パチンコ 〜ロラン・バルト『表徴の帝国』より〜
フランスの思想家ロラン・バルト(1915〜1980)が日本について論じた『表徴の帝国』。その中のパチンコについての考察が興味深かった。
飼いば桶と公衆トイレ
まず、下記のようにパチンコの説明がなされる。なお、本書は1970年の発表なので、描かれているのはおそらく1960年代のパチンコ店である。
世界的に高名な思想家がパチンコの概要を真剣に説いている時点で既に面白い。ただ、フランスの人たちにとって未知のものを読者にしっかり伝えないといけないから、こういう説明が必要だったんだろうね。
当時のパチンコには、今のようにデジタル画面や音響を使った派手な演出はなく、いわば「玉を発射するだけのピンボール」みたいなものだったようだ。
座席もなく、人々は立ったまま肘と肘を擦り合わせながら、ただ玉を打つ無機質な騒音の中で、所狭しと並ぶパチンコ台に向かってゲームに勤しんでいたらしい。
立ってパチンコに興じる人々の写真に付けられたキャプションが「飼いば桶と公衆トイレ」なのも笑ってしまう。
バルトの連想では、パチンコ台と静かに格闘する人々の様子が、厩舎の中で並んで食事をとる家畜や、男性用公衆トイレの小便器の前に立ち並ぶ男たちのように見えたのだろう。言い得て妙である。
パチンコ=書道?
また、次の引用箇所も面白い。
確かに、ただ玉を込めては弾き出す「作業」を黙々と続ける人々は、淡々と自分の仕事をこなす労働者のようにも見えるし、職人のようにも思える。
実際にバルトは、パチンコを打つ人の手を芸術家のそれになぞらえている。彼に言わせれば、パチンコを打つという行為は本質的に書道と同じなのだそうだ。
上記の引用の通り、書道において、一画一画は一筆で書かれねばならず、一度引いた線を修正することは許されない。僕も高校時代に書道の授業で、かすれてしまった部分を少しばかり上塗りして整えたら注意されたことがある。
バルトからすれば、この「矯正されえない」という特徴を機械の中で体現したのがパチンコなのである。一度玉を打てば最後、もうやり直しは効かない。これが本質的に書道と同じというわけだ。
バルトの著作を読むと、こういう独特の感性が随所に見られて愉しい。今後も色々と紹介していきたい。