宮台真司とは何者か?
2022年11月29日、宮台真司氏が暴漢に襲われた。彼が教授を務める東京都立大学のキャンパス内で何者かに背後から頭を殴られ、刃物で首や背中や腕などを斬られて、救急搬送された。犯人の男は逃走し、警察が行方を追っている。そのニュースは大きな衝撃をもたらした。
宮台氏は、30年来の私の友人である。愕然とした。身が震え、その夜は眠れなかった。
宮台氏は重傷だが、命は助かった。数時間もの大手術を受け、何十針も縫ったという。心配でたまらない。どんな痛い、辛い、恐ろしい思いをしているだろう……。
12月3日、お昼のこと。突如、宮台さんからメールが届いた。えっ! 目を疑った。襲われてまだ4日だ。全治1か月の重傷で入院しているはずなのに……。
実は、今回の事件の前に宮台さんにメールを送っていた。2023年2月に私の新著が出る。寺山修司が今も生きていて、80歳代半ばで、アイドルグループをプロデュースする。その名も、『TRY48』というぶっ飛んだ小説だ。
ここ数年、精神的に追いつめられていて、なんとか脱するために懸命に書いた物語である。その時、宮台氏の寺山修司論が猛烈に刺激をくれた。小説中にも宮台真司の名前を出している。久々に宮台さんと公開対話したい! と。
先のメールはその返信だった。回復したら「いつでも登壇します」、と。驚いた。命を狙われ、死にかけた。全身を斬られ、傷だらけで、入院中に。私のために……。涙が出た。彼が友情に厚い人だとは知っていた。それでも…男前すぎる。これが宮台真司なんだ! と思い知らされた。
毎日新聞の私の連載コラムで<我が友・宮台真司へ!>というメッセージを寄せた。そこで「宮台さんの友人として、私は恥じます。あなたの闘いをどれだけ支えられたろうかと」と書いた。今後は「少しでもあなたを支えたい」と。
私にいったい何ができるだろう? 真剣に考えた。今回の事件で宮台真司を知った人がいるかもしれない。あるいは、名前や顔は知っていても彼のことをよくわかっていない方々もいるだろう。宮台真司とは何者か? そのことを伝えるべきだろうと。
宮台さんのデビュー作とも言える著書『制服少女たちの選択』(1994年11月刊)の文庫版(2006年12月刊)の解説を、光栄なことに執筆依頼された。一念発起して<宮台真司の”転向">と題する、文庫解説としては異例の16000文字もの長文原稿を書いた(後に拙著『午前32時の能年玲奈』に収録)。この原稿を、宮台さんはとても喜んでくれた。私にとっても、もっとも力を注いだ自身の画期となったものだと思う。あれを書けたからこそ、今も文筆活動を続けられているのではないか……。
そうだ、その全文をnoteで公開しよう! 思いついたのはいい、が…。お恥ずかしい話、ローテクの私はいまだに手書きで原稿を執筆している。パソコンも持っていない。そこでスマホで16000文字(原稿用紙40枚)の原稿をポチポチ書き写すことにした。気が遠くなる作業だ。ひと晩では終わらない。おまけにヒーターが壊れて、極寒の部屋で電気毛布にくるまり凍え死にそうになりながら……冷えきった指で延々と文章を打ち続けた。宮台さん、寒いです〜⁉︎ 叫びそうになったが、傷だらけの彼のことを思えば、こんなことは何でもない。
必死で書き写す内に、あの宮台さんとの日々が甦ってきた。だんだん力が湧き上がってきた。ありがとう、宮台さん…あなたは私に勇気をくれました。へこんでいる場合ではない。ここから中森明夫は再生します。
それでは、皆さん、ぜひご一読を!
宮台真司の"転向"
宮台真司を知ったのは、いつのことだったろう。すでに1980年代末には少壮の社会学者として、その名前を耳にしていたと記憶する。1990年には「中央公論」誌上で(本書=『制服少女たちの選択』に収録された「オタク/新人類」論の原型となる)文章を目にしてもいた。しかし、それは正確な意味で「宮台真司」を知ったとは言えなかったのではないか?
