循環構造と多自然主義

上妻さん、能作さん(兄)、川島さんによる対談。

http://10plus1.jp/monthly/2019/10/issue-01.php(前編)
http://10plus1.jp/monthly/2019/10/issue-02.php(後編

上妻さんの、人間中心主義に立った人間ー自然の二項対立の発想や、同じ人間の中でも先進国ー途上国という構図で一方的な他方への介入を正義とする認識の危うさへの指摘には共感できる。人間も自然の一部であり、先進国における正しさが他の生活圏においても正しいとは限らない。最近は複雑系という言葉もよく見聞きするようになったが、私たちの社会や自然環境はまさにその系に属すものであり、それは決してコントロール可能なものではなく、完全な統御が目指すべき到達点としてあるわけでもない。分かり得ない事象を知ろうとすること、理解すること自体は奨励されるべきことだが、それを自分たちの都合の良いように改変したり制御したりすることは先に述べた人間中心主義に立った考え方であるし、それを推し進めてきた結果、過度に情報化しすぎた現代社会において人間は自らの作ってきた環境に作られるだけの、従属した存在になってしまっている。

近代化されたものを捨てて原始的な方法に戻ろうとするのではなく、狩猟生活などで得た思考を現在社会にどう生かしてバランスを取るのかに興味がある。

上記のように上妻さんは述べているが、どこかでこのバランスが崩れてしまったのだろう。これについて能作さんはパウル・クルッツェンの『人新世とは何か──〈地球と人類の時代〉の思想史』(青土社、2018/原著=2016)を参考に、産業革命と第2次世界大戦後の爆発的な人口増加が大きな要因だと指摘している。

技術の平和利用による高度な産業社会の到来という2つのタイミングが重なることによって、人口爆発と急激な都市化、さらに大量生産・大量消費・大量廃棄の仕組みが整備されました。

恐らくこれは”作り作られ、作られることで作る”という循環構造の一つの帰結であったのではないだろうか。循環を繰り返すなかで次第に”作る”ための技術が高度化してゆき、より多くの人口と、それを支えるための経済の仕組みが生まれた。そしてその仕組みはいまや個人の認識可能な範囲をとうに逸脱し、次第に勢力を拡大する台風のように自己の規模と勢いを増し続けている。それを止める術も見つからないまま、私たちは暴風雨を耐え抜くために、物理的にも感覚的にもより身の回りを強固に固め、周囲との関係を断ち切ろうとしている。周囲との関係が断ち切られ、外部からのインプットがなくなってしまうと、人々は不全感や不安感を感じることになる。

しかし、先の上妻さんの言に拠ると、私たちは近代化したものを捨ててまた原始的な生活に戻ることはできない。私たちは私たちの作ってきた環境の中でしか生きられず、いまある環境をもとにすることでしか、次の環境を作ることはできない。こうした前提を踏まえると、建築にできること、建築が社会に与える影響は大きいと思える。

建築は生活を規定し、生活がまた建築を規定する

建築は所詮は手段であることを引き受けないといけない。そして、その制作過程のなかには、加筆と修正の可能性、言い換えれば、偶然性が含まれており、これを陶冶し、練り上げることで現在の形が現れていく、と上妻氏は述べている。元来建築はこうした執筆途中が見えるものだったのではないかと思うのですが、おそらく近代になってから完成原稿が求められるようになってしまった。それは建築(建築に限らずあらゆる工業製品)が「消費-生産」のというフレームに納められてしまったからだろう。

「消費-生産」とは何でしょうか。それは「計画があり、それに従う手続きがあり、商品がある」ことを受け入れる態度です。

上記引用のように、消費者がサービスの対価として金銭を支払う以上、それに見合った成果物を生産者は提供する必要があるし、その到達点はあらかじめ両者の間で合意されたものでなければならない。しかし、「愛好-制作」のプロセスでは制作の過程で出会ったさまざまな人、生き物、事象に影響され、目指すべき成果物の姿は何度も書き換えられることになる。そのため、「制作」されたものにはいくつもありえた形が存在し、「これは最終成果物(のあり得たかたちの一つ)だ」という言い方が可能である。対して、「生産」されたものは「最終成果物はこれだ(これ以外にはあり得ない)」という言い方しかできない。

元来建築も制作の過程が見えるものだったはずだが、おそらく近代になってから最初から完成品が求められるようになってしまった。《西大井のあな》は設計者の自邸ということもあり、「消費-生産」の軸のもとに作られた部分と「愛好-制作」の軸のもとに作られた部分が混在している。「消費-生産」の軸から広がる傘に覆われた世界において、人々が充足し、自己肯定感を得るためには「愛好-制作」の感覚を取り戻す必要がある。但し、前半に述べたように我々は自分たちが作ってきた環境を足掛かりにすることでしか次の環境を作りえないので、原理主義に陥らず、現状の環境、身の回りを少しずつ上書きしていくことが望ましいのではないだろうか。

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