深緑野分vsキングコング~超並列・超多重脱線型映画由来ムダ話ゼンブのせ散々々Edition 加筆してます
とりあえず今回はただの一回も読み返さずに投稿します。
あとで修正や加筆するかもしれません
「スタッフロール」深緑野分著
いまさらになってしまいましたが、当初は。深緑野分さんの小説「スタッフロール」の感想を書くとみせかけて映画のことについて、いろいろ書こうと思っていました。出版年のリアルタイムの投稿に失敗したあとは毎年、父母の命日のある8月がくるたびに「今年こそは」と思いつつもズルズルと現在に。
なぜ父母なのかといえば、父は生前、映画・映像業界で技術的な仕事をしていた(自営)のですが、最近よく聞こえてくる、このドラマは映画撮影用のカメラを使いましたという話題で出るアリ(ARRI)という会社名で父のことを思いだしてしまったのです。
そして長年サボっていたいたのになぜ、今年になって突然?という理由ですが、奇しくもエミー賞を席捲した『SHOGUN 将軍』ですが、私は父のおかげで『SHOGUN 将軍』の撮影現場を見るという経験をしたことがあるのです。といっても今回の真田広之さんのではなく「先代」の島田陽子さんやリチャード・チェンバレンの出ていたバージョンです。
今回の『SHOGUN 将軍』はほとんどバンクーバーで撮影されたようですが、私が目撃できた船の難破のシーンは日本の屋内セットで撮影されていたのです。カメラが水をかぶるトラブルで父が深夜の電話で東宝撮影所まで呼び出されたのでした。東宝撮影所までは頑張れば徒歩圏内という近さなので私も父にくっついて行ったのです。(実際には迎えの車が来ましたが。)
今だったら、船の難破シーンなんて間違いなく海外での撮影となるでしょうからラッキーでした。ここ最近のハリウッド映画では日本が舞台でも日本で撮らないなんてことはザラですが、フロリダが舞台のワニ映画「クロール」の撮影をベオグラードで撮ったなんて例もあります。理由は「フロリダ州の税制」らしいです。
エミー賞のニュースでもお気づきと思いますが「SHOGUN」は英語では「ショーガン」みたいな発音になります。
この種の発音論争は某バイリンガルDJの論が合理的なので私もそれに従おうとおもいます。
それは日本語の会話の中の外来語ならカタカナ的に、英語の中に出てきた日本語は英語的なリズムでというもの。そう、これは撥音というよりアクセントやイントネーションの問題です。要は聞いていてリズムが止まらない、聞きやすいかどうかに配慮した用法です。
【shogun】
UK/ʃəʊ.ɡən/
US/ʃoʊ.ɡən/
【karaoke】
UK/kær.iəʊ.ki/
US/ker.ioʊ.ki/
外国人の方々は日本語力を高めてくるとダジャレやジョークに走りがちですが、最近テレビなどて見かける外国人の方々はカタカナ語を使いこなすという地味ですが実務的な努力をされているようです。なので日本人も英会話の際には頑なにカ・ラ・オ・ケというダダダタ的な拍子で英語のリズムを崩すことなく陽気に軽やかに「キャリオォキィ」とはねましょう。
今回はこういう脱線はどんどんしながら、つめこめるだけつめこんでいきます。
さて深緑野分さんの小説「スタッフロール」ですが、世間的には圧倒的に支持されているようなので私が何を書こうと(しかもこんな遅タイミングで)「屁」みたいなものでしょうから好き勝手に書かせてもらいます。
わたしがさいしょに気になったのは「アメリカ臭」があまりしないこと。ただこれは日本人作家の作品ではよくあることで、そもそもアメリカは舞台装置にすぎずメインは作者による違う世界線のアメリカなのだといわれればそうなのかもしれませんが、前半の主人公マチルダはあのフォレスト・ガンプの2コ下です。つまりは激動の時代を生きたはずなのです。なのにアメリカ臭、とくにカルチャー臭がしない。
具体的に言うと音楽が足りない、ひょっとしてマチルダはホントはローラ・インガルスと同級生か?なんて思ってしまったほどです。
60~70年代といえば、自由民権運動のプロテストソングに端を発し世界的にフォークソングブーム。
日本でも学生運動が盛んだったりという背景もあり新宿駅西口地下広場で行われたベトナム戦争反対フォーク集会は2カ月も続きました。地味に象徴的だったのは、70年代にはフォークギターメーカーのテレビCMラジオCMが放送されていたことです。
あのBTSがホワイトハウスに招かれた時、バイデン大統領は60~70年代の公民権運動においては音楽などのカルチャーが重要な役割を果たしたのだということを力説していたそうです。これで私が以前、ここで唱えた説、バイデン氏の大統領選での勝利宣言スピーチで旧約聖書のEcclesiastest(伝道の書~コヘレトの言葉)からの引用と報道されていた一節は、実は元ネタは聖書ではなくThe Byrdsのヒット曲「Turn ! Turn ! Turn !」だという指摘が信憑性を帯びてきましたね。(なにしろ全米売り上げベスト10の聖書を調べても一致する文がなかったのですから)
大統領がプロテストソングなんて、そんなぁ~と思ったかもしれませんが、体制に歯向かっていた公民権運動が勝ち取った権利が今のアメリカを作っているわけです。
誤解を恐れず言うなら、そもそもアメリカの建国自体が暴力によって勝ち取ったものなのです。
アメリカで銃規制に反対している人たちは暴力的なただのクレイジーやつらだと、日本では誤解している人も多いですが、合衆国憲法修正第二条はそもそもの理念として単なる自己防衛だけではなく、不届きものの権力に対しては善意の市民が立ち上がり抵抗する権利をも認めてるというわけです。いわば革命権です。そんな中で銃規制を求める声をあげた高校生たちがいかに勇敢かということがわかるでしょう。。佐野元春にも見らってほしいものです。
とりあえず音楽要素があってもよかった。なんなら小説のサントラアルバムが出るくらいゴリゴリに。
ついでにいえばかつてのイーロン・マスクの大量解雇を「アメリカは法律がちがうのかもしれないが、とはいえ酷い」と批判していた日本の労働問題の専門家がいましたが、アメリカは労働市場の流動性が高く職を得やすい分、解雇もしやすいという背景があるので、あのニュースだけみてただちに非道と批判するのはセンモカとしていかがなものかと。
※この部分は書き始め当時の下書きのママなので情報が古くてごめんなさい。
さて、小説のほうへと話を戻すと、ちょろちょろとレッドパージ(赤狩り)などのネタが申し訳程度に織り込まれてますが時代の大きなうねりや大きく暗い影のようなもの(あるいは希望)があまり見えません
そして映画のエンタメとしての進化、変遷についての描写もたりないように思えます。
造形畑を描くなら70~80年代の「パニック映画ブーム」という狂乱の祭りは外せないはず。
(ここらへんは私のネーミング関連の記事ともかぶりますが)パニック映画というのは要するに大勢のヒトたちがひどい目にあわされるハナシです。その原因が隕石だったり凶暴な生物だったり、大災害や大事故だったり。
これは、VFX需要が爆上がりした、重要なムーブメントだったはずなのです。
かつて「宝島」という雑誌にVOWという街でみかけたヘンな看板とか、新聞や雑誌の誤植を投稿するコーナーがあったのですが、その中に
なんてのがありました。これがネタとして成立するのは「SFX」という単語への理解が世間の共通認識としてあるからです。これもフォークブーム同様の「時代の偏り」の一種といえます。「デジタルトランスフォームの略がなんで「DX」になるんだ?などと言ってる令和人の例よりもよほど近い距離感でしょ?