90年代はじめのことだったと思う。午前中、何の気なしにテレビを見ていたら、妙なものが目に止まった。メガネをかけたヤケにツルンとした若い男が、得意げな表情でペラペラとしゃべりまくっている。大学の研究室とおぼしき背景のその本棚には、少女マンガがぎっしりと並んでいた。件の青年は少女マンガを研究しているらしく、それで若者の心理の変遷が理解できるという。「これってあたしタイプ」とか「少女ちっく」がどうしたとか、こちらがこっ恥ずかしくなるような変テコな用語を口走りながら、御高説をたれている。それを目にした時のあの違和感を、いったいどう言ったらいいだろう。
「げっ、なんてイケすかない野郎なんだ! とうとうこんなキショク悪い若者が出てくるお寒い世の中になっちまったのか⁉︎」
そんな言葉を吐き捨てたかもしれない。正直、不快感でいっぱいだった。そして、おそらくそれが「あの」宮台真司を私が知った最初の瞬間だったのだ、と今にして思う。
社会学者・宮台真司と、目の前のイケすかないツルンとした野郎とが、容易に結びつかない。何しろ自分よりずっと年下の''若造’’のように見えた。まさか、それがまったく同世代の人間であり、後に90年代を代表する論客になろうとは……。
思えば、数年前、80年代半ばに"新人類の旗手’’と呼ばれ、世に出た頃の私自身もまた、それこそ「イケすかない野郎」「キショク悪い若造」と指弾されていたのではないか? そう考えると、初見の宮台真司への悪印象は、いわば遅れて意識された近親憎悪、同族嫌悪の類だったかもしれない。
社会学者・宮台真司が広く一般にその存在を知られたのは、93年夏の"ブルセラ騒動”以後のことだったと思う。朝日新聞の文化面を舞台に繰り広げられた"ブルセラ論戦”は彼の名を一躍、世に知らしめた。女子高校生が下着や制服、自らの身体を見ず知らずの男らに売るという不可解な現象。それは世間に報じられ、大きな衝撃をもって迎えられている。さらに有名な公立大学の助教授が件のブルセラ少女らを新聞紙上で"肯定“するということーー。その時点、その時代に、そのことの意味は、実はよく理解されることはなかったのではないか?
当時、数多くの人ブルセラ少女らを取材、フィールドワークしていたのは宮台真司とルポライターの藤井良樹、ただ二人だった。藤井と親しかった私は、彼の紹介により宮台真司本人と対面する。95年3月3日のこと。たちまち意気投合して、私たちは親しくなり、交友関係が始まった。今にして思えば、絶妙の時期だったと思う。直後にオウム真理教による地下鉄サリン事件が勃発している。ブルセラからオウムへ。宮台真司はさらなる論争の渦へと突入していく。一挙にその存在を大きくメジャーなものに変貌させてゆくのだから。
あの頃の宮台真司の"輝き“を、いったいどう伝えたらいいだろう。アイドル評論家的な比喩を許してもらえば「ブレイクのその瞬間のアイドルとめぐり逢い、親しくなったような気分」とでも言おうか。あのオウム騒動の渦中に、ほぼ毎日のようにテレビ番組に出ずっぱりでいながら、たった数日で『終わりなき日常を生きろ』を執筆、刊行。大きな反響を呼んだ。「終わりなき日常」は彼の著作であることを超え、その年の流行語のようにもなっている。阪神大震災からオウム騒動へ、ちょうど戦後50年のその年は、思えば、時代の大きなターニングポイントだったのかもしれない。
同じ年に藤井良樹を代表とする私塾ライターズ・デンが発足、宮台と私は講師として参加している。あの頃は毎週のように宮台真司と藤井良樹と会っていた。私塾の授業で、トークイベントで、あるいは深夜の居酒屋で、私たちは幾度となく長い対話を交わしたものだ(その一端は97年刊の『新世紀のリアル』<飛鳥新社>に記録されている)。当時はまったく眠ったような記憶がない。夜通し語り合って、朝になり、帰宅しようとすると、宮台真司はそのまま大学の授業に出かけてゆく。"知力“はもちろんのこと、何より彼のその"体力“に圧倒された。
「あの頃はいつもお祭りだった」(『美しい夏』)
「ぼくらはとても若かった。あの年、ぼくは一睡もしなかったのではないか。しかし僕よりもっと眠らない友だちがいて、朝の一番列車が到着する時分には、もう駅前を歩いている彼を見かけることがあった」(『丘の上の悪魔』)
チェザーレ・パヴェーゼの小説の一節(河島英昭訳)を読む時、あの頃の自分と宮台真司のことを思わないではいられない。
いや、こんなところにしておこうか、「90年代センチメンタル・ジャーニー」は……。
