方法としての演劇、目的としての演劇
今回は、僕が携わっている小劇場演劇について最近考えていることです。
ざっくりいうと、演劇には「方法としての演劇」と「目的としての演劇」の両面があるという話です。
実に簡単な話で、例えば
「金槌で釘を打つ」という行為には、
「釘を打つために金槌を振るっている」と
「金槌を振るうために釘を打っている」という二つの面があるのと同じことです。
これは演劇ではない
この話のきっかけは、僕が関わった演劇の感想の中に
「これは演劇ではない」
という感想を見たことにはじまります。
個人の感想なので、それが良い悪いという話ではありません。
なぜこの人は演劇を見て「これは演劇ではない」と感想に書かれたのか。
その演劇は、参加型演劇を謳っており、日常的に人が公に集まるシチュエーション(講演会、ライブ、シンポジウム、表彰式)にオーディエンスとして観客を集め、そこであり得ない出来事が次々に起こるという作品です。
ある種、観客全員をターゲットにした大掛かりなドッキリみたいなものかもしれません。
もちろん、これは演劇としてプロモーションしていましたし、観客は「何かが起こる」ことは全員了承済みでした。
そして、起こる出来事はちゃんとドラマ仕立てで、オチも、カーテンコールもちゃんとありました(時節柄、見送りはありませんでした)。
我々にとってはまさしく「演劇」をやったはずでした。
そもそも演劇とは…?
さて「これは演劇ではない」と言われれば、まずは演劇の定義からはじめようじゃないかというのが、小劇場の偏屈者どもの嗜好です。
もちろん、人それぞれに演劇の定義がありますし、混じり合うこともあれば反発することもあります。和解したことなんて全然ありません。
その前提の上で、僕の演劇の定義は
「物語」を「演じて」、「観客」に見せることです。
「物語」は文学や、歴史や、日常の中にありふれたものです。
「演じる」とはその物語を生きることです。
人は日常の中で、さまざまなシチュエーションを演じています。
親族のお葬式の最中に、マンガアプリを見てゲラゲラ笑う大人はいないでしょう。
どんなに嫌いな人でも、上司ならとりあえず挨拶くらいはするでしょう。
「TPOを弁える」これぞまさしく、普通の人が無意識的に行っている演技に他ならないと、僕は考えます。
シチュエーションを見定めて、それに相応しい自分の態度を生きる。
・お葬式で大切な人を見送る。その場で一番悲しんでいる人に気持ちの焦点を合わせて全員で態度を一致させていく。
・とりあえず今日一日、嫌いな上司から必要以上に叱責されないように勤務態度に気を遣う。
・配られた台本の物語に、効果的な役割と態度で舞台に臨む事。
これらは全て態度を逆算して生きることに他ならず、全て『演技』です。
最後にそれを「観客」に見せることがすなわち、演劇の定義だと僕は思います。
演劇ではないか?
話をひとつ前に戻しましょう。
我々の行った演劇は、正しく、定まった物語に向かい、そのシチュエーションに相応しい態度を逆算しながら生き、それを観客に見せました。
僕の定義からするとこれは絶対に演劇です。
ではどうなったら演劇じゃなくなるでしょう。
1.物語になっていない。
「台本の最後の結末が決まっておらず白紙。あとはその場の雰囲気で作ってね。」というコンセプトの演劇もあるかと思いますが、ルールに従い結末のない演劇を作る手法はあります。インプロやコミュニケーションゲームと呼ばれます。ただこれはゲーム感覚に近いものがあり、物語を期待しているお客様には演劇という感覚を持ちづらいかもしれません。
2.役者の態度が物語にそぐわない。生きていない。
悲しい結末のはずなのに、主人公の態度がチグハグで全然共感できなかった。盛り上がるシーンなのに、仇役が棒読みなことが気になって集中できなかった。これは単に演技ができていないのでしょうがないかもしれません。僕もこうならないように精進したいと思います。こういう時決まって言われるのは「学芸会レベル」。涙が出てきますね。
3.観客が誰もいない。
公演だろうが、試演会だろうが、発表会だろうが、誰も観てくれなければ演劇と言えないのではなかろうか……?「無観客・無配信公演」というのをやった仲間が1人います。どんな感覚であったか是非聞いてみたいところですが、それは特殊な例として傍へ置いておいて、まず、誰もみていない・誰も認知していない状態で演劇だけがあっても、誰も観測できないわけですからそれが存在しているというのは本人にしかわかりえないのです。
シュレーディンガーの演劇です。
さて、「これは演劇ではない」といったお客様の感想を先の3つの観点から観測した時、1.と3.は明確に否定できます。そのお客様はちゃんと「物語」を「鑑賞」したわけですから。残る2.についてそれが「演技」とはかけ離れたものだったと言われたのだとしたら、これはもう、みんなで泣きます。信頼があって仰ったのだと信じたいです。ただ、ほとんどのお客様は役者の演技に大変満足しておられましたし、その点については座組み全員が自信を持っているところでありますので、積極的に除外させてもらいます!
