球体関節人形入門 用語編2「人形」という言葉
にんぎょう・Ningyo
筆者や筆者の周辺は「にんぎょう」と呼ぶ人が多い。これはDoll Forum Japanの編集長だった小川千恵子(現・羽関チエコ)さんの影響である。理由は後で書く。
ド→ー→ル→
平板に発音する「ドール」という言葉は新語である。ボークス社のスーパードルフィーの普及に伴って使われるようになったと思しい。平板化したアクセントは、専門家アクセントとも呼ばれる。起伏の大きな発音よりも平板な発音のほうが、呼ぶ人の日常により溶け込んでいるという認識だろう。
では ”doll” という言葉は何を表しているだろうか? 実はこの単語は、人形という意味では300年も使われていない。
どうやら1550年くらいにドロレスという女性の名前が「カワイコチャン」というようなニュアンスで使われるようになったらしい。ドロレスの愛称がドール。これが愛人や恋人の俗語として使われるようにいたり、1700年代には人形に転用され、ドールという言葉が少女人形を表すものになった、という説が有力である。ともあれdollという愛称が人形を表す一般名詞化するまで、英語ではかわいらしい抱き人形を的確に表す言葉はなかった。スタチューやフィギュリン、あるいはa child's toy babyという単語が使われていたようだ。
なおドロレスという名前はナボコフの小説『ロリータ』に登場する少女の本名でもある。小説のドロレス・ヘイズの愛称がロリータ。さすがに少女をドールと呼んで人形扱いするのは作中のハンバート・ハンバートも作者たるナボコフも避けたのだろうが、dollと語源を共にするドロレスという名前は象徴的だ。
人形・にんぎょう 呼称の長い歴史
さて日本。人形という言葉は奈良時代の文献に登場する。
肥前国風土記(732-739頃)にすでに人形という言葉が見られる。これはならまち通信社の松永洋介さんからご教示いただいた。
上のリンクは国会図書館デジタルコレクション。左の頁の3行目に人形・馬形とある。土偶や埴輪の類だろう。これを奉納して荒ぶる神を鎮めた、という内容。ただし読み方は不明である。馬形は「まけい」「まきょう」「うまがた」どの読みだろうか。後者の場合「人形・馬形」は「ひとかた・うまかた」となるのが自然だろう。「にんぎょう」という発音が確認できるものは? これも平安時代には見られる。
『色葉(伊呂波)字類抄』(1147-81)には人形に「ニンキャウ」というふりがながつけられている。https://dl.ndl.go.jp/pid/1182105/1/40
少なくとも約900年前から「人形・にんぎょう」という言葉は使われていた。名は体を表すという意味ではこれ以上の言葉はない。最初に書いたドール・フォーラム・ジャパンという雑誌名は、創刊時に新しい響きを求めてつけたが、平板な発音の「ドール」があらゆる人形に対して一絡げに使われるようになることを当時は想定しておらず「ドールと言ってしまうことで取り切り落としている概念や、いとあわれな人形たちの存在のことを思い続けていたい」と小川編集長は2007年の最終号で振り返っている。世界に「Ningyo」という言葉を普及させたい所以である。
球体関節人形
「球体関節人形」はイメージ喚起力のある言葉である。球体は単純に形状を表すものではなく「完璧なもの」や我々が生きるこの地球さえ連想させる。この神秘的な名称でなければ、このスタイルの人形はここまで普及しなかったのではないか、とさえ思う。
英語ではBall-Jointed-Dollで、球体関節人形とはこの訳語だと思い込んでいたが、この英語表記がいつから使われ始めたのかは未確認。人形作家のヒロタサトミさんとのTwitterでのやりとりのなかで指摘いただいたのだが「球体関節人形」からの英語への逆輸入説さえある。
ハンス・ベルメール(1902-1975)の解説記事を1965年に発表した澁澤龍彦は「関節人形」と表記しており、四谷シモンも基本的に「関節人形」と呼んでいたように記憶している。定評のある人形の歴史をまとめたThe collector's history of Dollsを読んでも、"jointed doll"という言葉は見るが、ballという言葉はつかない。たかだが60年弱の歴史なのに初出がわからないのはもどかしい。
球体関節人形の歴史は複数の人形の歴史が縒り合されて成立したものだから、今後紹介していく。要点を予告しておくと、ハンス・ベルメールに影響を与えた木製のデッサン人形は16世紀のデューラー派の画家が用いたと伝えられている。サイズは20センチ強。顔や性器も彫り込まれている。
ベルメールはこの人形や、当時の美術界を席巻していたダダイズム、そして女性人形作家のロッテ・プリッツェル(彼女こそベルメールをデューラー派のデッサン人形に引き合わせた人物である)などの影響を受けた。ここからも話が長くなる。そのうち書く。
日本最初の球体関節人形
日本においては第一次世界大戦の折、ドイツ製のビスクドールのレプリカを人形職人が制作した。さくらビスク等と呼ばれる。愛嬌のある顔なのだが、欧米の文献を見ると「ジャーマンドールの粗悪なレプリカ」などと評されており、がっかりする。ドイツと戦争をしているアメリカに輸出するために作られた。製作のサンプルとして西洋人形が職人の目に供されたことだろう。その構造に興味を持ったと思しい平田郷陽(1903-1981)は、市松人形(おそらくゴム引き)や、ポートレートドール(日本画家の松岡映丘や歌舞伎役者の片岡仁左衛門の似姿人形(これらは木製の関節。映丘の人形はバネも使われていたようだ))に球体関節構造を取り入れている。おそらくこれが本邦最初の球体関節人形だが、郷陽は球体関節そのものにはそれほどの興味をもたなかったと思しい。「人形芸術運動」を推進し、のちに人間国宝となる郷陽は、その後、衣裳人形と呼ばれる固定ポーズの木目込み人形を主に制作するようになる。日展や日本伝統工芸展等の伝統的な公募展では、これらのスタイルの人形が出展される。
「動かない人形こそが芸術人形である」という考え方は現在も根強い。この話題も長くなるので今日はここまで。
戦後、澁澤龍彦がベルメールの作品を紹介し、それに衝撃を受けてこの形式の関節人形を作り始めた作家たちがいた。四谷シモンや、澁澤の依頼で人形を作った土井典が最初期の作家だが、マネキン会社に勤めていた土井典の人形は、当初ヒンジ式の関節が用いられていたようだ。「球体の関節を備えた芸術性のある人形」がどこからはじまったのかは、議論が分かれそうなポイントである。
(参考文献)
「With or Without You DFJは終わるけど」小川千恵子(2007,ドール・フォーラム・ジャパン50号)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?