今、十余年ぶりに『制服少女たちの選択』を読み返して、深い感慨を持った。『権力の予期理論』のような理論書や、『サブカルチャー神話解体』といったグループワークを除けば、これは宮台真司の処女作といっていい。ここには優れたアーティストのファーストアルバムが持つのと同様なすべての要件が満たされている。自分の手持ちの札を惜しみなく投入すること、ゆえにそれは創作者の可能性を表すメニューであり、行き先を示す地図であること。よって、その後の彼(彼女)自身の展開を暗示する予告篇のようなものになること。"ブルセラ論戦“の渦中に書かれた現代少女論があり、援助交際論がある(アルバムに収録されたヒット曲のようなもの)。『まぼろしの郊外』に連なる郊外論があり、翌年のオウム騒動の折に『終わりなき日常を生きろ』で全面展開される宗教論がある。さらには『エヴァンゲリオン』ブームや"酒鬼薔薇聖斗“事件以後、顕在化するコミュニケーション論や島宇宙化論がある。まさに90年代に展開された宮台真司の多様な論点が凝縮されたような一冊だ。「作家は処女作に向かって成熟する」という言葉があるが、宮台真司はここから始まり、ここに還ってくる……という予感がある。
いや、それにとどまらない。本書は90年代のマスターピースではないか? 単なる社会学者の書いたフィールドワーク本でもなければ、啓蒙書でもない。この一冊を読み通せば「90年代とは、いかなる時代であったか?」を明瞭に把握することができる。わかりやすく言えば、こういうことだ。90年代は、<少年>と<少女>の価値観の戦いだった。<少年>の価値観は世界の終末を夢見る。80年代の『アキラ』や『マッドマックス』に始まる核戦争後の廃墟を、少年たちが跳梁するイメージである。何も変わらない日常は、少年たちにとって息苦しいばかりの地獄だ。やがてそれは世界破壊の衝動を育む。リセットしたい。すべてチャラにしたい。世界を終わらせてしまいたい。オウム真理教信者のハルマゲドン待望は、現実に地下鉄サリン事件を引き起こす事態へと至る。「みんな死んじゃえばいいんだ!」と『エヴァンゲリオン』の碇シンジ少年は叫んだ。世界と自己を直結させた"酒鬼薔薇聖斗”以後の少年犯罪の主役たちは、世界破壊を自己破壊の衝動へと転化させて自らの周辺にナイフを向ける。やがてそれは今日(こんにち)のアニメやライトノベルの分野で<セカイ系>とも呼ばれる感性に発展/拡散を遂げてゆくことになるだろう。
対する<少女>の価値観ーー。「世界なんて終わるわけないじゃん!」。援助交際でもして今をまったりと生きること。オウム信者の<純白>のサマナ服や、酒鬼薔薇聖斗の<透明>な存在に憧憬を抱いたりしない。この不透明な現実を受け入れ、適度に薄汚れながら、でも決して傷つくことなくゆるやかに日常をやりすごすこと。ブルセラ・コギャル・援助交際<少女>らが知らずと身につけた、そんな「終わりなき日常」を生きる智恵を、今こそ我々は積極的に学ぶべきではないか。それはやがて宮台真司によって「まったり革命」とも呼ばれることになるだろう。
こんな見通しのよい90年代理解は、いわば"宮台史観"とでも呼ばれるべきものかもしれない。しかし、重要なのはこれが事後的・俯瞰的な社会学者の視点で総括された歴史観ではないということだ。繰り返すが単行本『制服少女たちの選択』はオウムによる地下鉄サリン事件の前年、94年11月に刊行されている。宮台真司は時代の結節点に立ち、状況と併走しながら、これらの論を紡いだ。今後、より精緻で正確かつ詳細な分析による90年代論や史観が後学の手で発表されもするだろう。だが、これだけは言っておきたい。時代のまっただなかで、こんな明晰な論を提示しえたのは宮台真司ただひとりだったーー、と。宮台の「明晰」を讃えるのではない。後になれば誰にでも「明晰」な論など吐ける。そんなことは容易なことだ。重要なのは目の前の予測不能・正体不明な「現在」に対峙して一歩もひるまないこと。決して目をそらさぬこと。恐れることなくその「現在」時点に自らの意見をはっきり表明することではないか(後にどれだけ恥をかくことになろうとも)。「知性」ではない。つまりは、そう、宮台真司の「勇気」をこそ……私は讃えたいと思う。
宮台真司は「勇気」がある。それは今日(こんにち)の同時代の知識人らからは、ほとんど失われてしまったものだ。クリティック(批評)とはクライシス(危機)の知性であるべきなのに。現代の我が国の学者・知識人らは、象牙の塔や狭い身内のサークル(島宇宙化!)の安全地帯に身を潜めて、安穏としている。宮台真司はそうした既成の知識人像を一変させてしまった。何よりめっぽう議論に強かった。学界誌や論壇誌の枠内ではない。強者どもが寄り集う『朝まで生テレビ』の舞台に出ていって、年長の論者らに集中砲火のような批難を浴びても平然としている。テレビ討論の生番組で西部邁を論破・完全ノックアウトして、西部を退席させてしまった。ブルセラ少女をめぐる論壇誌の対論でも、福田和也に半ベソをかかせている。いや、それだけではない。トークライブでは自らの性体験を赤裸々に明かし、時に激すると「田吾作」「アメリカのケツなめ連中」「無能な官僚どもは溶鉱炉にでも放り込め」等々の暴言が飛び出して拍手喝采を浴びたりした。