本を読んだら 「『その他の外国文学』の翻訳者」
【読むのにかかった日数】数日
【再読可能性】再読する
【勧める相手】翻訳文学好き、語学好き
1.Aの頼りない「その他の外国文学」
「その他の外国文学」という分類は、巨大企業Aが採用している。ただ同社サイトの今日の売れ筋ランキング1位は、イギリスで出版された英語の小説「アウシュビッツのタトゥー係」だ。この調子だと、アメリカ移民二世として、英語でインドやベンガルを舞台にした小説を書き、イタリアに移住してイタリア語で創作を続けるジュンパ・ラヒリは、どこに分類されているのか心許ない。
2.選び取られる「その他」
この本は白水社編集部が、
から話を聞いて構成した本。
序文を寄せた斎藤真理子さん(朝鮮語・韓国語)もまた、「その他の外国文学」の翻訳者だ。
帯には斎藤さんの『「その他」の側から世界を見る』という言葉が引かれている。
Aの基準すら分からない「その他」とは違う、自ら「その他」を選んだことが伝わってくる。
8名の方たちは、東京外国語大学出身で研究者をしている方が多い印象は受けるけれども、大学で専攻したのではなく留学して学んだ(青木さん)、当初志していたのは別の言語だった(鴨志田さん、丹羽さん)など、修得に至る道は多彩。他方で、著名な翻訳者の教え子にあたる方もいれば、他の言語の第一線の翻訳者(スペイン語の宇野和美さん、英語の鴻巣友希子さんほか)に励まされたという方もいて、日本の翻訳者の言語を超えたつながりというものを感じさせる。
韓国の翻訳者クォン・ナミの「ひとりだから楽しい仕事」には、家族とのやりとりは描かれているけれど、同業者の方が出てきた印象はなかったなと思い返す。
ちなみに木下さんは、ラヒリの端正で艶やかな翻訳を手掛けた、英語翻訳者の小川高義さんの翻訳を参考にされているそうだ。
個人的にとても嬉しい。
3.数多の「その他」
読み終えて、「その他」は言語のみならずあらゆるところにあると感じる。中心と辺縁は常に存在するのだから。日本語の中にも「その他」がある。家に帰れば方言を話すのに外では標準語しか使えない人、自らのルーツである言葉そのものを禁じられた歴史を持つ人、外国にルーツがある人のささいな言い間違いを、日本語ができていないと嘲笑する者…
自分が主たる者だと思ったとき、見えなくなる、消えてしまう世界がある。
「その他」の言葉を学ぶとき、人は意図せず弱くなる。何も知らない自分、思ったように読むことも書くこともできない自分を知る。
そうした経験がかえって自分を強くしてくれると思う。
ただ、「その他」は主たる者の多様性や気づきのために存在しているのではない。そのようにして消費するのはまさに、その他のものとして矮小化する行為にほかならない。
主たる者だと思っていてもひとりひとりのあつまりにすぎず、主たることばは日々書き換えられていく。
確かなものなど何もない。ここから先は「その他」と誰かが引いた線を見つめるうち、ふと越えてみたくなるかもしれない。