何より作者のふかみどりさんが参考文献のリストの中にあげてた
SFX映画の世界 (完全版 ) (講談社X文庫)
のシリーズはクリエイターを目指す人々のための参考書や副読本などではなく、フツーの人々のための「読み物」だったのです。
トクサツで思い出したのですが、以前、職場の若い女子に映画マニアなコがいたのですが「きみらのような世代から見ると円谷プロの特撮なんてだっせぇとか思っちゃうだろ?」と聞いたら「そんなことないっスよ。なんかCGより重量感があってあの感じ、けっこう好きです」と意外な答えだった。たしかに物理シミュレーションがすすんでるはずなのにいまひとつなやつあるよね。しかも最近はマーベルヒーローとか重力を無視した設定が多いのでそこらへんが進歩してるのかどうかもわかりづらい…。
「メタなウルトラマン、ベタなディズニー」
という拙投稿やそれを補完する動画で樋口監督もおっしやっていたように日本には「種明かしの文化」があるのです。
https://x.com/seirensha/status/1838254132450521156
ついでに言うとこの講談社X文庫のシリーズには、「SFX‐CM大図鑑 (講談社X文庫) 」なんてのもあったりましたが、どれも新発刊時には急行の止まらない祖師谷大蔵の本屋でさえ置いてましたし平積みの時さえありました。日本の場合は広告ブーム、メディア業界ブーム、それらを全部ひっくるめたギョーカイブームなどの影響もあったのでしょう。電通や博報堂とJRAが調子にのってきたのもこのころからです。芸人さんたちが「板付き」とか「バミリ」とかいった楽屋用語を説明なしに使うのも、裏方であるはずのプロデューサーや放送作家が表にしゃしゃり出てくるのもこのころからの流れでしょう。
VFXについてはそれがどれくらカジュアルな存在だったかといえば特殊メークという分野でハリウッドでも活躍したレイコ・クルック氏や江川悦子氏といった面々がフツーに「徹子の部屋」にも出演されていました。
(日本人がんばってたんです。女性も活躍してたんです)
あとナニワの造形師、スクリーミング・マッド・ジョージ氏もさすがにお茶の間でお馴染みの…なんてことはありませんでしたが、あ。この人こないだも何かで見た…くらいな人にはなっていました。
つまりこれ「あたしってばファンとしては結構、ミーハーなのよね」というキャラづけなわけですよね?
だったらパニック映画ブームの流れをぶっこんだところで物語の世界観を損なうどころか、読者も楽しめて、むしろプラスに働いたことでしょう。最近の若者がデジタルネイティブならパニック映画&円谷プロ世代はトクサツネイティブなのです。
逆にCGについての蘊蓄はいくらでも削る余地があったのではないでしょうか。かつでキッスのジーン・シモンズは「ジョン・マクラフリンの曲をだれが口ずさめるっていうんだい?」と吐き捨てPOPミュージックがPOPミュージックである所以を語りましたが、読者のだれがインバースキマネティクスについてわざわざ知りたいと思うんだい?と私は問いたい、(但しもしこれが文字ではなく映像作品だとしたら逆に動画込みで説明するのは面白いと思いますが)
実際、概ね高評価(☆四つ)な読者レビューにでさえ説明部分が長いという指摘も散見できました。(それでも結果、高評価というのも謎ですが…)
パニック映画はそれまでパルプ雑誌として消費されるような子供だましと蔑まれていたSFが確固たる地位を得た転換期ともいえるのですから。
奇しくも時期同じくして、「エクソシスト」「オーメン」「サスペリア」といった作品がおこしたオカルトブームもホラー映画の地位をひきあげました。こちらも造形工房への発注爆上がり案件です。触れなくてどうする?と言いたい。B級映画はかならずこうしたブームを追っかけますから、映画業界はまさに視覚効果バブル状態だったのではないでしょうか。
当時、面白かったのは「オーメン」の中でトラックに積まれた巨大ガラス板が荷崩れし滑り落ち、そこに出くわした男の首が切断されてしまうという衝撃シーンがあったのですが、ネタバレなんて気にせずにひたすらプロモーションに利用されました。これこそ造形師の勝利といえるのではないでしょうか。だって、くるとわかっていても打てない大谷のスライダーのごとく、散々予告で見たけどスクリーンでもう一度見たい…みたいなことでしょ?いくら見てもアラは見つかりませんよ、どうぞってね。
このオカルトブームにどれだけ勢いがあったかというと監督のリチャード・ドナーは記者会見で、続編はパート6まで作ってこの世の終わりまで表現するのだと強気の発言でした。この世が終わる前にシリーズが終わっちゃいましたけどね。ただその後リメイクは何度かあったのでたしかに歴史に名は刻んだといえます。
クルマのゾロ目のナンバープレートというと7777や8888が圧倒的に多い中でたまに6666なんてのをみかけるので、あの時のダミアンの衝撃は本物だったんだなと思わずにはいられません。
666は生き残ってますが、一方で「Silent」でブレークし、次クールからは月9『嘘解きレトリック』で初主演する、鈴鹿央士くんのファースト写真集のタイトルが『omen-前兆-』ですから、この単語についてはすっかり供養が済んだようです。
焦点のハッキリしない文だと思われるかもしれませんが、冒頭に「読書感想文とみせかけて…」と お断りしたように、いろいろとつめこむというのが今回の投稿のスタンスです。
マチルダが愚痴った1966年の「サウンドオブミュージック」のアカデミー作品賞受賞ですが、わずかその5年後にはパニック映画のはじまりとされる「大空港」がノミネートされます。
もっとも、「大空港」をパニック映画の起点とするのは、後付けな気がします。ブームのどまん中にあった「エアポート75」が「大空港」の続編だったので、辻褄をあわせただけで、本当のブームの起点は1972年の「ポセイドンアドベンチャー」でしょう。知らんけど。
「ポセイドンアドベンチャー」という題名はアンディ・ウィアーの「プロジェクト・ヘイル・メアリー」の中でも上下逆転状態の比喩として引用されていたと前にも触れました。彼も多分、パニック映画フリークに違いないと。
パニック映画というのはいわば和製英語で英語ではDisaster Movieというのですが、「ポセイドンアドベンチャー」と本作の文中にも出てきた「タワーリングインフェルノ」の主題歌を歌ったモーリン・マッガバン(Maureen McGovern)はQueen of The Disaster Movie Song、つまり「パニック映画の女王」なんて言れていました。
パニックう映画というジャンルはそんな称号が生まれるくらいの全世界的な「祭り」だったのです。
参:映画業界が"パニクった"以降に作品賞にノミネートされたSF&オカルトタイトル…
大空港(1971)
エクソシスト(1974)
タワーリングインフェルノ(1975)
ジョーズ(1976)
スターウォーズ(1978)
レイダース(1982)
ET(1983)
こーいっちゃ何ですが長すぎるこの本の蘊蓄の9割以上は家に居ながらにしてググれば出てくるようなネタばかりです。逆アリバイ作りというか権威づけに専門家の方々の名前を列挙しているのでしょう。
そもそも作者本人も理解できてるのかしらと疑いたくなるような箇所もぽつぽつ。
プラグインが重すぎてレンダリングが遅くなるという理由でプラクインを削除しようとして、オタクなリウ氏とすったもんだするシーンがありますが果たしていちいち削除する必要はあるでしょうか?