新右翼から元・赤軍派、マンガ家にアイドル、AV監督、マゾ男優に至るまで対話の相手を厭わず(『野獣系でいこう‼︎』に詳しい)、若者雑誌からサブカルマガジン、マニア誌、エロ本の誌面にさえ登場(コアマガジン刊"中年男性と10代少女を繋げる唯一の雑誌“『うぶモード』に「萌える宮台真司」を絶賛連載中!)、コスプレにカブリモノ、半裸、果ては女装写真(!)すら披露している。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』に、ブルセラ少女を肩車する宮台の似顔絵が描かれて揶揄されると、「週刊プレイボーイ」の誌面(特集「僕たちは『宮台真司』になりたい!」)で実際に学生服を着て女子高生を肩車する姿で登場してみせたり……と、破天荒なエピソードには数限りがない。何しろ、まあ、こんな知識人は前代未聞、空前絶後だろう。とはいえ決して単にメディアに消費されたり、よくあるタレント教授の類に堕したりするわけではなかった。どれほど時代の表層で踊っているように見えても、彼自身の論文の精妙緻密さには一分の狂いも衰えすらも見られない(このへんは三島由紀夫の派手なパフォーマンスと対照的に精緻なその小説世界との関係を思わせる)。
俗な言い方をしよう。宮台真司は"知的カリスマ”になった。その時代時代に知的な関心を持つ若者たちが崇拝し、著作を必読する現役の知性というものがある。古くは小林秀雄がそうだった。丸山眞男や吉本隆明がそうだった時代もある。90年代半ば以後は宮台真司がその地位に着いたと断言していい。90年代の宮台が変えたものがある。それまで淀んだ空気のようにあった80年代のポストモダン、ニューアカデミズムらの趨勢を一掃したということだ。名前を挙げれば、浅田彰、中沢新一、柄谷行人といったお歴々である。かつてのニューアカの星・浅田彰の名前を現在の若い学生らは誰も知らない。中沢新一は(自らが招いたと言ってよい)オウム事件で醜態を晒した。柄谷行人が、公開シンポジウムの席上で宮台真司の名前を挙げ、口汚く罵ったのを耳にしたことがある。援助交際少女に革命を見る宮台の発想は、かつての平岡正明の『あらゆる犯罪は革命的である』の反復にすぎず、破綻するに決まっているというのだ。何をトンチンカンなことを言っているのだ、と苦笑した覚えがある。宮台の「まったり革命」は犯罪的革命を、いや、あらゆる革命幻想を無効化する最後の革命、いわば逆説的革命であるということをまったく理解していない。結果ははっきりしている。実際、破綻したのはその後、NAM(New Associationist Mo vement)なる革命「モドキ」をぶち上げ、仲間や信者の猛批判や離反に遭い、あえなく頓挫、無惨な老醜を晒した柄谷行人自身のほうだった。
いや、しかし私はこうも思う。柄谷行人は"知的カリスマ”の宿命を身をもって生きたのかもしれない、と。一時は星と崇められた時代(とき)の知性は、やがて当の崇拝者らによって「裏切り者」「転向者」と謗られ、その地位を引きずり降ろされる宿命を持つ。転向を「態度変更」と言い換え、湾岸戦争の反対署名以後、(あれほど反核運動を批判していたのに)平和運動に転じた柄谷自身がそうだった。60年安保の"知的カリスマ“だった丸山眞男は、70年安保の全共闘学生らに研究室を破壊され「ナチスもやらなかった蛮行だ」と逆上する。丸山のその反動性を徹底批判した吉本隆明は、全共闘世代の"知的カリスマ”の座を獲得した。しかし、その吉本にもまた、やがて80年代を迎える頃には同じ"宿命“が待ち受けている。
吉本隆明が一躍、名を知られたのは、その「転向論」(『マチウ書試論/転向論』)によってだった。1958年、34歳の時(宮台真司が生まれる前年、宮台の"ブルセラ論戦”と同じ年齢だ)。既存の日本的転向概念を覆すその論は当時の知的潮流に大きな衝撃を与えたーーと論壇史年表には記されもするだろう。佐野学・鍋山貞親の日本社会に対する「無関心」的転向のみならず、宮本顕治・小林多喜二らの「非転向」もまた「現実的動向や大衆的動向と無接触な、イデオロギーの論理的サイクルをまわした」にすぎぬ非転向という名の転向である(対する中野重治の転向態度を吉本は評価した)ーーこんなシャープな「転向論」をものした吉本隆明が、30数年後に『わが「転向」』なる珍妙な論(?)を発表して、"転向宣言”を果たすのは皮肉なことだ(ミネラルウォーターが売られたことでマルクスの『資本論』が否定されたというのだから!)。94年ーーそう、宮台真司の『制服少女たちの選択』が刊行されたのと同じ年である。
実際はそれよりずっと前、『マス・イメージ論』でサブカルチャーを評価した80年代初頭あたりから、吉本は「転向者」としてかつての仲間や信奉者らから激しい批難を浴びていた(批判者の中には若き日に吉本を信奉していた柄谷行人の姿もある)。埴谷雄高とのコム・デ・ギャルソン論争(85年)では吉本家のシャンデリアまでもが資本主義的と槍玉に挙げられたものだ。『わが「転向」』の翌年、地下鉄サリン事件の渦中に、吉本は教祖・麻原彰晃が優れたヨガの指導者だとする発言を新聞紙上に発表、集中砲火のような徹底批判を浴びた。知識人らのみではない。かつて「大衆の幻像」を唱え自らの理論的支柱とした吉本「自身」が、他ならぬ当の大衆によってきびしく断罪されたのだ。
