「BAR HOPE」
④コスモポリタン〜
ゆっくりと半分ほど開いたドアの隙間から、ユキさんがいつもの完璧な笑顔を見せる。ユキさんに微笑みかけられると、僕だって上手に笑い返せている気がして得意な気持ちになる。空いていれば必ずカウンターの真ん中に座り、おしぼりを渡すとやっぱりユキさんは完璧な笑顔でそれを受け取る。
僕はあまり興味が無いので知らなかったが、ユキさんは有名なファッション雑誌で表紙を飾るほどの人気モデルであり、若い女性から圧倒的な支持を得ているらしい。一度ファンだという女性客に握手を求められたことがあって、ユキさんは照れくさそうに、実は有名人なのだよと僕に教えてくれた。
カクテル一つ一つにも花言葉のような意味があり、コスモポリタンは「華麗」という名を持つ。1980年代に女性バーテンダーによって作られたと言われるこのカクテルは、歌手のマドンナや、海外ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」の主人公が好んでオーダーしていたことで有名なカクテルである。
ウォッカをベースとしたショートカクテルで、シェーカーにホワイトキュラソー、クランベリージュース、ライムジュースを入れてシェイクする。クランベリージュースの赤色が鮮やかで印象的な、大人の魅力を纏ったユキさんにはぴったりなカクテルだ。
3杯目のコスモポリタンを颯爽と流し込みながら、ユキさんは僕の恋愛事情について色々と質問をしてくる。僕の答えはいつもユキさん喜ばせたり、満足するようなものでは無いと分かっているのに、この通過儀礼のようなやり取りは毎回必要みたいなのだ。僕への一通りの質問は全てその後の、「ユキさんは最近どうなんですか?」へと繋がっている。
僕からの質問を受けるとユキさんは苦笑いを浮かべながら、渋々という感じで彼への愚痴を語り始める。ユキさんが恋愛の質問をする時はいつだって自分の話を聞いて欲しい時であり、勿論それは彼への溜まった不満を処理する為に他ならない。
「 ずっと仕事が忙しかったんだけど、この前久しぶりに5日間のまとまった休みをもらったんだよ。長めの休みもらった時はいつも一人で海外に行くんだけどさ、彼氏にその話したら、自分も同じタイミングで休みが取れるかもって言い出したの」
ユキさんの彼は車の整備工場で働いている一般の人で、もう付き合って6年ほどになる。ユキさんがまだお金がなくアルバイトをしていた頃に知り合い、よく喧嘩をしながらも現在に至っている。
「そんなこと珍しいから嬉しかったんだけど、その後は大揉めよ。そもそも私は一人でヨーロッパに行こうって考えてたんだけど、向こうはお金がないから国内が良いって言い出したの。いや最初から二人で旅行しようって話ならそれでもいいんだけど、私は一人で海外に行くって言ってて、それが私の仕事へのモチベーションに繋がってるのを向こうも知ってるんだよ?だったらこっちに合わせて欲しいし、嫌なら一人で行くよ。
でもね、それでも二人で過ごせるんだったらと思って私はね、じゃあ間をとってグアムはどうですか?って提案したの。そしたらあいつ、だいぶ不服そうにOK出して来やがったのよ」
最初に見せた完璧な笑顔と同じように、眉間や鼻に皺を寄せ口まで歪ませたユキさんの表情は、本当に相手が憎らしいのだと完璧に物語っていた。
「でもね、これはまだ序章に過ぎませんでしたよ。私が航空チケットも、ホテルも、レンタカーも、頑張って金額を抑えて、もうこれ以上は安くならないってギリギリのラインで全部手配して、よしっこれなら文句ないだろう!と思った旅行の一週間前ですよ。あの馬鹿、やっぱり俺金ねぇから行かねぇわって言い出しましたよ」
怒りすぎて敬語になっている人間は、その怒りが臨界点を迎え人前で大爆発を起こしてしまうわぬよう、無意識に制御する機能が働いてるのではないだろうか。
「それで私もキレて大喧嘩よ。行き先もプランも散々私があなたに合わせて計画したってことをまくしたてたら、ちょっと一日考えたいって言い出したから私は空いてる友達誘うのでもう結構ですって電話切ったの。そしたら次の日に電話でやっぱり行くって言い出して」
