自分の選択を正解にしていく話と共感が大事な話
近況報告を兼ねて友人とご飯を食べていたら、友人の彼氏がアメリカのナッシュビルに住んでいる話になって、今から12年前の2010年にナッシュビルでギルバートメレンデスに負けたことを思い出しました。
12年経った今、もう一度ナッシュビルに行ったら何かを感じるだろうし、そこから生まれる何かがあると思って友人に「行こう」と誘ったら友人の返事は前向きだったのに、言い出した僕が行く気になっていません。なぜなら遠いからです。最近はアジアの6−7時間の移動でも決心が必要でアメリカへの10時間を超えるフライトは余程のことがない限りは足が前に出ません。それこそ相当に割のいい仕事か色ボケでもしない限りはいかないので、若いうちしか海外遠征や旅行には行けないから、思い立ったときに行くといいアドバイスは間違ってはいないような気がします。まあそれはそれとして。
12年前のナッシュビルでのギルバートメレンデス戦は完敗な上に惨敗だったのですが、今もいい思い出な上に財産になっていて、やってよかったし、あれがあったから今があると思えているので後悔はまったくありません。
格闘技選手として勝負事をしているので、必ず勝敗は存在していて、勝つときもあれば負けるときもあるのですが、結果や取り組みに後悔をしたり間違っていたと感じたことはありません。これは試合だけではなく、すべての選択にそう言えます。結婚離婚、柔道を辞めたこと、進学、警察を辞めたことなど全てに後悔はないです。失敗とも思っていません。当然そのときには思い悩んで、涙して、後ろ指を刺されてきましたが、その選択が間違っていたとはまったく思いません。
僕は自分で選択した道を無理矢理にでも自分で正解にしてきました。
それは「やれることをすべて真剣にやってきた」からです。例え自分が望んだ結果でなかったとしても、やれることをすべて真剣にやってきたから、悔いがなく広義の正解にしてこれたのだと思います。思い返せば子供の頃からずっとそうです。人と違ったことをやらかしたって突破口を探して、ここまでやってきました。それを簡単に言えば、ずっと頑張ってきたとなります。言葉にすれば簡単だけれども、並の取り組みと並の精神ではできないと思います。後ろ指を刺されて、否定されて、それでも自分の思想信念主義主張の下に取り組みを続けて、心身全てを自分の創作物に懸けてやってきたのです。俺と同じことをできる人間が何人いるんだという気持ちはあります。
打ちのめされて、もうダメだと思っても自分をなんとか支えてきたのは「俺はやってきた」と思える一点だと思っています。自分がここまで真剣に生きてきて、全てを捧げてやってきたものがあるからこそ、何があっても何を言われても「何クソ」と頑張ってこれました。
過去の記事でも書いてはいるのですが、「自分で選択して、自分で選択した生き方を正解にしていくしかない」のです。正解も間違いも解釈によって変わるのだから、自分の生き方を自分でちゃんと正解にしていけばいいのだと思います。正解にしていくには、日々の取り組みと日々の積み上げが大事で、積み上げができたときに「かっこいい」となるのだと思います。
目の前のことを懸命に積み上げていく以外に道はないなと改めて思います。目の前のことにどれだけ一生懸命になれるか。格闘技やプロレスは「遊び」のものだと思いますし、その意味では遊蕩三昧となるのでしょうが、懸命に人生を懸けてやっていますから、間違いではなく、僕はこれを正解にしていきます。頑張っていこうね。僕も自分の道を頑張っていきますよ。
話は変わって最近は「共感」が大事だなと思っています。
解決策を示したり、気持ちを上げてあげるのも大事だけれども、その前段階に「わかるよ」と言って、「認めてあげる」ことが自己肯定感を作って、先に進む下地となって、そこから前向きになって解決に向かっていくのではないかと思うのです。
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