吉本隆明ほど生涯にわたり様々に批判を受けた論客もそうはいない(『わが「転向」』の冒頭には60年安保の頃、清水幾太郎に次ぐ「同伴知識人第二号」と名ざしされたエピソードか明かされるが、わずかに清水の顔が思い浮かぶぐらいか?(宮台真司の先達である社会学者のスキャンダリスト、平和運動の旗手から核武装論者へーー生涯を"転向“の内に生きた毀誉褒貶かまびすしい清水幾太郎のその軌跡は、小熊英二の手によるブックレットに詳しい。それはシュテファン・ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』を読むような面白味がある)。
今、私は思う。もしかしたら吉本隆明もまた(柄谷と同様)自らが"知的カリスマ”としての宿命をもっとも忠実に生きようとしたのではないか、と。一時は星と崇められながらやがて当の崇拝者らによって「裏切り者」「転向者」と謗られ、その地位を引きずり降ろされること。それは、かつて夜明けの鳥が鳴く前に(自らの予告どおり)使徒に裏切られ、十字架にかけられたあのユダヤのカリスマ以来、繰り返された"宿命“だったのかもしれない。
すると、さて、我が宮台真司はどうだったろう? 90年代に出版された宮台の著作は次々と文庫化されているものの、本書『制服少女たちの選択』だけは、なぜか叶うことはなかった。それは宮台自身のその後の大きな態度変更が原因だと囁かれている。単行本の「まえがき」で宮台はこう書いていた。
「教育評論家やいわゆる『識者』の方がたは言う、少女たちは自分自身を傷つけていることを知らないと。いつかは後悔するだろうと。しかしその『傷』という観念たるや、すでに『価値判断』の産物にすぎず『問題』にならない。少女たちはけっして後悔しないだろうと断言できる」
なんと威勢のいいタンカだったろう。時代閉塞を突破する痛快な合言葉であったことか。
<少女たちは傷つかない!>
やがてそれは「まったり革命」へと連なる高らかな宣言でもあったはずだ。ところが……。今日(こんにち)の宮台はその言を大きく翻している。やはり多くの援助交際少女たちは傷ついたのだ。「まったり革命」は間違っていた、と。大塚英志との対話や、本文庫にも収録の元援助交際少女らとの座談会でもそう表明している。これは、いったいどうしたことだろう? そもそも「傷ついた/傷つかなかった」ということをどう証明するのか? 社会学者らしくもない。いや、「あの宮台真司」らしくもないと言い直そう。当の宮台自身が「傷」という観念は「価値判断」の産物にすぎないと断じていたのではなかったか?
どうやら事態はもっと深刻なようだった。98年末、私塾ライターズ・デンが活動を休止して以来、いつしか宮台真司と私の仲は疎遠になっている。気がつけば、もう、ほとんど彼とは会わなくなった。正直、宮台の論を詳細に追うこともなくなっている。世紀をまたぐ頃には「宮台さんの様子がおかしい」という話をよく耳にした。なんとか彼にエールを送りたい。田中康夫と浅田彰との座談会に出席した私は、そんな思いも込めて、やんわり彼をからかう発言をした。すると、すぐに宮台真司のホームページで応答がある。私に対する猛烈な批判を連ねる文章が発表されたのだ。これは参ったな……と苦笑するしかなかった。いや、正直に告白しよう。密かに心の中で呟いたものである。
「もう、宮台さんと会うこともないかもしれないな」、と。
ちょうどその頃だったろう。<宮台真司の転向>というフレーズが、若い論者らより発せられるのをよく見たり聞いたりするようになったのは。時折、目にする宮台自身の発言には、"天皇”や"アジア主義“の語が頻繁に見られるようになる(援交から天皇へ!)。やがてそれは"三島由紀夫“ーー"北一輝”称賛へとまで至るだろう。いったいどうしちゃったんだ、宮台は⁉︎ そんなふうに心配したのはどうやら私だけではなかったらしく、大塚英志(今や"戦後民主主義“を代表する知識人だ)が本人に率直な疑問を呈するインタビューを行っていた。その対話を詳細に読めば、宮台の急激な"右旋回”とも見える振る舞いは、実は「アイロニー」の意図によるものだと理解できる。
しかし……。「空回りしてるなあ」というのが正直な感想だった。宮台がよく参照対象とする三島由紀夫は、決して自らの行動を「アイロニー」だと口にしてはいない(唯一、野口武彦がその卓抜な三島論によって"ロマン派的イロニー”を指摘した時、「あなたは私のことを知りすぎている」と公開状を書いたぐらいだ)。宮台がよく口にする「あえてするベタ」を、本人が「あえて」と表明してしまっては「ベタ」にも「ネタ」にすらもなろうはずはない。彼とは距離を置きながらも、そんな強い危惧を覚えていた。宮台真司は、いったいどこへ行ってしまうのだろう?