ホストアプリの起動時にそれらをロードしないような設定に、つまり一時的に外しておけばいいだけのハナシでは?ライセンスとか認証が絡んだやつだと再インストールがめんどうこのうえないでしょう。
オープンソース開示サイトから、自動でソースを引っ張ってこられるソフトウェアを自己開発し…というくだりも、まるまるいらないような気がします。むしろCGまわりの説明が多すぎてものがたり全体への理解が薄くなってはいないでしょうか。
CGまわりの話というと、某スーパーヒーローもので急降下➡着地➡歩き出すというシークエンスをフルCGでやろうとしたら、これだと俳優のユニオンからのクレームがあるかもしれないと、着地後はあえて生身の俳優に切り替えるという面倒くさい合成を強いられたというハナシを聞いたことがあるのですが、こういう類のものを紹介してくれたほうが読者も面白いし、ある意味デジタルの弱みの部分といえるし生成AIといったものの今後の在り方などにもつながるはなしです。大半の人々はレンダリングソフトなんて一生縁がないのですからそれらのマニュアルに書いてあるようなことを書かれても退屈なだけです。(生成AIはまぁレンダリングとよべるかもしれませんが…)
事態は一周したようで、最近では俳優たちがAIコンテンツ用に自分の顔や声などのデータを登録して使用料だけもらうというようなビジネスモデルまで登場しました。
ハナシを戻すと、ここはやはりパニック映画ヒストリーをフィーチャーしてその時代の技術進歩の流れを解説したほうが、読者にも利があったのではないでしょうか。
その方がマチルダの不満や愚痴が妥当なものかどうかも判断できます。
たとえば、いわゆるブルーバック(グリーンバック)による、背景合成、クロマキーという技術はいまや万人の知るところですが、リアルタイムで処理されているがゆえにある意味その仕組みへの理解(たとえばマスクなど)はブラックボックス化してしまっています。
ママの家事労働にリスペクトのない子供たちには「夜こっそり現れて洗いものや洗濯をしてくれてる妖精さんなんていないんだからね」と現実の仕組み教えてあげることも時には必要です。
さて、マチルダのあのキャラ設定ならパニック映画祭りにもハマっていたはずだと言いましたが、だったら「キングコング」はどうした?
ってハナシです。
これで彼女が1933年の初代「キングコング」を見ていたことは間違いありません。この作品、リアプロジェクション、ストップモーションアニメ、ミニチュア、マペット、オプチカル合成といった後にスタンダードとなるVFXの手法のすべてがてんこ盛りのいわばエポックメーキング的作品なのです。映画の魔法に魅せられた子ならこのおもちゃ箱には狂喜してたはずなのです。
あの淀川長治さんも連日の新聞広告など日本にまで押し寄せたキングコング祭りの狂乱を熱く語っておられました。
この作品、実は音楽的にもエポックメーキング的作品なのです。それまではブックエンド・ピースといってオープニングタイトルとエンドタイトルだけ音楽をつけるパターンがほとんどだったのに、全編とおして曲をつけるようにしたのでした。さらにいえばミッキーマウシングという画面の動きと音楽をシンクロさせるという手法はこの作品の作曲を手がけたスタイナーが開拓しました。
ミッキーマウシングというくらいなので最初に使ったのはディズニー作品「蒸気船ウィリー」なのですが、最初にやった、発展させた、広めた、定義した、広く認知させた…など微妙な役割の違いで功労者が複数いることはあります。
それで思い出したのは不協和音を含む音のかたまりを「ぎゃんっ、ぎゃんっ、ぎゃんっ」と連打して恐怖や不安を表現するトーン・クラスターという手法は、「はねるのトビラ」のコントなどでも引用されていたくらいポピュラーなものですが、これをヒッチコックの「サイコ」の音楽を担当したバーナード・ハーマンの発明と思っている人も多いのではないでしょうか。でも実はホラーフィルムレーベルのハマーフィルムズの劇伴音楽をてがけたジェームス・バーナード(名前がややこしい)がハーマンに先駆けて「The Quatermass Experiment 」という作品で行いました。さらにはもこの"トーンクラスター"という手法と用語も世に知らしめたのはポーランドのKrzystof Pendereckiという作曲家によってだというので色々とややこしいですが、ともあれ先述のミッキーマウシング同様、世間的に認知されるのは名前をつけるという作業が重要不可欠ということでしょう。第一次大戦当時にはまだ「第一次世界大戦」などという言葉がないように、ミッキーマウスのアニメの制作時点ではミッキーマウシングという用語もなかったというわけです。
名前をつけるという行為は文化そのもの、文明そのもの、あるいは博物学、科学そのものだという当サイトの主張を再確認できましたね。
ちなみにあのジョン・ウィリアムスの薫陶を受けたといわれる戸田信子氏(攻殻機動隊 SAC_2045)によれば映像にあわせて音楽をつけるフィルムスコアリングは映画演出全体の50%を占めるといわれているそうで、これは造形職人もCGクリエーターもおいおい待ってくれよとひっくり返りそうな事実です。
この映画音楽で思うのは、高校の音楽の授業で聞いた「現代音楽」、ほとんどの人は、こんなもん誰が聞くの?と思ったことでしょうが、実際にはドラマや映画の音楽として知らず知らずのうちに耳にしていることがあるということです。
現代音楽で思い浮かぶのはあの佐村河内氏の騒動のことです、あの時、楽譜と称して出されたチャートのようなもの、ワイドショーではこんなもん楽譜じゃねーよと一笑に付していましたが、あれは現代音楽の楽譜そのものです。実際、新垣氏はあれらの曲は佐村河内氏の存在なしには作られなかったと初期のインタビューでは証言していました。
シロウトがミュージシャンに指示を出すことによって、ミュージシャン単体では作り得ない曲ができるということはあるはずです。演奏者としてはシロウトだがリスナーとしては生き字引のような人が、この部分は●●っぽく、ここは▲▲っぽくなどと指示を出したらすごいものができるかもしれません。そう、これって生成AIにもつながる方法論です。取捨選択のセンスも才能のうちということになるわけです。才能のカタマリのような人物が二択を しくじるなんてことはよくある話で、だからプロデューサーは必要なのです。
音楽という話題でもうひとつ。「振り返れば奴がいる」というドラマではフレットレスベースが効果的に使われていました。現代音楽とまではいきませんが、なかなか攻めた選択に見えますよね。でもあの当時はジャコ・パストリアスというベーシストが日本の一部ジャズファンの間ではアイドル的存在でした。(放映時は既に亡くなっていましたが)
ダブルストップにハーモニクス、そしてサスティナーをかましたあのサウンドはきっとジャコパス由来です。
現代のことを語る時には時代背景などもおさえておく必要があります。「アニメと戦争」という本では敵キャラのモデルがナチスドイツになっている理由について
「とりもなおさずエンターテインメントの世界ではナチスはいねば絶対悪の象徴であり、倒してしまっても良心の呵責を感じる必要のない存在だからだ。」
などと言っていますが、事実はむしろ逆だと思われます。ナチスキャラは当時「かっけー」と思われていた使われていたのです。
某アイドルの物議をかもしたナチス的なハローウィン衣装よりはるか前に一般男子のナチスコスプレが問題になったことがあるし、渋谷の大盛堂の地下にはナチスショップといえるような店がありましたし、GIジョーは日本版のみナチス親衛隊が発売されていたし社会現象にもなったサンスタースパイ手帳はナチスドイツの意匠だったし等々、掘ればいくらでもネタは出てきます。シンプルに古雑誌の広告を見るだけでも色々なことがわかるはずです。現代史ではいとも簡単に修正されてしまいます。
ナチスのことで補足しておくと、ナチスの軍服などを愛好する方々の中にはべつにヒトラーを肯定しているわけでなく、プロダクトとして美しいのだと「作品に罪はない」的な主張をする人がいますが、それはダメです。なぜならその表面的なカッコよさが子供たちを洗脳する原動力たりえるからです。「罪はないことはない」でいうと、あの国立西洋美術館が世界遺産に選ばれてしまった建築家のル・コルビジエはナチス支持者でしたがこれも自分の設計した都市計画の実現には全体主義のほうが都合がいいという理由だったというから作品に罪はないではにげられないでしょう。にげきりましたが…。
復刊ドットコムで投票を受け付けていた「ドイツ機甲軍団」というお子様向けの本はとうとう復刻版の出版となってしまいました。オリジナル版の帯には「男のロマン」などとあり、中身にはヒトラーが機甲軍団の誕生に狂喜する場面なども描かれています。復刊に至ったということは"残党"は改心することなく今もナチスリスペクトを続けているのでしょう。
先述のナチス専門店は演説のレコードなども扱っていたようなのでもはや「ただのプロダクト美へのLOVE」と言う言い訳ですら通用しません。。
