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音の色彩

 音には色彩があると思う。

 講堂での授業が終わって、漫然と座っていた。
誰かに話しかけられたいとか、誰かと帰りたいとか、そんな陳腐な理由はない。ただ座って、授業の後に講堂に残り、ピアノを弾いている、小鳥のように賑やかで、馬鹿みたいに無邪気なクラスメートたちを、ぼんやり眺めていた時に違和感を感じたのだ。
 ショパンの子犬のワルツを、毒々しくて派手で甘過ぎる外国のキャンディの包み紙が、バラバラと天井から落ちてくるように弾く音の次に、灰色のバッハの前奏曲〈プレリュード〉が聴こえた。弾いているのは、クラスで賑やかな女の子。曇天のプレリュード。あまりに意外で、つい居残ってしまったのだ。

 キャンディの包み紙の音が再び響き渡り、灰色の音の主がピアノから離れたのに気がついた。ピアノの方に顔を向けると、灰色の音の主と目が合った。


「あれえ、橘さん残ってたのかあ。ピアノ弾く順番待ち?」

「なんとなくいただけだよ。皆が弾くのを聴いてた」

 とりあえず、笑って受け答えする。
表情を作るのが面倒だから。口角を少し上げてさえいれば、大抵の面倒事は避けられる。灰色の音の主と会話するのも面倒だなと思いつつも、灰色の音の主に興味を抱いている自分に気付いた。


「橘さんと私の名前って似てない?」

 相手の苗字以外思い出せない。
榊(さかき)──

「瞳子と香子!」

 そう、彼女の名前は、榊香子。




 「時々思い出すんだよ。名前、全然似てないじゃんってさ」

 誰もいない午後の音楽室に二人きり。
本当なら今は五限目。床に座った香子は、グスグスと鼻を鳴らし、膝を抱え顔を埋めたまま泣いている。子供のようにしゃっくりまであげて。
私は香子の隣で体育座りをした。


「似てるよ。ウと子が同じ」

 香子は、顔を埋めたまま言う。ウンコじゃないよ、とも。
本当にガキだ。

「そんな名前の人、たくさん居るって」

「そうかもしれないけど。瞳子と友達になりたかったから共通点を探してたんだよ」


 香子の肩が少し触れる。寄りかかってきたらしい。
触れたところだけ、急に熱を帯びたようで、そこから顔も赤くなった気がしたので咄嗟に立ち上がって、ひらりと机の上に座った。
勿論、香子には背を向けて。




 四限目、授業がなくなり、生徒全員が講堂に集められた。
なんでだろうと、中学一年生から高校三年生がざわめく。

「静かに。黙想」

 と、体育教師がマイクを使って、低い声で脅すように言うと、各々は口をつぐみ、目を閉じた。先ほどの騒がしさが嘘のようにシン……と静まり返る。そんな中、香子はキョロキョロして、なにが起こるのだろうと待ち構えていたので、担任に連絡簿で頭を叩かれて、睨まれていた。あっかんべをして、もう一度叩かれている。香子の隣に座っている阪守(さかがみ)も、香子と一緒になって叩かれていた。

「ぼーりょくはんたーい」

 と、阪守が聞こえよがしに言い、周りのクラスメートたちがクスクスと笑った。
香子が、こちらを振り向き私にニヤッと笑って見せたので、私は無表情で対応する。

 窓の外は曇り空だ。秋の終わりの灰色の重たい空。
朝みた天気予報では、確か曇りから雨になると言っていたが、当たったようだ。香子は傘を忘れているに違いない。


 起立の号令とともに、さっと全校生徒が立った。
校長が壇上に登る。着席の号令がかかり、全生徒が座ったのをじろりと一瞥して確認すると、校長はゆっくりとしてしわがれた、独特な口調で話し始める。
本日をもって、理科の教師の寺田が退任すると校長が告げた。
 講堂は生徒達の驚愕の声でざわつき、うそー!とかまじで!などと、たちまち騒がしくなる。
私自身、驚きを隠せなかった。
大体の教師には興味がないし、信用もしていないのだが、高齢の寺田は茶目っ気があり、授業もわかりやすく、珍しく好きな方の人間に分類されていたのだ。
寺田は、癌の治療で学校を長期休んではいたが、まさか退任するとは誰も思っていなかったのだろう。私もその一人だ。
 他の教師に、支えられた寺田が壇上に姿を現すと、さらに騒がしくなった。
最早、体育教師がいくら注意しても効果はない。静かにできるのは、寺田だけだ。寺田が、学校での思い出をしみじみじと話し始めると、阪守をはじめとた、クラスメート達が啜り泣いた。そんな中、香子は瞬きもせず、じっと耳を澄ましているように見えた。窓の外では、そっと静かに雨が降り出した。