ある時、頭の中でぴたりとパズルが解けるような音がした。そうか、実は自分は大変な思い違いをしていたのではないか? 突然、すべてが了解されたようにも思えたのだ。そう、「まったり革命」は間違っていたのではない。いや、充分すぎるほどに充分に達成していた。むしろ完全勝利を宣言して、今やその使命を終えようとしている。そして、そのことにもっとも苛立っているのこそが、実は宮台真司自身ではないか?
「まったり革命」「終わりなき日常を生きろ」と宣言しながら、宮台自身がまったり生きられないーーとはよく指摘されるところである。意味から強度へ。まったりとしたこのスーパーフラットな(終わりなき!)日常空間から逃れるように、彼は沖縄の濃密な異界へ、ゲイパレードの狂騒の渦へと飛び込んでいく。でも……。はたして、そこで本当に彼自身の<超越的なもの>は獲得できたろうか?
"天皇"と"アジア主義"と"三島由紀夫"と"北一輝"と……どれほど挑発的な言辞を並べ立てようと、いっこうに波風の立つ気配すらないこの(まったりとした!)現状に宮台真司はとまどっているように思える。そして、そんな状況こそが……まさに彼自身の「まったり革命」のその成果ではないか? さらに決定的なのは、宮台自身の"転向"宣言そのものが(吉本隆明や柄谷行人ら先達のようには)さほどの批難も反響すらも呼ばないことこそが、何より雄弁な「まったり革命」の勝利の証しではなかったか?(当の宮台自身が"知的カリスマ"の幻想を終わらせたのだから)。なんという皮肉。なんという逆説。
しかし、この逆説はどこか必然だったようにも思える。「革命」を真に成就させるには、最終的にはその担い手の犠牲を必要とする。それが「革命」というジグソーパズルの最後のワンピースなのだ。映画『セブン』を思い出そう。再現された"七つの大罪"を完成させるために、正体不明の犯人の男は、最後には自らの命をさし出す。あれが革命家の真の姿だ。レオン・トロツキーはどうなった? 西郷隆盛は? チェ・ゲバラは? 革命の後の彼らの"宿命"は? しかし、革命幻想の潰えたこの現代にあっては、スターリンも、大久保利通も、カストロも、いない。そう、まったりとした永遠に終わらない日常世界の中で……ただ、宮台真司ひとりが途方に暮れている。
あれは新宿の明治通り沿いにある雑居ビルのライターズ・デンで借りた一室だった。98年のことだったろうか?
『これが答えだ!』という本を作るため、毎週のように私たちはその狭いワンルームに寄り集っていた。宮台真司と、私と、成宮観音(三坂知絵子)と……。当時の宮台真司の
多忙ぶりは殺人的で、ほんの少しの時間を獲得するのが精いっぱい。大学の講義と講演と取材と執筆とメディア出演を終えて、夜遅くその部屋にたどり着く頃には、もう彼はくたくただった。私が質問を投げかけて、宮台が答えるという趣旨の本である。だが、疲れきった彼は放心状態で、まるでレモンの搾りカスのように一滴の言葉すらも出てこない。
ダメだ。これではいけない。なんとか言葉を引き出そうと、一計を案じることにした。宮台は激昂すると機関銃のように口から言葉の弾丸が発射される。彼を怒らせることにしたのだ。思いきって私は、西部邁に扮したのである。メガネをずり下げ、ニヤニヤ嫌らしい笑みを浮かべながら下から卑屈に見上げるようにして、頭の後ろから手のひらを額にあてるポーズで「ちょ、ちょっと待ってくださいよ〜、ミヤダイさん、いわゆるミヤダイ的な? アノミーな? チャイルディッシュな? ものはですネ〜、ざっくりと言ってノーマネーでフィニッシュ、まあ、完全に破産しているワケで……」とネチネチ責め立てる。すると放心状態からハッと覚醒した宮台氏は「それは違います、西部さん! ハッキリ言って、あなたはバカです。御説明しましょう。あなたの間違いはですよ……」とニセ西部邁の私に対して容赦のない言葉の連射を浴びせかけるのだった。
今にして思う。どうして、あの時、気づかなかったのか? いや、気がついてやれなかったのか? あんな状態の彼を目の前にしていたというのに……。放心状態で、まるでガラス玉みたいな透明な瞳をして、ただ、呆けたようにジッと夜の虚空を見つめていた……宮台真司。おそらく彼の精神の内では恐ろしいほどの「空白」が巣食っていたことに違いない。しかし、私は目先の本の完成を急ぐばかりで、決して、それを見ようとはしなかった。
宮台真司は、私が出遭った同世代でもっとも優れた知性だ。一番、頭のいい男だ。「天才」と言っていいだろう。こんな明晰な、頭脳の回転の速い人物には逢ったことがない。さらに、その勇気、その不屈さ、そのバイタリティーといったらどうだ。しかしーー。