プロデューサーの西崎義展氏が軍艦マーチを使おうとしたら「軍国主義的」だとかなんとかいって若手が糾弾したというけど、そもそもヤマトとガミラスの戦闘のモチーフ自体がナチスドイツの戦史を下敷きにしているという時点で若手スタッフのほうがヤベーだろと突っ込みたくなります。ほとんどの日本人は近現代史には疎いものですが、そんな中でドイツ戦史に詳しい、しかも複数スタッフの共通認識だったりするのは彼らが「ドイツ機甲軍団」を読んで狂喜していたような層であったことは想像に難くありません。
このころの子供たちはフォルクスワーゲンよりも先にキューベルワーゲンという名前を覚えたものです。
あの時代のカルチャーを理解するためにはそもそもプラモデルが子供とたちのあいだで超メジャーな趣味だったという時代背景は最低限押さえておかなければなりません。
そこにたどりつくにはそもそも昔は選択肢というものが少ないから必ずしも「ブーム」というカタチでは後世に語り継がれるわけではないということも認識しておくべきです。
70年代は急行の止まらない祖師谷大蔵にも2軒の玩具店とは別にプラモデル専門店が2軒もありました。
うち一件は駅から15分以上のところです。今、思いだしたのですが1976年はアメリカ建国200年祭で大盛り上がりでクリントイーストウッドの「アウトロー」という西部劇は建国200年記念作品として制作されました。パニック映画ブームもそうですが建国200年のうかれ具合も押さえておくべきカルチャーです。
なぜ建国200年のことにいま気が付いたかというとその当時そのプラモデル専門店のショーウインドウに白地に赤のと青のサンダーバーズペイントを施した建国200年記念仕様のF15イーグル戦闘機が飾ってあったのを思い出したのです。私はひとめぼれをして買おうとしたのですがどうやらそれは市販のキットを改造したオリジナルだったのです。通常デカールと呼ばれる付属の転写シールで再現するはずのペイントをマスキングテープなどを駆使した手作業で行うというのもなかなかの難関ですが、キャノピーとよばれる透明プラスチックの風防ガラスまでが複座用に広げられたものだったのですが。これはさすがに別売りでどこかのメーカーが出しているのだろうと思いました。実際、デカールという転写シールに関しては別売りのものがマニア向けに多数存在していました。
店に入り尋ねると、あれはモデラーが自作したものだというのです。だったらそれをなんとか売ってもらえるようにならないか?とねばると
「それくらい自分で作りなさい」
と、そのモデルショップの女主人は子ども相手に一喝したのでした。
その店の常連にはコンテストの入賞者が多数いる全国的にもハイレベルなショップだったのです。
お気づきのことと思いますが私も当時は戦闘機オタクでした。「ボクらはエアフォースブルーがたまらなく好きなんだ」などという惹句が表紙に印刷されたムックを買って喜んでいました。すっかり今では改心しましたが、先述のナチスドイツのヒーロー化もそうですがそもそも醜悪なミリオタという人種が量産されてしまったのはそれを商売にしていた大人が悪いのです。
サンフランシスコ講和条約以降、それまでGHQによって禁止されていた時代劇などのコンテンツが解禁されるに伴って漫画雑誌には「戦記物」があふれました。
プラモデルでは車か現代戦闘機か2次大戦ものかという感じでしたが、雑誌の広告の比率から見る限り2次大戦ものが圧倒的に多くなかでもドイツ軍ものは兵士のジオラマなども含め製品数も多く人気でした。ジオラマ用の兵隊さん人形を使った「人形改造コンテスト」などというイベントがうまれそれらは現代のフィギア文化と地続きなのです。
現実問題としてドイツ戦史を下敷きにした「宇宙戦艦ヤマト」そのものもミリオタを生む元凶になっていたのだと思います。そう思うのはガンダムが大ブームになったころにラジオでガンダムファンの子供にインタビューをすると「戦争やってみたい」と言う子供が多くいたのです。
アニメなどで主人公に「戦争は何も生まない」などと決まり文句をいわせてとってつけたところで視聴者に実際に届いているのは「敬礼の美学」だったりするのです。実際に残虐非道だったナチスドイツでさえ洗練された制服デザインの印象が勝ってしまうのですから。
そもそも「アニメと戦争」は論文としては破綻しています。日本人がそもそも戦争を総括できていないのにアニメという視点など成立するわけがない。ヤマトのくだりでは「矛盾」を「分裂」という表現にすりかえて歴史観という視点から無理矢理に考察しようとしていましたが、そもそもほとんどのアニメは実際にはファンが信じているよりずっとずっと浅はかです。だ
からまじめに考察しようとすれば矛盾だらけなのは当然なのです。ついでにいえば松本清張以降のこの日本には社会派なコンテンツは存在しません。
さてちらばるだけちらばして再び「キンクコング」ですが、世界的パニック映画祭り進行中の1976年にリメイクされていて、監督が「タワーリングインフェルノ」と同じだということもあり、これもきっとマチルダは見てるはずです
そして奇しくもこの作品にはまさに「葬られたスタッフロール案件」があるのです。
今となってはプロモーション目的のハッタリだったとわかるのですが、当時、実物大のメカニカルコングなるものが作られて散々、マスコミの注意をひいていました。21世紀の実物大ガンダムの動作の重さを考えたら1976年にそんなものに撮影に耐えうるアクションが可能なはずもないのですが、当時は途中までなんとなく世間をダマせていました。実際にフタをあけてみればコングのほとんどは特殊メイクアップアーチストのリック・ベイカーが自ら自作のゴリラスーツを着て演じきっていたのですが、エンドロールのクレジットでは「スペシャルサンクス」にとどまっているというのはあまりに酷い仕打ちでした。万人に完全にバレるまでは実物大コングの手柄に見せたかったに違いありません。恐らくスピルバーグのブレークきっかけとなった「ジョーズ」にロボットシャークが使われていたことに対抗したかったのでしょう。サメの上半身だけなら可能でも巨大な二足歩行はどう考えてもムリです。
先ほど途中まではダマせていたと書きましたが、さすがに現地でメカニカルコングのお披露目を見た各メディアの記者たちはその巨大な失敗作は目にしているはずですが、しみったれた記事にはしたくないということで共犯になってしまったのかもしれません。かくして衆人環視のもとにデマは作られるのです。これは戦争中の新聞もそうです。なにも軍が怖いから従ったということだけではなったのです。
「スタッフロール」では単純にアナログvsデジタルという図式になっていますが、ジョーズロボットのようないわゆるアニマトロにクスという技術が出てきたときもコマ撮りアニメーターや操演型のパペット職人との軋轢はあったはずです。
ちなみにこのリメイク版「キングコング」のプロデューサーはこのサイトでも響きがカッコイイ名前の見本として出したディーノ・デ・ラウレンティスという人です。お察しの通りイタリア人です。そうそう、この作品のアメリカ臭がしない要因のもうひとつはイタリア系が出てこないことです。どうもこの作者はギリシア系をフィーチャーしてみたり、黒人キャラにもいわゆる奴隷の子孫ではなく新たにアフリカから渡ってきたであろう苗字にしてみたりと「ほーら私はステレオタイプの設定をしないだけ、むしろ知識が深いのよ」とでもいいたげですが、マドンナもレディ・ガガもスタローンもボン・ジョビもウォーレン・デ・マルティーニもヘンリー・マンシーニもデ・ニーロもパチーノもラ・ソーダもいる国でイタリア系が出てこないのはあまりに不自然。あと、アニメータースタジオといったらイマドキのアメリカなら韓国人のひとりやふたり、いそうなものですが、この作者はどうやらミッツ・マングローブ氏のように韓国人の成功というものを視界から外したかったのかもしれません。
そーいえば…
というくだりですが、ここには若干作者の理解のズレが見てとれます。まずこの賞をとったのは彼個人ではなく、会社としてで、それはアメリカの会社です。どうも作者はアメリカ国籍になった日本人科学者のノーベル賞受賞を日本人の手柄として報道する日本のマスコミと同じメンタリティのようです。
さらにいえばこの賞はクリエイターに対して与えられる賞ではありません。この賞がどういった性格の賞なのかは過去の「日本人受賞者」を見ればわかるでしょう。富士フイルム、ソニー、キャノン、イマジカといった面々です。そもそも「科学技術(工学)賞」という名称ですし。
ちなみに「ヒーローズ」のヒロ役でおなじみの元天才少年のマシ・オカ氏はILM時代にパーティクルのシミュレーション・ソフトを開発したそうです。パーティクルというのはツブツブのことで炎とか煙とか群衆とか色々な物理シミュレーションに応用されます。日本人のオスカーといえば2015年には中垣清介という日本人が坂口氏と同じ賞を受賞しているのですが、こっちはノーチェックだったのでしょうか?