「まぁ困りますけど、結果的に一緒に行けたんなら良かったですよね」
「ぜっんぜん良くなかったのっ!向こう行っても英語喋れないからって、ホテルもレンタカーもレストランも手続き的なことは全部私がやって、グアムなんて殆ど英語なんか使わなくていけるから!私が車の運転してる時に隣でいびきが聞こえてきた時は、アイツの側だけ電柱に突っ込んでやろうかと思ったよ。
いや良いんだよ別に何もしてくれなくても、ただ運転お疲れ様ってコーヒー一杯奢ってくれたりさ、ありがとうの一言だけでもいいんだよ、気遣いみたいなのが欲しかっただけなのに。 旅行の話が出てから旅行が終わるまで、ず〜〜〜っとなんか不機嫌な感じで!私も我慢の限界きちゃって成田空港でまた大喧嘩、月9かよ!」
「どう思いますか!」と空いたグラスをマイクのように差し出し、ユキさんは僕にコスモポリタンのお代わりと、彼についての見解を同時に要求してきた。きっとマダムがいれば、「そもそも何でそんな男と付き合ってんだい」と一蹴しただろうが、僕にはほんの少しだけ彼の気持ちが分かるような気がしていた。
無論その彼はわがままで稚拙な部分が目立つし、きっと僕がその立場であれば彼のような言動をとることはないだろうが、それでも何か違う形でユキさんにストレスを与えてしまっていたはずだ。
目まぐるしく環境は変わってゆくが、それは自身の努力が引き起こした流れではなく、影響を及ぼすこともない。ただ自分だけが取り残されていくような感覚に、なんだっていいから彼は抗いたかったのかもしれない。ユキさんが好きだから。
出会ってから6年間ずっと輝き続けるユキさんを隣で見ていたつもりなのに、いつからかその姿は霞みはじめ、手を伸ばしても掴めないような不安の中で希薄になってゆく自身の存在にも苛立っていたのだろう。それを子供のように駄々をこねることでしか示せなかった。確かな現実があっても認められず、弱さや不甲斐なさを受け入れる強さを理解できなかった。ユキさんが求めたほんの少しの気遣いや一言が、今の彼にとっては最も情けなく屈辱的なものだった。
しかしそれも全部、ユキさんにとって頼りになる存在であり続けたい、隣にいて恥ずかしくない男でありたいという、彼の身勝手で無垢なプライドのせいなのだ。と、彼の言動をとても良いように解釈するならば、そう思ったりもする。
「頑張って生活が楽になっても、それで全部が上手くいくとは限らないね」
とても寂しそうに呟いたユキさんの言葉に、もし二人の立場が逆だったのなら今より上手く回っていたのではないかと思った。きっと女性の方が、何があっても動じない強さや覚悟をもっている。
「私はさ、な〜んにも変わってないのにね」
そうだ、ユキさんは何も変わってはいない。売れる前から住んでいたアパートに今でも変わらず住み続けているし、高価なアクセサリーもハイブランドのバッグも、あまり好きじゃないと仕事以外では殆ど身に付けることがない。でもそこにはユキさんが彼といる為の、ほんの少しの気遣いも含まれている気がする。
そしてユキさんは今日もコスモポリタンを飲んでいる。初めて店に来た時からずっと、華麗という名をもつこのカクテルを、女性の社会進出が盛んになった時期に女性バーテンダーによって作られたと言われる象徴的なカクテルを、その輝きを自身に取り込むように、折れそうな心を修復する為に、ユキさんはコスモポリタンを飲み続けている。
「もっかいだけ、ちゃんと話してみるか…」そう言ってユキさんはぎこちなく微笑んだ。きっとユキさんはその愛情深い性格で、今回も彼のことを許してしまうだろう。顔を赤らめ酔っぱらっていたユキさんは最後のコスモポリタンを飲み干し、会計を済ませると僕が出したグラスの水には口をつけずスッと立ち上がった。
「じゃあまたね」と、いつもの完璧な笑顔でふらつくことなく、真っ直ぐと出口に向かうユキさんの後ろ姿を、僕はやはりとても美しいと思った。
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