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「BAR HOPE」


①ブラッディーサム〜

 この店にはあまり客が来ない。マダムが騒がしいのはごめんだと言って、駅から三十分も離れた雑居ビルの三階に店を構えているせいだ。
 古びた雑居ビルの、錆びくさい螺旋階段を登った先にこの「HOPE」という名のBARはある。地獄の門みたいに重く大きな扉を開けると、店内には豪奢な一枚板のカウンターと、ゆったりとした椅子が五脚だけ並べられている。
 三段に配列されたバックバーには、ウィスキーを中心に様々なボトルが並べられ、間接照明によって淡い光を帯びているけど、高級な酒は置かないというマダムのポリシーはしっかりと守られている。
 マダムというのは「HOPE」の女店主で、艶々とした銀髪をなびかせいつもふらっと店にやって来ては、カウンターの中でゆらゆらと煙草の煙を吐いているのだ。 客席の後ろには大きな天窓がはめ込まれていて、僕はそこから見える夜空を気に入っている。螺旋階段を登って来たせいか、ほんの少しだけ月や星達に近づけた気がして、夜を閉じこめた絵画みたいなその景色を自分の物のように感じたりする。

 この風変わりな店には数人の風変わりな常連がいて、たまにひょっこりと風変わりな一見が地獄の門を開けてやって来る。そんな僕だってマダムに拾われてここに居るようなものだから、どんな変人が来たって変わらず丁寧に酒を作る。それはマダムに唯一課せられたルールであって、丁寧に酒を作ることは、丁寧に生きることと同等なのだとマダムは僕に言った。自分を蔑ろにしてきた僕には、そうした生き方が必要なのだと。
 店内の拭き掃除を終え、カクテル用のライムカットしていると、店の扉がゆっくりと開き山岡さんが入って来た。僕が「いらっしゃい」と声をかけると、山岡さんは何も言わず視線だけで返事をしてカウンターの端に座る。

 山岡さんはいつも無口なのだ。昔マダムがふらっと店にやって来て「この男にここで酒を飲ませてやっておくれ」と紹介され、それから山岡さんは週に一回ほどのペースで店に顔を出すようになった。
 いつも酷く疲れた顔をしていて、ひび割れた荒れ地にゆっくりと水を染み込ませるように、静かにウィスキーのグラスを傾けている。山岡さんは静寂を好んだけど、他の客達が隣で大声で叫んでいたって嫌な顔をすることもなかった。
 ただ何処か遠くで響く花火の音を聞いてるような、そんな感じだった。

 たまに山岡さんはウィスキー以外にもブラッディーサムという、ジンをトマトジュースで割り、カットレモンを絞ったカクテルを頼むことがある。
「明日は仕事だから、あまり酔うわけにはいかない」と言うのが理由らしく、いつかマダムに山岡さんの仕事を聞いたら「裏の仕事だよ」とだけ教えてくれた。
 そうやって生きることしか出来ない人間がこの世にはいるんだと、そんな人間を使って私腹を肥やす畜生の方が私は嫌いだとマダムは吐き捨てた。

「ブラッディーサムを」

  山岡さんは、マダム好みの熱すぎるおしぼりで顔を覆いながら注文した。

「明日はお仕事なんですか」

「ああ、明日が最後の仕事になる。それで俺は引退さ」

 それ以上何も言わない山岡さんに、それ以上何も聞けない僕は弱く微笑んでみせた。ブラッディーサムを一口飲むと、山岡さんは長くゆっくりと息を吐いた。

「なぁ、少し俺の話に付き合ってもらってもいいか」

 山岡さんからそんなことを言うのは初めてだったので、僕はなるべく何にもないみたいな顔で「もちろん」と返事をした。

「悪いな。俺は今の仕事をもう二十年以上続けている。マダムから少し聞いてるかも知れないが、あまり人に褒められるような仕事じゃない。そのことに後ろめたさもなければ、誇りに思うこともなかったよ。つまり俺は何も感じちゃいなかった。
 そんな生活の中で俺は一人の女に出会った。明日生きているかも不確かな俺にとって、女と過ごす平凡な時間は確かな幸福を感じられる瞬間だった。
 その先の未来を望まないから得られた、うたかたの幸福だったはずなのに、ある日女に俺の子を妊娠したと告げられたんだ。あなたが望むのならば父親になれると言われた瞬間に、俺の目からぼろぼろと涙がこぼれて落ちたよ。
 でも、それは父親になる喜びに心を揺さぶられたからじゃない。今まで自分がやってきたことが急に恐ろしく思えてきたんだ。ガタガタと全身が震えて、俺はその場にへたり込んだ。こんな俺にも未来があるのかと考えた途端に、ささやかな幸福を頭に思い描いた瞬間に、死の淵に立っている自分がどうしようもなく怖くなったんだ。
 それに不思議なもんで、これからってのを意識すると、同時にこれまでってやつまで姿を現しやがる。俺が今まで奪った命が、ぼうっと背後に浮かび上がるんだ。
 生きる喜びも、生きている実感もなかったはずなのに、俺は生きてたんだよ。ずっと間違ったまま、それに気づかずに俺は生き続けていたんだ」

 僕が山岡さんに対して薄々感じていたものよりもずっと凄惨な事実を聞きながら、僕には山岡さんが、この世で誰よりも清く無垢な存在のように思えた。

「僕には山岡さんが感じている苦悩や虚無の全てを理解できないけれど、それでもあなたの生き方が間違っているとは思えないんです。僕らは間違わず生きることなんて出来ないから、その歩みを止めない限り、きっとそれは正しい生き方なんだと思います」

  山岡さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

「明日、また顔を出すよ。最後の仕事が済んだら、俺はもうそのまま遠くへ消えなけりゃならない。この街にとどまるのは危険だから、お別れに一杯だけ飲みに来るよ」

「それは、どうしてもキャンセル出来ないものなんですか」

 何も答えず山岡さんはブラッディーサムを飲み干した。悪魔と最後の契約を交わすように、赤黒く濁ったその液体を腹の中に流し込んだ。

「最後に一つだけアドバイスをやる。バーテンダーは、もう少しお喋りじゃないと駄目だ」

 あなたに言われたくないですと僕が笑うと、山岡さんは一万円札をカウンターに滑らせ、「明日の分も置いていく」と言って店を出て行った。

 そしてその夜を最後に、山岡さんが店にやって来ることはなかった。

 あの日の帰り際、「最後に」と言った山岡さんはこうなることを分かっていたのかも知れない。
 命は尊くて、きっと大切にしなければいけないのだろうけど、その尺度だけで全てをはかれるだろうか。この世界には命を奪ったことのある善人も、命を奪わないだけの悪人だって存在する。僕はまたブラッディーサムを作ることになったとしても、それでも山岡さんにもう一度この店に来て欲しいと思う。
 それは不道徳な願いかもしれないし、この世界において何が正しくて、何が間違っているのかなんて僕には分からない。
 ただ一つだけ確かなことがあるとすれば、それは山岡さんの愛した女性が、どれだけ世界に拒絶されようとも山岡さんの子供を産むということ。その子は木漏れ日のような愛情を全身に浴びながら、きっと誰よりも優しく、美しい人生を歩んでいくのだろう。




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