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9月1日のきみへ 気長にやりましょう

2024年の9月1日は日曜日で、新学期が始まるのは9月2日なのですが、毎年この時期になると「学校に行きたくないがあまりに思い詰めての不幸」が話題になります。影響力のある人間は偽善でもなんでも良いので、何かしらのメッセージを発信するのは影響力の正しい使い方だと思います。このタイミングは偽善が偽善とならない数少ないタイミングな気がします。

2023年も「9月1日のきみへ」と題して記事を書いているので、1年経っても読み返しても不変の内容になっております。この記事から1年経ちますが、僕は1年間苦しいこともあったけど楽しいこともあったので、生きてきてよかったです。この1年で新しい出会いや新しい関係性があって、どれも愉快で意味のあるものだったので、やっぱり人生捨てたもんではないなってのが今の想いです。もう少し生きて楽しみたいと図々しくも思います。

昨年の記事通りで、簡単に「死ぬな」とは言えない気持ちは今も変わらずにあるのですが、死に関しては先日友人の鬼澤院長の終末期在宅医療の現場を見させて頂いたことで僕の価値観の解像度が上がったところがあります。人生の最期に死を受け容れられている人もいれば、最期まで闘う選択を選ぶ方もいて、どれが正解かって話ではなくどれも正解だと僕は感じました。本当に正解はなくて、自分が納得できていれば正解とするしかないのですが、死はやり直しがきかないから慎重になったほうがいいと僕は思うのです。だから生きろ!と思うし、多分生きていればいいことはあります。これは僕の経験として必ずあるから、生きたほうがいいです。

鬼澤院長は患者さんの話をずっと聴いていて、まさしくそれは傾聴だったのですが、僕は鬼澤院長の傾聴にヒントがあると感じました。何事も自己肯定感を持つのが大事で自己肯定感を持てるかどうかが鍵になると思うのですが、実は自己肯定感は他者から褒められることでは生まれ難くて、認めてくれたり共感してくれることで自己肯定感は生まれると僕は思うのです。褒められたり、正解を与えられることではなく、「そうだよね わかるよ」と認めることによって出来上がると思うのです。その意味では死にたい気持ちも僕は「わからなくもないし、「そうだよね 辛いよね」と言ってあげることが大事なのだと思います。すべての人に生きてほしいけれど、いきなり生きろ!と言うのは言葉が強過ぎる気がします。

メンタルがきついなって思ったときはまずは誰かに話して、そこで話を聞いた側は正解や叱咤激励ではなく、共感や認めてあげることで自己肯定感が増して、自分はこれでいいのだと思えるところがあります。僕はそれを自問自答の中でやってきたのですが、自分の中で上手に回ると唯我独尊の無敵なおじさんが出来上がる稀有な例であって、相当な強度と自分がないとできないのでお勧めしません。まあそれはそれとして。

生きていれば何かしらで辛いことがあるのは僕はわかります。その気持ちは十分理解するし、正常なことです。辛い気持ちや苦しい気持ちに蓋をしないでいいので、自分の感情を認めてあげたらいいです。休んで落ち着いたら何かやりたいことが出てくるだろうし、出てくるまで気長に待ちましょう。焦ることはないです。人生は長いし、いくらでもやり直しがきくものです。青木真也だって味方はいるんだから、あなたの周りにも誰かはいるから周りを見渡してみればいいと思います。大丈夫だ。人は一人じゃないから。

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