毒親の「躾」は嘘
毒親が加害行為を正当化する目的でよく使わるワードがある。
「私は躾をしている。」
たしかに子育てに「躾」は必要だろう。それに躾という行為には叱る等の厳しい態度を取らざる得ないことも含まれている。
そう言われると、彼ら毒親の言い分はもっとものように聞こえてくる。しかし、一方でなにか納得いかないモヤモヤした気持ちが残る。
そこで今回はこの「躾と毒親の関係」について考えてみる。
・そもそも「躾」って何だっけ
毒親がやっていることが「躾」なのか判断するためには、そもそも「躾」って何か。改めて考え直す必要があるだろう。
そうすることで毒親が主張している「躾」との差異が嘘として浮かびあがってくるはずだからだ。
なるほど。
要するに『社会から期待される「正しい振る舞い」ってのがあり、それから逸脱した子どもを正す』のが躾の目的なのだろう。
そして、それを達成する手段として「強制力」が必要になることがある。
言い換えると、暴力・暴言、もしくはそれに類した加害行為を使う時もあり、それも躾の一環なのだが、それを虐待と言ってくる人が居る。
だが、あくまでも躾である。
毒親の主張はこのように、まとめられるだろう。
・毒親の躾のウソ
毒親の主張はぱっと見すると一理あるように見えるが、嘘と偽りだらけの主張である。
具体的に見てみよう。
・毒親である時点で躾の資格を喪失している
まず躾の目的とされる社会規範を教えるのが躾の目的だというが、では毒親自身はその社会規範をただしく知っているといえるだろうか?
教師であるならば教える科目の内容を深く理解しているべきであろう。
勿論、毒親は社会的な正しさから逸脱している。
その何よりの証明が、現に子供への加害行為、つまり毒親的な行為をしているということが、毒親が社会的模範から逸脱している人間だという何より揺るぎない証明である。
分かっていないことを、人に教えることなど不可能である。
もしその物事について深い理解がなくても、最低でも教えられる人よりは深く知っていなくてはならないだろう。
漠然と知っているより理解は難しく、理解より実践は難しく、実践より他人に伝える方が難しい。毒親は子どもに加害行為をする不道徳な人間であり、社会的な正しさなんてない。社会的正しさを理解さえしていない。それを誰かに教えるなんて不可能なことである。
自分が社会的な正しさの外にいる時点で、社会的な正しさを誰かに教えさとす権利などない。
もし「自分がさほど理解しなくても親の義務として、無知な子供に教育する義務がある」という反論があるかもしれない。
社会的な正しさについては多くの場合、むしろ毒親より子どものほうがよく理解している。なぜなら親から受ける加害行為のせいで、ものごとの正しさということを根本に立ち返らざるを得なく強制的に強いられるからだ。なにも罪もない私が、なぜこんな仕打ちを受けるのか。本当は無条件で愛してくれるはずの親はなぜこんな仕打ちをするのか。なぜこんなことが許されて、誰も止めてくれないのか。なぜ誰も救ってくれないのか。正義は実現しないのか。存在を否定される苦痛とともに。
・躾の仕方
すでに毒親に躾をする権限など失われたわけであるが、それでも躾が必要だとという彼らの意見に寛大な優しいわれらは耳を傾けてみることにしよう。百歩ゆずって毒親にも躾する必要がある場面があると仮定してみよう。
子どもが社会的な正しさを習得するという、目的が達せられればいいわけであるから、まず試みるべき手段は話し合いである。
話し合いも、親側の価値観が正しいという前提で始めるのでなく、世代間のギャップや、子どもが自分よりも思考力が低いとかの思い込みとか、そんな凝り固まった価値観の常識を捨てて、まず子どもがなぜこんなことをしているのかを知るべきである。そのうえで子供の意思の自由と価値観を尊重しながら、これは良くないなと判断したことを叱って押し付けるのでなく、問いかけながら子ども自身に気づかせることが理想だと思われる。
もちろんこれは理想であるし、毎回毎回こんな手間をかけてもられないだろう。それに理想をいってはみたものの毒親がこんなことを出来るとは最初から想定していない。
だが、しかし躾の内容の深刻性や緊急性からキツめに叱るということが必要になることもあるだろう。子育てと暮らしの多忙のなかでストレスが溜まり、そういった躾の丁寧な手順がないがしろになることもあるだろう。親も人間である以上、脆弱さを許さないということもできない。
一万歩ゆずって、キツめに叱らなくてはいけない状況があると想定してみよう。
しかし、そんなときでも躾は正当な理由とセットであるべきであり、
毒親の場合、私生活のうまくいかなさや自分の不甲斐なさ、不満のはけ口に子どもをサンドバッグにしているだけであり、それに躾というもっともらしい理由をつけているだけである。
だから躾の正当な理由を聞こうとすると誤魔化したり、いまいち釈然としないチグハグなことを言ったりする。
だけどその状況では、毒親の主張はめちゃくちゃではあるけど、子どもの側にも躾されるような少しばかりの落ち度があるように見えるものである。
しかし、これは子どもが悪い子である証明ではない。人間は誰しも完璧でなく過ちを犯しながら成長していくものだからだ。
子どもに落ち度があるから毒親の加害行為が正当化されるなら、じゃあ毒親側の欠落はどうなのか。生まれてから今までの生涯に渡っての不手際の罪状と同時に審査して比べられなければアンフェアであろう。
総じて、子ども側に落ち度がある場合でも、躾の目的と手段は正当であるのか双方を総合的に見るべきである。
いかなる場合でも子どもの人格を傷つけたり否定したり、後になってまで疵痕になるような躾などしていいわけがない。
子どもは親の所有物でない。親の庇護を受けているとはいえ、憲法に保障された自由な国民の権利をもっている。親でもそれを侵害する権利はない。ましてや、いかなる場合でも子供の身体や心も傷つける権限などもっていない。
不当に美化された家庭という閉鎖空間で、躾の名の下に行われている加害行為は許されるべきものではない。