彼の明晰が、その天才が、はたしていったい何によってあがなわれていたというのか? その勇気が、その不屈さが、そのバイタリティーが、いったいどんな過酷な貸借によって支払われていたというのか? 今、あの放心状態の彼の姿を思い出す時、私はある痛ましさを感じないではいられない。宮台真司の精神の内には「空白」が巣食っている。彼はそれに耐えられない。「終わりなき日常」をもっとも恐れているのは、宮台自身なのだ。彼はそこから逃れるため、信じ難いほどの明晰さを発揮し、頭脳を酷使する。言葉の最後の一滴まで搾り取るようにして、自らが倒れるまで、それこそ死ぬほどの思いでバイタリティーを全開にする。そうしないでは生きていられない……そんな種類の"宿命"を持つ人間だった。
今、ようやく私は気づく。<少女たちは傷ついていた>。それは社会学者・宮台真司の言葉ではないだろう。いや、「少女たち」ではない。「宮台真司」だ。「宮台真司」こそが傷ついていた。彼自身が「まったり革命」によって、もっとも深く傷を負っていたのだ。その「傷」は、観念でも価値判断の産物でもない。そう、人間・宮台真司が身に受けた……本物の「傷」だったのである。
小林秀雄が正宗白鳥との対談で言う。
「人間の才能っていうものは、欠陥になって終わるのがふつうである。歳をとると、若いとき才能だったものが、今度は欠陥になる」
なんという明晰な認識だろう。若き日に優れた「転向論」の書き手であった吉本隆明が、歳を経て自身が無惨な"転向"を表明するに至る顚末でも明らかなように。小林秀雄、46歳の発言だった。現在の宮台真司や私とほぼ同年齢である。おそらく小林は自戒の念を込めてそう言ったのだろう。もはや人はこの罠から逃れる術はない。そう、たったひとつの方法を除いては。それは……歳をとらないこと。三島由紀夫は46歳まで生きなかった。そういうことだ。
40代半ばが近づくに従って、私は密かな心配をしていた。まさか宮台が三島のような結末を迎えなければいいが……(三島由紀夫もまた自らの精神の内に巣食う「空白」に耐えきれず自裁している)。しかし、それを伝えようにも、すでに永らく彼とは音信が途絶えていた。ただ遠くから、宮台真司が相変わらず明晰そのものに、バイタリティーにあふれ、すべての事象を語りつくしているのを見る時(あの日の放心状態の彼の姿を想起しながら)……そっと私は笑みを浮かべるだけだ。そうして、頭の後ろから手のひらを額にあてるポーズで、ひとり密やかに呟いているのである。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ〜、宮台さん……」
*
2005年、3月ーー。
ある朝、突然、宮台真司から電話がかかってきた。
「ごぶさたしています、中森さん。実は僕、結婚することになりました。今夜、パーティーがあるんですが、よろしかったら、ぜひ、いらしてください」
宮台真司から電話をもらうなんて、もう何年ぶりのことになるだろう。今世紀に入ってから、彼とは二度しか顔を合わせていない。一度は雑誌の対談で、今一度は宮崎哲弥を交えた公開シンポジウムの席上で……それっきりだ。私的な交流は一切なくなっている。いろいろ思うところもあったけれど、やはりその夜、出かけてみることにした。
天現寺のフレンチ・レストランを借り切って行われたパーティーは、ぎっしりの人の渦で埋まっている。まるで満員電車状態だ。学者ばかりではない、政治家から文科官僚、マンガ家、AV監督、コスプレイヤーに至るまで、様々な種類の人々が寄り集っている。今さらながら宮台真司の交流関係の広さに驚かされた。
場内が暗転して、音楽が鳴り響くと、新郎と新婦がらせん階段を降りてくる。純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁は、輝くばかりに美しく、新郎よりも20歳も若い。仲よく腕を組み、白いタキシード姿の40代半ばの花婿が照れ笑いを浮かべながら現れると、カメラのフラッシュが一斉に焚かれ、冷やかしの声がかかった。彼を慕う若いゼミの学生たちから、空気でふくらませた旧式のダッチワイフに寄せ書きしたものが贈呈されると、花嫁は無邪気に笑う。その横顔を中年男の新郎は微笑みながら見つめている。
「あえて」するベタ……かな。心の内で私は密かに呟いていた。そうしてこんな小説の一節を思い出していたのである。
「永い紛争のなかで疲れ傷つき、その抱えていた大事な夢みたいなものを失った彼が、わざとケバケバしく自分がダメになったことをみんなに公開する。裏切りにしても結婚にしても、わざと見えすいた馬鹿ばかしい形でやって、おれはもうダメになったと自分を見せびらかす。そして、他人から言われる前に自分からやったということにせめてもの満足を感じるとかしてさ……」(庄司薫『さよなら怪傑黒頭巾』)