『トロン』を否定するために技術誌を買ったって?その専門誌は否定するのにどう役立ったというのでしょうか?まったく謎のロジックです。アナログな方々とCGとの距離感の描写もヘンです。
CGがまだまだ超黎明期な段階で造形師が脅威を感じるって、そもそもあり得ません。
たとえばビジネスなどいろんな分野でもAIの進化でいくつかの仕事が消滅するといわれてますが、こっちこそ割と予測しやすい「今そこにある喫緊の危機」にもかかわらず、今から毎日、戦々恐々としてる人なんてほぼいないでしょう。大企業の経営にかかわるような人々はすでに腐心してるかもしれませんが。
一方で、黎明期のCGから現在のような進化を(達成速度も含めて)想像できてた人は皆無だったといっていいでしょう。そもそもブロのカメラマン(スチルの方)がデジカメにシフトするのでさえもっと先のハナシだと思われてたのですから。
Tron Lightbike Scene
TRON - Program Clu
TRON - CGI making of (1982)
Ultimate History of CGI
日本で最初に「これがコンピューターグラフィックスだ!」と宣伝の段階から銘打ってた映画は1977年の「スーパーマン」のオープニングタイトルではないでしょうか。ペプシとタイアップで景品のクリアファイルなんかも展開していました。
Superman [1978] - Opening Titles/Credits Sequence (720p)
タイトルシーククエンスでのCGの使用の歴史はけっこう古く、ヒッチコックの「めまい(Vertigo)」は1958年の作品でした。
Vertigo (1958) title sequence
デザイナーは「或る殺人」や「80日間世界一周」などのオシャレタイトルでお馴染みのソウルバスですが、CGアニメーションを手掛けたのはジョン・ホイットニーという人で、彼はCGアニメの父と言われてるとかいないとか。知らんけど。
とりあえず、この段階ではアナログ職人とバッティングする要素は見当たりませんよね。それどころか平面のイラストレータですら完全に安全地帯のど真ん中です。
スーパーマンの少し前にテレビでスキャニメイトという名のアナログCG技術が『スーパーロボット マッハバロン』や『少年探偵団 (BD7)』といった子供向けテレビ番組で使われて話題づくりをしようと必死な感じでしたが、これは今の感覚でいえばCGというよりは映像エフェクトといったほうがよく、もちろんアナログ系のクリエイターに対する脅威でもなんでもありませんでした。
「トロン」はそもそも電脳版ミクロ決死圏みたいなもので、完全架空の電子セカイに人間が入りこむという設定なのでその世界観が好みでないてという人は一定数いたかと思いますが、アナログな造形職人組合がザワつく案件ではありえません。だって何か現実の質感をシミュレーションしてるわけでないのですから。
むしろ、こういう抽象的な電子セカイを造るのにCG使わなきゃカッコつかねーだろってハナシにもなりますね。いってみれば先述のスキャニメイトと同じようなもので、どうだ!これが電子セカイだ!とふりかぶって話題作りに必死だったわけです。レーザーディスコとかとレザリアムとか今となってはちょっと恥ずかしい時代の仇花的なものになってしまったかもしれません。
もっといえば実はこの時代はまだ技術が足りなかったらしくフルデジタルは実現していないそうですよ。それでも先述のロボコングのようにCGを使ったぞといってプロモーションしたかったのでしょう。
とにかくアナログ職人とデジタルアーチストとのせめぎあいという文脈でこの「トロン」を持ちだしたというのは全くもってとんちんかんというものです。
「トロン」の音楽担当のウェンディ・カルロスはシンセサイザー奏者ですが、その音楽は決して冷たい無機的なものではなく、テクノポップっぽくもありませんでした。ウェンディ・カルロスは元はウォルター・カルロスという名前でした。そうギョーカイにおけるトランスジェンダーのパイオニア的存在でした。キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」の劇伴も手掛けた彼女の音楽は批評家からは正当に評価されず常にジェンダーのことを好奇のあるいは批判的な目で見られていたのです。ギョーカイにおける性差別を描くならウェンディ・カルロスも無視するなよなってハナシです。
どうも作者は「スターウォーズ」と「2001年宇宙の旅」への偏愛があるように見受けられます。「キングコング」をスルーして「オズの魔法使い」をあえてフィーチャーしてるのは「2001年宇宙の旅」の特撮監督ダグラス・トランブルのパパ、ドナルド・トランブルが参加している作品だからじゃないでしょうか?。
ただここのくだりもツッコミどころは多いです。まず「ホンモノの竜巻」なわけねーじゃん。
まがりなりにも映画産業に身を置く身でこの認識って、マチルダさんダイジョウブデスカ?
画面のリアルさの問題以前に俳優を危険にさらすか?という視点で判断がつくというものです。つまりどうやって撮ったのかわからなくても本物なわけはないと考えるのが標準的な米国映画人です。
…さらに、本物の竜巻を撮影したフッテージを合成したわけでもありません。今度はリーヴさんダイジョウブデスカ?当時の技術で合成に耐えうる本物の竜巻を撮影することなど不可能でしょう。あの時代にそんなクォリティ映像が撮れたら科学や報道の素材として歴史に残るくらいの価値があります。
The Wizard of Oz (1939) - It's a Twister!
