宇野薫さんの試合から数日。闘いに価値はあったと胸を張る。
日曜日の夜。宇野薫さんの試合サポートに。
試合後にnoteを書こうとしてもまとまらず、「おれたちは勝ちたかった」とまとまりのない文章を感情のまま残した。これで出すのはどうかとも思ったのだが、感情をの感情のまま出すのも「表現」を仕事にしていたら、大事だとそのまま出した。
試合に向けて没入していたのだと実感した。
没入していたら、客観性はないので考えがまとまらない。客観性がない=自分ごとにできている証なのだと時間が経ってわかった。ここまで自分ごとにできることもそうそうないから、幸せなことだと思う。
宇野薫は「巻き込む力」が強い。巻き込む力にも種類があるけれど、彼は観客を自分ごとにさせる力が強く、彼の姿勢を観客自らに投影して、自らの力とさせる力がある。宇野薫というジャンルであり、宇野薫という概念だ。
宇野薫の試合時に会場を包む独特の空気と熱は彼の力あってのことだ。あの空気を感じるたびに積み上げと真摯に向き合うことの大切さを感じる。
おれたちは勝ちたかった。何がなんでも勝ちたかった。
それは今でも悔しさとして残っている。悔しい。
勝負事に向き合う人間として、勝負事の厳しさは重々承知している。
勝負の天秤ばかりは積み上げがこちらの方が重たくても傾かない。おかしいと声をあげても傾かない。勝負は無情で残酷だ。
不確定だから勝負に魅せられているとも思うし、勝負も格闘技も僕は好きだ。生きていく上で大事なことや力をくれる。
勝ちたかった。試合後からずっと思う。勝ちたかった。
悔しさが気持ちを支配して報われない気持ちでいた。自分に力があれば。
何人かの友人知人から宇野薫の試合を見て、「感動した。生きる力をもらった。」との連絡をもらって、報われた気がした。おれたちは試合には敗けたが、間違ってはいないし、おれたちの闘いに意味はあったんだ。
格闘技が格闘技村での競い合いであれば、格闘技以上の価値を持たないけれど、社会に対して思想信念主義主張を持って表現していけば、それは社会にとって有益なものになると思っている。生きる力をもらえる。格闘技の価値だと思っている。
宇野薫の試合を見て「生きる力」をもらった。その言葉で僕は救われた。
宇野さんには今回もいい経験をさせてもらって学びをもらった。これを返せるように僕も積み上げていこうと思う。ありがとうと手を合わせた。
僕も38歳で格闘技選手をしている。
格闘技は好きだからやっている。満足するまでやりたいとも思っていない。なぜなら格闘技で満たされるとも思っていないからである。挑戦の類で満たされることはなく、一つ上手くいけば、更にもう一つと思うだけで終わりがない。満たされるのではなく、むしろその欲深さに裏切られるばかりで一向に満たされることがない。あと一回が永遠に続く。綺麗事ではなく、ずっと刺激的で楽しいこの時間を欲しているだけだ。
僕は格闘技選手として今も生きる。損得で見たら損だと思う。宇野さんだってそうだろう。損得で考えたら間違いなく損だ。ただ生きるとは損得で語れないものでもあって、産まれてから死ぬまでの時間に限度があるのだから、損得を考えずに自らが思うことを追求したらいい。
いい歳して格闘技などしてバカだなあと言われたところで、そもそも死んだら終わりなわけだし、どうせ死ぬんだから何もやらなくても同じだというのが違うように、今日も元気にバカをやって、懸命に生きていこうと思う。そもそも世の中にある多くのモノがバカなモノだとも思う。目の前にあることを必死にやろうか。
挑戦を怖れるな。懸命を怖れるな。日々積み上げろ。
生きる上で大事なことを今回も宇野薫が教えてくれた。
今日もコツコツやっていくぞ。
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