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『瓶詰の地獄』(夢野久作)/奇妙な世界へのチラ見

夢野久作と聞くと、「ああ、『ドグラ・マグラ』ね」と即座に三大奇書のひとつが頭をよぎる。だが、この本は手に取った瞬間から脳内で警報が鳴り響く類のものだ。私にとって、夢野久作は読書界の「ラスボス」であり、気軽に挑む相手ではない。その一方で、『瓶詰の地獄』という薄くて軽そうな短編集を見つけたとき、「これなら勝てるかもしれない」と思った自分もいた。実に安直である。

結果? もちろん負けた。この本の薄さにだまされてはいけない。夢野久作ワールドは短くても十分に狂気が詰まっていて、読後感は頭をぐらぐら揺さぶられるものだった。特に表題作『瓶詰の地獄』は、一読で「面白い!」と感じさせながらも、じわじわと消化不良感が襲ってくる。「あれは何だったのか?」と繰り返し考えさせる作品だ。


『瓶詰の地獄』

無人島に漂流した兄妹の兄・太郎が両親に宛てて書いた三通の手紙。この設定だけで、「一体どんな修羅場が待っているの?」とドキドキする。楽園のような島と、そこで渦巻く太郎の罪深い欲望――その対比が読者の不安を煽る。

手紙の順番には諸説あるらしいが、私は「3 → 2 → 1」の順がしっくりきた。2通目の手紙には、太郎の懺悔と信仰心の揺らぎがにじんでいる。

「ああ。何という恐ろしい責め苦でしょう。この美しい、美しい島はもうスッカリ地獄です。
神様。神様。
あなたはなぜ私達二人を、一思いに虐殺して下さらないのですか……。」

『瓶詰の地獄』

神への祈りが虚しく響く中、彼はついに欲望を暴走させたのではないか。そして最後に幻覚の中で1通目の手紙を書いた――そう考えると腑に落ちる。ただ、妹アヤ子の気持ちはどうだったのか。この物語では彼女の心情がほとんど語られないため、読者の想像力を試してくる。罪悪感に苦しむ太郎の手紙を、妹はどんな気持ちで読んでいたのだろう?


『死後の恋』

ロシア革命の混乱期、没落貴族のコルニコフが語る「死後の恋」。彼の話を聞きながら私はこう思った。「この人、自分のことを信じ切っているけど、めちゃくちゃ矛盾してない?」と。

コルニコフは、親友リヤトニコフへの複雑な感情を「彼は実は女性だった」と美化しようとする。だが、その語り口から透けて見えるのは、同性愛への嫌悪感と、自分を守るための必死な言い訳だ。例えば彼の次のセリフ。

「……と言っても決して忌まわしい関係なぞを結んだのではありませぬ。あんな事は獣性と人間性の気質を錯覚した、一種の痴呆患者のする事です……」

『死後の恋』

自己否定がここまで行くと、もう滑稽さすら感じる。彼が追い求めた「死後の恋」は、自分の罪悪感を帳消しにするための幻想だ。そして読み終えた後には、語り手である彼自身の空虚さが残る。けれども、不器用で弱い彼に、どこか同情を覚えてしまうのもまた事実だ。


『支那米の袋』

この話を読んで感じたのは、登場人物たちへのイライラ感だった。ワーニャの浅はかさ、ヤングの傲慢さ、それぞれが不快指数を押し上げてくる。

ワーニャはヤングの甘い言葉を信じて袋に身を隠すが、それが悲劇の幕開けになる。彼女がもう少し慎重に、あるいは知恵を働かせていれば……と思わずにはいられない。だが、踊り子に身をやつした彼女にそんな余裕がなかったのも理解できる。むしろ、教育も機会も奪われた彼女が唯一頼れるのは、目の前にいる男だけだったのかもしれない。

一方、ヤングはというと、終始読者を苛立たせるキャラクターだ。特に、「こんな人物がモテるの?」という疑問は最後まで消えない。彼の存在そのものが、不条理を象徴しているように思える。読み終えた後に残るのは、ワーニャへの哀れみとヤングへの怒り、そして「こんな世界、存在していいのか?」という問いだ。


短編集『瓶詰の地獄』を読み終えて、私はようやく「夢野久作の本を読んだ」と胸を張れるようになった……はずだ。でも正直、この薄い短編集一冊で彼の深淵に触れたとは言えない。それでも、奇妙で異常な世界に引き込まれ、「もう一度読みたい」と思わせる力は圧倒的だ。

いつか『ドグラ・マグラ』に挑む日が来るのかもしれない。その日まで、少しずつ読書の筋力を鍛えていきたい。

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