このシーンの本当の撮影方法についてはこちらにに詳しい
気象学者が書いたこのコラムはなかなか示唆に富んでいます。
特撮監督はパパ・トランブルではなくアーノルド・ガレスピーという人で、竜巻の正体は円錐をひっくり返したようなカタチの靴下もどきとのこと。これはガレスピーが航空業界にいたころに見ていた空港の吹き流しを思い出して思いついたアイディアだそうな。この吹き流しのことを英語ではwind socksといいます。直訳するなら風見鶏ならぬ風見靴下ってとこでしょうか。
これは後に「2001年宇宙の旅」で、ドナルドの息子、ダグラス・トランブルがやった「木星マシン」を想起させます。
半円の板を回転させて、それでできた「球」に木星のテクスチャ(模様)を投影するという。
半円を回転ってのは3Dモデリングのハナシではありません。ほんとうに板を高速でグルグルとまわしたってことです。残念ながらメイキング映像は残ってないので、それがどういう風に見えるのか確認はできませんが、いいカンジにエッジにボケ感、透け感のある物体が浮遊してる感じになったんじゃないでしょうか?
How Kubrick Made 2001: A Space Odyssey - Part 6: Jupiter and Beyond the Infinite [A]
オズの靴下もどきの方も砂煙をまぶしてエッジをぼかしたとあります。撮影後何日間もスタッフは黒黄色の淡に悩まされたともあるので、なかなかの労災案件だったかもしれません。(せっかく俳優は危険にさらさずに済んだというのに!)
ちなみにこの竜巻くつ下は35フィート(10m)もあるシロモノだったということです。ここでまた思い出すのはさっきもふれた「タワーリングインフェルノ」の138階超高層ビルのミニチュアセットのこと。ミニチュアといっても、こっちも高さ70フィート(21m)もあったというのでミニチュアなのに巨大とはハリウッドおそるべしです。
たしかに炎とか水しぶきなんかが絡むあの展開では、ある程度の大きさがないと迫力がでません。日本のトクサツものはとりあえずハイスピード撮影(ややスローモーション気味のあれ)でスケール感を出そうとしますが悲しいな水しぶきなどのサイズやカタチでバレバレでした。
リアプロジェクション合成したというところに関してはホント。リアプロジェクションというのは別名スクリーンプロセスといい大きなスクーンの背後から映像を映写して、役者がその前で演技するというリアタイな合成法。実はこの手法には温故知新的な要素があります。
というのは、この方法は長らくグリーンバック(ブルーバック)による、合成にとってかわられていましたが、近年のLEDディスプレイの高精細化、大型化にともない、巨大ディスプレイで映像を再生するという方法で復活したのです。「オブリビオン」のタワーシーンの窓からの景色に使われています。
この方法の利点は「色合わせ」の手間がやや減るということです。2つの映像を自然に見せるには別の環境で撮ったモノの光の具合を合わせなければなりません。ところが窓からの光が実際にはいってくるとなれば、それらがそのまま役者の肌や室内に映りこむわけですから、そのままでも"ある程度"のリアルさは再現できます。
これはデジタル時代アナログ的手法ということができるかもしれません。ほとんどの人に理解不能なCGウンチクにページをさくのであれば、アナログとデジタルの意味というものを考える材料としてキングコングからのこういった流れをとりあげてほしかったです。
アナログとデジタルの意味ということだと、この「スタッフロール」にもHDRIなどというワードが出てきましたが、近年よく聞く「デジタルリマスター版」やデジタルの莫大なデータ量の話を折りこんでも面白かったのではないでしょうか。リマスター版って単に古いフィルムの修復と誤解されがちですが、メインはフィルムというアナログデータが秘めるポテンシャルを引き出す作業でもあるのです。
フツーに35mmや70mmのフィルムに対してデジタル化の作業をするとなると元のフィルムには余裕で6kくらいのデータ量はあるというのです。つまりむしろ4Kリマスターなどという場合はデジタル化することによってかえってデータ量は削られてしまうのです。
だからこの先、8kとか16kが標準になった場合、4kデジタル撮影されたデジタル作品の画質を20世紀作品のリマスター版が追い越してしまうなんてこともあるかもしれません。
実はここにもうひとつの落とし穴があります。リマスターすることによって当時の映画館ではみることができなかった細部が鮮明になるということがおこりえます。アナログに映写機の限界で見えなかっただけで、フィルムには確かに映っているのですが、監督の立場からするとやっと技術がおれに追いついたと喜ぶかもしれませんし、逆にいやいやおれは映画館の映写画面を想定して撮ったんだよ。だからこんなのおれの作品じゃねーという監督もいるかもしれません。監督が存命なら確認できますが故人の場合はリマスター職人の悩みどころになるのです。
アナログのポテンシャルというハナシだと、父がよく映画のチラシを見ながら「70mm上映って書いてあるけど、これは35mmで撮ったやつを70mmフィルムに焼き付けているだけだ」と言っていたものですが、当時は「だったら意味ないじゃん」と思っていました。
でもアナログフィルムが秘める6kのデータ量とアナログ映写機の限界を考えると70mm上映では少なくとも解像度はアップしていたはずだし、光量の減衰もおそらく減るので確実に高画質な映写となっていたのでしょう。
この先、フィルムスキャン技術が進めばアナログフィルムから8kのデータを吸いだすことが可能になるかもしれませんが4kで撮ってしまったものは4kのままです。とはいえフィルムの保存には化学的に限界が存在します。
ここで気になるのがデジタル映像のデータ量です。
業界標準であるARRI ALEXA35では2TBで56分、「JOKER」に使われた最高峰のALEXA65では43分。スーパーボウルのハーフタイムショーの記録に使われたALEXA miniなら12GBで54分。「大豆田とわ子と三人の元夫」で使われたAMIRAなら12GBで1時間55分。
デジタルしか知らない世代から見るとけっこうな物量だなと思われるかもしれませんが、フィルムの物理量はこんなもんではありません。↓
https://www.scenesavers.com/content/show/film-footage-calculator
父の仕事場にフィート換算用のスケールが貼りつけてあったのを思い出しました。
デジタルが最強でないという現場は実は「スタッフロール」の中にもありました。
たとえばチャールズ・リーヴはペインターだという設定でしたがマットペインターというのは合成用の背景を描く職人のことで、『ダイ・ハード2』ラストの空港シーンが実は絵でそれを描いたのは日本人の上杉裕世氏だったというのをテレビで見た方も多いことでしょう。
ここで細かいつっこみをさせてもらうと
そのアナログ芸の究極がパニック映画ブームの流れの中にありました。1976年公開の「ヒンデンブルグ」これはドイツの巨大飛行船ヒンデンブルグ号が安全なヘリウムに切り換えず水素ガスを使い続けたことで着陸時に大火災にみまわれるという歴史的な大惨事が題材なのですが、ヒンデンブルグがマンハッタン上空を横切る映像ではちょっとしたひっかけクイズができそうです。
この映像のどの部分が手書きの絵なのでしょうか…。
https://youtu.be/e7b_TdygluE?t=74
答えはゼンブ。
マンハッタンの街並みが絵だということは(質問の趣旨から逆読みして)想像がつくかもしれませんが、動いてる飛行船までが絵というと驚くでしょう。
これはガラス板に描いた、いわばセル画形態の絵。
マットペインターはデジタルマットペインターへと引き継がれていきましたが、これが進化かというとそうとも言いきれないでしょう。
すべての画材がデジタルで再現できるとしたら絵具を使う画家は激減するでしょうが、そうはなっていません(すべてのジャンルのという意味で)。たとえ再現できたとしても、それは再現のための再現で、水彩や油彩などマテリアルの質感や多様性に重きを置いた描画なら、いまのところアナログで描いたほうが早そうです。
それは効果音を作る音効さんにもいえることで、どんな音でも合成できると信じられていたシンセサイザーは実はそうでもなかったし、実音そのものを録音したものは意外と説得力にかけたりするので、それこそ小豆じゃらじゃらで波音みたいな手法が生まれるわけです。
このことが示唆するのは、これはマットペインターにも言えることですが、すべては客席から見てリアルかどうかということにかかっているということです。