パーティーが引けて、会場を出ようとすると、入口で新郎新婦が見送りの挨拶をしている。ふと彼と目が合った。知らずと私は瞳の奥を覗いている。ガラス玉ではない。放心状態とも違う。そこには決して「あえて」でも「アイロニー」でもない、本当の、本物の微笑みの輝きがたたえられていた。ふいに手が伸びて彼と堅く握手を交わしている。
「宮台さん、おめでとう。幸せになってください」
自然とそんな言葉が出て、私は会場を後にした。そして先の自分の不明、浅はかな思い違いの邪推に恥じ入ってもいたのだ。これでよかった。彼は危機を脱したのだろう。宮台真司は「幸せ」になる。そこに他人が余計な口をはさむべきではない(後に宮台の結婚が、相手の家柄や階層にひかれたものと邪推して揶揄する文章が三浦展著『下流社会』に載った。どうしてそんなことがわかるのだろう? 実はセックスの相性がすごくよかったから、ふたりは結ばれたのかもしれないではないか? 単に週刊誌の記事を読みかじって半可通を気取り、浅ましい妄言を連ねるこんな三浦展のような人物こそが、語の真の意味で「下流」である)。
天現寺の夜の道をひとり歩きながら、ふいに思いあたる。そうか、宮台真司と私が初めて対面してから、ちょうど今が満10年の3月なのだーー、と。宮台氏も私も、あれから10歳の歳を取っている。そうして私たちは、三島由紀夫の享年を越えようとしていた。三島は45歳10か月で「自死」する。宮台真司は45歳11か月で「結婚」した。もしかしたら宮台の「結婚」は、三島にとっての「自死」を超えようとするものかもしれない。自己否定を否定して肯定へと至ること。特異な精神が非日常(死)をかいま見ながら、日常回帰を果たすこと。しかし、どうだろう。はたして、それは"転向"と呼ばれるべきものだろうか?
そんなことを考えていたら、たまらない気持ちになった。今夜はひとりで帰りたくなかった。誰かと話したい。宮台真司のことを。彼の奮闘と、挫折と、回復を。過ぎ去った90年代を。私たちがまだ若く、新人類ともオタクとも呼ばれていた、あの80年代のことを。そんなことを、いっぱいいっぱい……。
近くを歩いていた同じパーティー帰りの若い男性に声をかけると、まるで拉致するようにタクシーへと押し込み、新宿の酒場へ。結局、夜を徹して呑み、語り合うのにつきあってもらったのだ。東浩紀だった。ひと廻りほど歳の若い彼は、宮台真司以後、もっとも優れた知性の持ち主だと言って間違いない。その夜、東氏と何を話したのか記憶はあいまいだ。ただ、はっきりとこれだけは憶えている。
80年代は押井守監督のアニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に象徴されるだろう。主人公たちは学園祭の前夜の時間の内に閉じこめられてしまう。いつまでたっても学園祭の当日はやってこない。永遠に終わらない前夜祭ーー。覚醒することのない美しい夢(ビューティフル・ドリーム)。それが80年代精神である。もっともよくその精神を受け継いだ宮台真司は、過酷な90年代を闘い抜き、今日(こんにち)へと至った。まるで今夜の宮台の結婚パーティーこそは、その後夜祭のように見えると。"前夜祭"から"後夜祭"へ。そして……。
「結局、"学園祭"はなかったんだよ」
そんなふうに呟いていた。それに対して東浩紀がどう言ったか、もう記憶にない。とうとう夜明かしして、店を出ると、外はすっかり明るくなっている。東くんと手を振って別れ、帰路に着いた。夜明けの新宿通りをフラフラとした足取りで歩きながら、明るみを帯びた空に向かって、ひとり私は呟いている。
「……"学園祭"はなかったんだ。ついに、こなかった。僕たちの"祭り"はやってこなかった。そこには、ただ、あのまったりとした"終わらない日常"があるばかり。だけど……。それで何が悪い。そうだろ、僕の友だち。我が友・宮台真司! あんな幸福そうな君の瞳を見てしまった後では……」
日常から出発したミヤダイの旅は、非日常(死)を臨む(=望む?)危うい時代(とき)を経て、やがて幸福な日常へと到達(=回帰)する。それを"転向"と呼ぶのなら……。
宮台真司は「360度の転向」を果たしたのだ。
みごとな真円を描いたサークル・ゲーム。その起点に(それは終点と言っても、中継点と言っても同じことだが)……『制服少女たちの選択』はある。少女たちが、傷つくことも、傷つかないことも「選択」するのが自由なら、汚れた下着や制服やその心を「洗濯」することも自己決定だろう。維新の途上に倒れたあの坂本龍馬だって「日本を洗濯する」と宣言したではないか(ダジャレついでに言えば、幼少時に引っ越しを繰り返した宮台真司は転校生だ。転校(=転向)など慣れっこになっている)。あの時代(ころ)の「制服少女たち」のみではなかった。そう、本書は……。
宮台真司にとっての大いなる"選択"の記録である。
(了)