりなのかなというふうに思って。「ラディカルに」という話があったと思うんですけど、何かをするとか言うというだけだったら簡単だなと思うんですけど。今、具体的にある関係とか問題とか、いろんなものがあって。それに関係を持ってしまって対峙してる自分がどうにかしていきたいという時って。そこに入った上で、読み替えていくみたいなものしかできないなと思うし、読み替えたものがまた固定的なものだったりまた別の誰かにとって暴力的なものになったりしていくんじゃ ないかなって思った時に。教会の話は歴史的な例だと思うんですけど。何か目的に向かってずっと進んでいく主体というよりかは、出会ったものに対して読み替え読み替え作り替え続けていく主体みたいなイメージが今の千丸の話を聞いている中で思い浮かびました。
余田)第3部、20時50分までということで、ここで一旦終わりにしたいと思います。
以上、トークセッション「しゅたいって?」の第3部文字起こしでした。このトークセッションに対する2年後の私の振り返りの文章がまた改めて書きたいと思います。
最後に、トークセッション全体のグラフィックレコーディングを掲載して、このnoteを終わります。