あぶくぶくぶく#2
エリート育ちは普通の日本人を知らない
たまたま目に留まったYahooの記事。気になったので読んでみた。
「多様性」や「これからの日本・社会」の議論の中に、普通の日本人が含まれておらず、一部の高学歴や高収入の人たちが国を動かし政治を行い物事を決めていくのではないか。普通の人々はそこに参加することさえできないのでは…というモヤる気持ちが書かれていた。
確かにそうかもしれない。社会の多様性に目を向けようとしても、任意の多様な社会に居られるのは公立の小中学ぐらいまでだ。住むところ=属するコミュニティなので自然と多様な人の集まりになる。
義務教育ではない高校生ともなれば成績で振り分けられ、周りには自分と類似した人物が多くなる。更に大学進学となればその傾向は強くなる。語学系だった自分は、高校の頃に感じた同質の価値観以上に、思考の同質性も感じて、なんだか似たような人間が集まっているなぁと思ったものだった。それでも公立ならまだマシな方で、私学に進めば均一化は更に度合いを増し、多様性に触れる機会は一層少なくなるのではないだろうか。
とは言え、本当の意味で育ちが良い人達は、世の中の真実を見ようとして、自分たちが育った世界の外にいる人たちのことを知ろうとするのかもしれないが。
知らない世界(社会)のことはわからない。
自分が属するコミュニティ以外の世界は、そこに入らない限りわからない。
先日、自閉症の人がパニックを起こした時に落ち着くためのスペースの話を職場の仲間としていた時「なんでそんなスペースが必要なんだろう。別に特別な場所は要らないのでは」とその仲間が言っていた。
私は家族がADHDと診断されていて自閉症のこともある程度知識としてあったため、パニックのことや当事者と家族がどういう状況でそれが必要となるのかを説明した。
発達障害を持つ家族のおかげで、そういう人達の存在と当事者や家族の苦労を私は知ることができた。そうでなければ知る機会もなかっただろうと思う。
発達障害に限らず、他にもいろいろな障害や、様々な困難な状況にある人たちの世界が世の中には限りなくある。そういう世界やコミュニティを全て知ることは不可能だと思うが、自分の住む世界が全てではないということは頭の片隅に置いておくべきだと思う。
世論と感性
イチローさんの日本野球殿堂入りのニュースを見た。
満票ではなかった、というその理由については殿堂入りの条件も含め色々な意見が展開されているが、その部分は置いといて、このニュースを見た時に、様々な人気投票やSNSの「いいね」が想起された。
若い頃から、世間で所謂アイドルや有名タレントと言われる人たちには、あまり興味がない。有名人ならずとも、二次元三次元問わず自分の所属するコミュニティでも所謂人気者と言われる人たちにさほど興味がない。逆に騒がれれば騒がれるほど気持ちが冷めていく。自分でもへそ曲がりだなぁと思いながら。
その代わり、うまく言葉では表せないけれど、音楽でも文章でも自分の肌に合う、感性にピタッとハマるモノに出会うと、のめり込む。のめり込んでいる時は脳内に何か自分を気持ちよくさせる物質が出ているのでいいけれど、それを誰かと共有しようとしても、なかなか共感してもらえない時は寂しい思いをする。世間の人たちと感性が違うこんな自分はやっぱりおかしいのかな?と卑下したり自信を失ったりする。
このコラムは、イチローさんの記者会見での「第三者の常識ではなく感性に基づいて行動」してきたという言葉を引用して、彼に投票しなかった記者も同様に「第三者の常識ではなく感性に基づいて行動」したのかもしれないと結んでいる。感性に基づいて行動できるのは、自信があるからだろう。計り知れない努力と実績を重ねてきたイチローさんほどの人なら、それだけの自信があるのも納得できる。その感性に共感する人たちも少なくない。凡人である私は自信もないけれど、寂しいのなら、たとえ一人でも共感してくれる人と出会うためにはやはり動くしかない。
…こんなに固い文章書くつもりはなかったんだけどなー。