おりゃっ!
仮説「お客様に『物語』が観測できなかった」
仮に、我々が用意した物語をお客様に認知してもらえなかった場合を考えます。
A.先ほど1.のところで例に挙げたコミュニケーションゲームには明確な物語が用意できません。これはコミュニケーションを目的としたゲームなので、ゴールを「物語を演じる」とすることができないからです。(ゴールした先に物語を付随することはできます。これは多くの試合やゲームと同じです)
B.また、インプロについては即興演劇を組み立てていくためのルールは存在するものの、台本を用意することも、あまつさえ面白くしようとすることすら必要ありません。ある種、演技につきものの「逆算」を除外することで累進性のある「生き様」をその場で紡ぎ出し、そのエンターテイメント性を押し上げているのです。これはむしろ積極的に「演劇」と呼ばれる場合があります。
C.もしくは、物語が難解過ぎて結末を理解できなかったということもありえます。これは僕にも経験があります。こういう時は素直に「難し過ぎました…」と白旗を上げるようにしています。親切な劇作家さんだったら、解説をしてくれたりします。
上記に挙げた3つについて、共通する感覚があります。
それは、「演劇」をすることが「物語」を超越する感覚です。
A.のコミュニケーションゲームについてはまず「物語」の用意がありません。しかるに台本がありません。
B.のインプロについても台本がありません。それは演劇をするために「生きる」という作業をしているからに他ならないからです。
C.の難解な物語という文脈では、もちろん台本はあります。ただ、より「演劇」を目的とした台本には、「物語」を明確に伝える必要はなくなります。
だんだん結論の方へ近づいてきました。
つまり、「演劇」を目的とした場合、「物語」を手段として利用するので、物語はどんな形をとっていても構わないのです。
釘を打つことが目的なら、それは金槌でも凍ったバナナでも打てればなんでもいいのです。釘打ち名人がコンニャクで釘を打ち始めたらさすがに意味がわからなくて混乱しますが、打たれた後の釘がちゃんと板目に収まっていれば、それがなにで打たれたかなんて後からは知る由もないのです。
もちろん、一般に理解される「演劇」は
「物語」を「演技」することを「観客」に見せることですので
「物語」を目的として「演劇」を手段としている場合が多いでしょう。
「この演劇で何を伝えたかったの?」と言われるそれが、物語にこめられたメッセージを目的としていることはいうまでもありません。
「演劇とは何か?」
この話のきっかけとなった演劇は、まさしく「演劇」をするために日常のシチュエーションを利用しました。観客の存在も日常の一部と化すわけですから、観客も物語の一部となり、傍観者となることは許されません。
観客もまた、観客を演じていたのです。
もしこのとき、「この演劇で何を伝えたかったの」と聞かれれば、「演劇とは何か?です」と答えることが正解なのかもしれません。
そしてそれは「方法としての演劇」ではなく「目的としての演劇」を語っていることを理解しなければなりません。
世の中には自己表現の方法として、音楽、ダンス、美術などがあり、さらにそれはさまざまなジャンルに枝分かれしています。
そのジャンルを再定義するために試みられることは、すなわちそれを目的として深堀りしていくことであり、どんな方法で掘り下げられたとしても、それはその世界を深化します。
「方法」とはこの世に生み出されたその瞬間から「目的」として追及される側になります。
「方法」が「目的」として扱われるときのそれは非常に哲学的で、学術的です。大学で研究されているようなことは大抵「方法」のことです。
研究とはつまり「方法」を「目的」として捉え、掘り下げていくことに他ならないのです。
皆さんがもし、あなたの持つ「演劇」の概念とかけ離れたような作品を見たなら、演劇という方法が新しいステージに向かおうとしている瞬間に立ち会ったのだと、考えていただければと思います。
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