村上春樹の作品を読むという行為について
僕は村上春樹の書く本がとても好きなのだけれど、彼の書く小説やエッセイや散文について深読みしたり、社会性を持った解釈を与えるようないわゆる解説本は全然読まない。読みたいとも思わない。だから彼の思想や作品の社会における位置づけやその重さについてはあまり良く知らない。人並みの理解しかない。けど、なんで学者とか芸術家とかの知識人が村上春樹について語るものに興味が持てないのか。ちょっと考えてみたのだけど、結局のところ読書というのはすごく個人的な作業だし、小説家っていうのはそういうところに向けて作品を作っている。(もちろん、小説を書くということは小説を読む以上に個人的な作業だ。)そう、作業なのだ。彼の作品の醍醐味は物語の中を通過するときのその心地よさにある。僕らは物語を読むとき、無意識に登場人物になり切り、空間や時間を共有している。「僕」や「ワタナベ」や「カフカ」となって羊男に出会ったり、直子に恋い焦がれたり、大島さんに作ってもらったサンドイッチを食べたりするのだ。そこは現実世界とはリンクしていない完全な物語の世界だ。批判というのはなんらかの立場をとる。世の中の多くの物事は相対的な立場からしか評価できないからだ。けれど、物語というものは批判性を持たない。そこにあるのは状況であっていかなる立場も提示されていないからだ。そして、その状況に身を置ける人が多ければ多い程、優れた物語であると言えるだろう。村上春樹がこれ程までに世界中で評価されているのは彼の作品が国境、人種を問わず多くの人がその状況にのめり込めるからであって、それは彼の作品が個人の作業によって作られていながら、個別化されていない、高度に抽象化されたものだからだろうと思う。僕らの心の中にある井戸の奥深くには共通のなにかが積もっていて、時々それを確認するためにロープを体に括り付けて注意深くゆっくりと底に降りるのだ。村上春樹の作品を読むこととはそのような行為である。