たとえば銃声は実際には「ズギューン」なんてあんな金属音はしませんが、乾いたパーン、パーンなんて音だと迫力に欠けたりするでしょう。(最近は事件のリアル動画などがネットその他で出回ってきたこともあり、そのリアルなパーン、パーンは不気味さを演出する場合は逆にアリなんて場合もあるかもしれませんが。)
以前、「ターミネーター2」で液体金属男がヘリを乗っ取るシーンで「あの角度であそこにパイロットの顔が映るのはおかしい」などとblooperサイトで指摘されていましたが、現実がそうだったとしても、それは制作者にしてみればワザとだったのかもしれません。
ここで私の体験談をすると、そのむかし自然の景観の中に金属の球が浮いているというシュールなCGを作ろうとしたことがあったのですが、1時間以上のレンダリングを終えてみてびっくり。球が消えてたのです!。いや、実は球には空だけが映りこんでいて結果、単なる保護色になってしまってたのです。鏡面というマテリアルは何かが映りこんでナンボなわけで、かといってもう一度作り直すのは面倒だったのでフォトショップで「球面変形」をかけた画像をペーストして映り込みを無理矢理捏造しましたw。
ジェームス・キャメロンの「ABYSS」のあの象徴的な水ヘビに移りこむ室内の映像はやはりフォトショップを駆使して実写映像を合体させて作りあげたそうですが、たまたまILMのスタッフだったジョン・ノールがフォトショップの開発メンバーのひとりだったこともありそのコネを最大限に生かしたということだそう。
焦点はあいかわらずボケ気味な文ですが、かまわずつめこんでいきます。今回はそういう趣旨なので。
リアルといえば、先ほどの「俳優を危険に晒さない」というハナシですが、あるいは「でもむかしはハリウッドも今ほどコンプラ厳しくないから多少はワイルドだったんじゃない?」と思ったかもしれません。そんなあなたには1933面版「キングコング」の特撮監督だったリンウッド・ダンの地味目なお仕事を紹介しましょう。ケーリー・グラント主演の「赤ちゃん教育」登場人物の後を豹がついていくシーンがあるのですが、これをわざわざオプチカル合成で撮ったのです。
3分半くらいから当該シーン見られますが、氏のインタビューとかキングコングの映像、後半はスターウォーズなどもあるのでフル視聴おススメです。
これが日本だったら令和の今だとしても別に触れ合う演技ではないし、飼いならされたタレント動物ならダイジョウブっしょとばかりに、湘南プロあたりのスタッフが一応、近くに待機だけしてそのまま撮りそうです。
アメリカはさすが契約と保険と訴訟の国です。これを知るとトム・クルーズが自らスタントをするという行為がいかに稀有なことか理解できるでしょう。
テレビのバラエティ番組で命綱なしでヘリにぶら下がるかつての志穂美悦子さんのスタントシーンを流した後にその番組のMCをしていた芸人のニューヨークが「今、コンプラがうるさ過ぎるとかいうけどコンプラがあってよかった、コンプラ最高!」と言っていましたがたしかに昔の映像はイカれた映画人のオンパレードです。(反社の方からモノホンのチャカを借りたなんていうハナシも…)一方でアメリカのショウビズ界はすでに1930年代からケッコウちゃんとしていました。
さて、ギリシャ系の師匠なんていう人物設定を見ていたら映画と映像に関するギリシャネタがぽつりぽつりと浮かんできました。
まず私の年代でお思い浮かぶのは、スピルバーグのリメイクで話題をよんだ「ウエストサイド物語」です。1961年版のベルナルド役のジョージ・チャキリスはギリシャ系で日本では主役をさしおいて大人気でした。彼は1984年にはNHKのドラマで小泉八雲役を演じました。この怪談でおなじみの小泉八雲=ラフカディオ・ハーンもギリシャ人です。なんで日本のドラマに?と思ってしまいますが、どうやらチャキリスは日本の某宗教の信者らしいです。ネットには「それはデマ」と書いてありましたが、私の友人の会員の方が、彼とハービー・ハンコックとティナ・ターナーはそうだと言い切ってました。
ハリウッドで一番成功したギリシャ系といえば「炎のランナー」の音楽を担当したヴァンゲリスでしょう。ただしエンタメ界で一番成功したギリシァ系ならネットフリックスのテッド・サランドスかもしれません。
さて、造形、CG、ギリシャ系という連想ゲームでほんとうは一番最初におもいついたことがあります。それはギリシャ系の脚本家兼コメディエンヌであるティナ・フェイ主演のテレビシリーズ「30ロック」でこんな場面があったんですよ。
トレイシーというお調子者のキャラが自分の好きな
「ポルノ」と「ゲーム」
を合体してポルノゲームを作ろうと決心するのですが
オタクなフランクからムリだよとツッコミが入るのです。
言語ブログのころの名残りでこういうのもたまに載せます。英語に興味ない人は次段の訳までスキップを。
Frank: A porn video game? ? it can’t be done. History’s greatest perverts have tried: Walt Disney, Larry Flint, the Japanese ? but they can’t do it because of ‘The Uncanny Valley’. (Produces a graph on paper) Check out this chart. As artificial representations of humans become more and more realistic, they reach a point where they stop being endearing and become creepy.
Tracy: Tell it to me in Star Wars.
Frank: Alright. We like R2-D2. And C-3PO.
Tracy: They’re nice.
Frank: And up here (points to pinnacle of graph), we have a real person, like Han Solo.
Tracy: He acts like he doesn’t care, but he does.
Frank: But down here (points to base of graph) we have a CGI Storm Trooper… or Tom Hanks in The Polar Express.
Tracy: I’m scared!! Get me outta there!
Frank: And that’s the problem. You’re in The Valley now and it’s impossible
get out.
That's where you're wrong.
I was born to design a video game where characters get weird with each other for golden points.
My genius will not be denied.
I'm like mozart.
You're like that guy that was always jealous of mozart.
Salieri?
No,thank you.
I already ate.
You will not deter me.
The world is gonna remember the name tracy jordan.
フランク: CGポルノゲームだって? ? 無理だ。.歴史上数多のヘンタイたちがトライしてきた、ウォルト・ディズニー、ラリー・フリント、そしてニッポン人。でも彼らはできなかった。なぜか?「不気味の谷」だよ。この図を見ろって。人工的な人体の再現をどんどんリアルにしていくと、突然カワイクなくなってキモくっなっちまう点に到達する。
トレイシー:それスターウォーズで説明してみてくれよ
フランク: オッケー、ここがR2-D2で、ここがC-3PO
トレイシー: うん、あいつらはナイスたぜ
フランク: でこの一番上がリアルなキャラ、ハン・ソロとか.
トレイシー: やつはぜんぜん自然だぜ.
フランク: でもここ、CGのストームトゥルーパーとかポーラーエクスプレスのトム・ハンクス.とか
トレイシー: コワイコワイ、そこから出してくれ。
フランク: そこが問題なのさ。キミはこの不気味の谷からは出られないんだよ
トレイシー: そんなのは間違ってる。おれはビデオゲームをデザインするために生まれてきたような男だぜ。キャラクターもうまくいく。おれの天才性はだれも否定できない。おれはモーツァルトだ。そしておまえはモーツァルトにずっと嫉妬してた男だ。
フランク: サリエリ?
