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気だるい生、緩慢な死

 この世界の片隅に 戦争中の広島と呉で一人の少女・すずが成長していくなかでの心の変化やそこに投影される時代の空気が表現された映画。すずがいつもぼんやりしているからか、狼のような毛深い男に攫われてしまったり、米軍の爆撃が画用紙に滲む絵の具のように表現されたりと、現実と自分の中だけの世界とが入り混じって描かれている。どこかこれは夢物語で、すずや水原さんはこの世界に実在してなかったんじゃないかと思ったりもする。しかし、彼女たち越しにみる、戦時中の広島のぼんやりとした怖さを抱きかかえて生きる(しかない)だるさのようなものは生々しく伝わってきて、その感覚は決して夢物語なんかじゃなかった。

 その日は突然やってきたと書くと、さも当たり前のことのように思えるけど、当時を生きた人達はそんなこと分かるはずなくて、突然とはどういうことなのかがこの映画は肌感を以て伝えてくれた。戦争は私たちにとっては遠い世界の出来事のように感じられるけど、当時を生きる人たちにとっても少なからずそう感じられたのかもしれない。物資の支給が次第に減っていき、空襲警報の回数は増え、絵を描くことさえも禁じられていく。それでもラジオは日本軍の優勢を告げるばかりで、詳しい戦況は窺い知れない。国が落ちていくとき、それはジェットコースターのように目に見える臨界点に達して音を立てて崩れるのではなく、観覧車のようにじわじわと位相を下げ、気づいたときには取り返しのつかない底にいる。戦争は毒殺のようなものかもしれない。人が死に、居なくなることが当たり前になり、感覚は麻痺し、自分の親や兄弟の死に対峙した時でさえ悲しいという感情を抱かなくなる。あるいはその余裕がない。自分たちが生きていくために(死んでいないということは生きなければならないということなのだ。それは時に気だるいものである。)考えることを辞め、淡々と起こる事象を処理しなければならない。いつか目の前の靄が晴れるその日まで。

そして、報道規制が敷かれ、印象操作がはびこり、思考を止めたくなるような圧力のかかる現代の日本においても同じことが言えるのではないか。

戦争は終わっていない。私たちは緩慢な死を迎えるのか。



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