 集会が終わり、昼食の弁当を広げようとした時、廊下が騒がしくなった。

どうしたの、榊。
えっ、香ちゃん大丈夫!?など。

 やれやれと、弁当袋を鞄に戻す。


「瞳子ーーーーー!!!」


 涙と鼻水にまみれた汚い顔の香子の登場だ。

「来ると、思ってたよ」

 香子が、私の肩に頭を乗せて、激しく嗚咽した。
自分の悲しみではないのに、胸がとくんといって、痛んだ。

ちょっと香子大丈夫?なんて声が聞こえる中、私は

「保健室に連れて行くよ」

と、言って、一緒に行こうとしたクラスメートを制し、香子の手を取り廊下を走り抜ける。繋いだ手がとくんと痛む。妙な熱さと、痛さと、煩わしさを伴って。けれど、今はこの手を離してはいけない気がした。

「音楽室に行こうよ」



 グランドピアノの蓋を開け、赤い鍵盤カバーを丁寧に畳んで、ピアノの端に置いた。

「ピアノ、弾かないの?」

「気分じゃない」

「いっつも馬鹿みたいに弾いてるのに、気分とかあったんだ」

 香子は私の挑発にものらず、膝に顔を埋めたままだ。
私は、立ったまま鍵盤の前に立ち、少し爪が伸びた指先でファのシャープを弾く。

ぽろん。

柔らかでも、力強くもない、伸びやかでもない、なんでもない音。
もう一度、ファのシャープ。
私はこの音が好きで嫌い。


「瞳子の音は、いつも灰色だ」


 驚いて、香子を見た。
香子は顔を上げ、瞼をはらし真っ赤に充血した目でこちらを真っ直ぐ見ている。
音には色彩があると思う。
だけど、それを誰かが、それもこんなにも近くにいる香子も、そう感じているとは思わなかったのだ。

 香子は、制服のスカートの皺を伸ばして、ピアノに近づいてきた。
それから、ピアノの椅子をひき、座って深呼吸した。
ショパンの雨だれを弾き始める。私は、傍に立って、しなやかに動く香子の指を見つめていた。透明でも水色でもない、灰色の雨だれ。
鍵盤にしとしとと涙という雨が降る。
薄暗い灰色の雨、哀しい雨、少し黄色くなった鍵盤に降る。降り続ける。


 最後の一音を引き終えてから、香子が窓の外を見ながら言った。


「音には色彩があると思うんだ。でも、家族やピアノの先生に言ったらさ、なんだそれとか、練習したくない言い訳だろって言われちゃった。講堂でみんなで弾いてるとさ、音より色がやかましいくらいに溢れ出てくる。自分の色は、よくわからない。瞳子は、音に色を感じることがある?」


「私は、ないかな」

 嘘をついた。
私は香子にたくさん嘘をつく。
本当の自分を知られたら、香子がいなくなるような気がして。
ずっと、後の後の後から言うんだ。唐突に。
けれど、香子は言うのおせーと言って、笑って受け入れてくれる。
受け入れてくれるから、私はまた嘘をつく。
これからもずっと。


 本当は嬉しかった。
名前が似てると言って、急接近してきた香子には驚いたし、当然警戒心を持ったけど、あっけらかんとして、大きな悲しみを背負っている日でも、わははと笑う。香子が笑うほどに辛い日もあるけれど。
 どうか私の前だけでは笑わないで欲しい。
泣いたり、怒ったりして欲しい。
私は、泣いたり怒ったり、できないだろうけど。


 色んなことを、いつか香子に話せるようになりたい。
私もずっと前から音に色彩を感じていること。
香子の音色は灰色だと思ったこと。
同じ色で嬉しかったけど、香子にはいつか明るい音色で弾いて欲しい。
もっともっとたくさん共通点が欲しい。
お揃いが欲しい。


 私は、香子の座る椅子の隣に、椅子をもう一脚持ってきて浅く座った。


「バッハのプレリュード弾こうよ。私、左手弾く」


 香子には、私がピアノを習っていることを話してはいるが、曲を弾いたことはない。泣いて重たそうな瞼を見開いた香子の視線を感じたが、私は左の指を動かし始めた。香子は慌てて、右手を鍵盤の上にのせる。


 二人で奏でる無器用で灰色の前奏曲〈プレリュード〉。時々、触れる手。その度に頬に熱を帯びる。胸が痛くなる。二人で一つの音楽を、色彩を、作り上げていく。いつか、香子の弾く音が灰色でなくなりますように。

 曲が終わる八小節前、突如現れる不協和音のファのシャープ。
その後に、曲の終焉に向けて光が溢れていく感覚に酔いしれた。灰色の雲間から誰にも気付かれないような、透明な光が差し込む。灰色と透明が混ざり合う。



「なんだか最後の方、透明な色がした。透明が色かどうかわからないけど」


 弾き終えてから、透明な涙を流しながら香子が呟いた。
それから突然、わーんと声をあげて香子が泣き出した。私は、手を伸ばして背中をさすることはできなかったけれど、いつかは私達の関係は変わるのだろうか。窓の外は相変わらず、雨。灰色の空から降る雨は、キラキラと透明で柔らかな線を描く。


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遙野灯
いつか作業所とアトリエを作るのが夢です。寝たきりになる前に、ベッドの上で出来ることを頑張ります。