トレイシー: いらん、それはもう食べた。おまえにおれはとめられない。世界はおれの名前をきざむのさ、トレーシージョーダンって。
多分、さいごのくだりはサリエリをセロリと聞き間違たってこと。
テレビのコメディで「不気味の谷」をとりあげるなんてアメリカはさすがエンタメ先進国ですね。二人のこの会話だけで「スタッフロール」一冊分よりおもしろい。
不気味の谷」はロボット工学者の森政弘が1970年に提唱した概念で、上の会話にあるとおり、ロボットやCGは人間に似せようとリアリティを追及していくと、あるところからむしろキモくなってしまうというもの。
Golden Pointは任天堂のポイントとかけてかぢゃねーかとふんでみたがどうだろう。
少し、安心したのは「ポーラー・エクスプレス」のトム・ハンクスは不気味と思ってていいんだってこと。
正直、CGアニメが出てきたころは違和感しかなかった
でもこれで子供は喜んでいるんだから
不気味の谷の境界は「受け手」の問題でもあるのか?と思ったりもした。
実際のところ、人体の表現には劇的な進歩はみられないが
CGエロゲーはもうネットを席捲しているようだ
二次元で興奮できる世代は2.7次元くらでもいいってことか
私自身も前よりはCGアニメにも違和感を感じなくなった
結局、慣れってことなのか
するってぇとあの「不気味の谷」のチャートも今後、書き変わる可能性アリ?
あのチャート下のほうに(つまり不気味側に)
Wax figure of Nicole Kidman(ニコール・キッドマンの蝋人形)ってのがあった。
たしかにそれはコワイ。
いずれにせよ、これも客席からどう見えるかがすべてというハナシです。
さて、小説にはなしを戻します、
人間ドラマという面でもあまり感情移入できませんでした。
ただ、工房の共同経営者となったマチルダがクレジットされない理由は、女性という立場のせいだけではなかった。手先が器用で、平面に描かれたものを立体化し、細部まで作り込める造形力と、ゼロから何かを生み出す創造力は異なる。マシューはそのどちらも持っていたが、マチルダに備わっていたのは造形力だけで、創迫力は希薄だった。
168-169
マチルダってば、ちゃんと能力不足ぢゃねーか、っていう。共感できる人間がさっぱり出てきませんでした。これは私が浅すぎる?
さて、じゃあ現実世界ではアナログ職人たちははいつごろデジタルを脅威に感じたかってことですが、ディズニーの「Light & MAGIC」というドキュメンタリーシリーズにそこらへんが生々しく、見ようによっては生き生きと描かれています。
元々は特殊メイクを含む造形職人でのちに研修を受けデジタルアーチストになった女性、ジーン・ボルティさんは「ウイロー」の6変化のシーンでは各動物のマペットの制作を担当したそうですが、それがCGの未来を変える出来事だったことには当時は気づきもしなかったといっています。
モーフィングで人間がいろんな動物に変化するシーンですが、モーフィングの処理はもちろんコンピュータ上で行われましたが、それぞれの動物はアナログな造形物だったのです。
そうしたこともあったからか、モデルショップとよばれる造形部門では視覚効果における主役はあくまで自分たちでデジタルはあくまで補助的なものだとその後もしばらくは信じられていたようです。
一方でポルティさんはデジタルがアナログを凌駕するという未来はまだ見えていなかったもののCGチームを見ていて、評価はレンダリング結果がすべてでとても平等でエゴがなくてすがすがしいと感じていたそうです。
そもそもアメリカって結果がすべての個人主義じゃないの?と思ってましたが、どうもこの造形工房はちがったようです。メンバーのひとりは工房は「ひとつの機械」だったと証言しています。ある意味「家族」よりも強固な結束なのかもしれません。
モノづくりというしごとになるとウェットな部分も生じてくるということでしょうか。
社内では1991年ごろから配置転換を見据えてデジタルの研修を受けるように社員に促したそうです。
つまり1989の「アビス abyss」のいわゆる水ヘビを見た(携わった人も含め)現場の人たちが手ごたえと将来性を感じ始めたということのようです。
https://www.youtube.com/watch?v=XSLQ_94R4sc&t=11s
このことは私の感覚とも一致します。「アビス」のあのシーンを見た時はついにここまできたかと思いました。反射と屈折の両方ある物体は計算量も大ははずで、それがぐにゃぐにゃしているのですから。実際には「映り込み」と「動き」は半ば手作業による力技の部分が多かったのかもしれません。とにかく水や流体の表現というのは映像表現の大きな関門といえます。
オスカーを取ったCG技術も波や飛沫に関するものでした。ちなみに東宝で経営していた喫茶店の名前はオスカーでした(過去形にしてしまいましたが今もあったらごめんなさい)
1991年ごろから関係者はザワつきはじめていましたが、完全に引導を渡したカタチになったのは「ジュラシックパーク」のCGシーンの試写が行われた日のようです。
「ジュラシックパーク」は制作開始当初の恐竜はCGではなくストップモーションアニメを使う予定で実際に撮り始めていて、巨匠フィル・ティペットの究極のコマ撮りアニメ映画になるはずだったというのです。
試写を見た巨匠は「私は絶滅した気分だ」と言ったそう。
それを聞いたスピルバーグは
「そのセリフいいね、映画で使おう」と返したのだとか。
たしかに巨匠の言葉が恐竜の絶滅とひっかけた表現かもしれませんが失意の底にいる男にかける言葉としてはどうだったのでしょう。
「アビス」「ジュラシックパーク」はシンプルにすげぇと思った2作品なのでこの裏話にも納得です。
それにしてもなんで深緑さんは「トロン」だと思ったのでしょう。
「スタッフロール」はお仕事小説として高評価ということですが「ライト・アンド・マジック」もお仕事ドキュメンタリーとして面白いです。日本ではよく文武両道などといったりしますが、大抵の場合「武」はスポーツだったりします。
「ライト・アンド・マジック」に出てくるスティーブ・スパズさんはかつては特殊部隊のようなところにいて、当時の仲間たちは「人殺し」の話ばかりしているなどと言っています。特殊部隊でしていたことは話せないなどと言っているのがちょっとコワいです。
アラスカ出身のマークティッペさんはUCバークレーで「スタッフロール」にも名前が出ていたエド・キャットマルさんの授業を受けていたというから深緑さんのファンにも「ライト・アンド・マジック」はおすすめです。
離婚してまで渡米したという女性までいて、それぞれの人生模様はけっこうヘヴィで小説より奇なりなかんじです。
ちなみにコマ撮りアニメの巨匠、フィル・ティペットはその歴史的な試写以降社内では彼をやめさせろなどという声もあがったといいますが、ドライなアメリカとはいえ経営者ではなく同僚からそうした声が出てしまうのは巨匠は王様のように振る舞っていたのかもしれませんね。ティラノサウルス(暴君竜)なだけに。
結局、アニメーターとしてひきとめられますが、それは自明の理というもの。実際に存在しない恐竜に動きをつけるとしたらコマ撮りの経験がものを言います。モーションキャプチャー用の恐竜俳優たちに動きをつけているシーンがなんか面白かったです。
「ライト・アンド・マジック」との関連でひとつ。先述の映画関係の技術的な仕事をしていた父の仕事場には「スターウォーズ」で使ったというシュノーケルカメラがきていたことがありましたが、ほんとうかどうかはわかりません。いえ、別に父は嘘をついていないと思うのですがまわりまわって話が変わってしまうことなどよくあるはなし。
ウルトラマンで使っていたフォグメーカー(煙出し機)はきっと本物です。円谷プロはふつーに取引先でしたから。毎年、東宝のカレンダーとウルトラマンのカレンダーは10部づつ買わさ…いえ買っていました。東宝カレンダーも今だったら長澤まさみさんとか浜辺美波さんとかなのでしょうが、当時のは誰とはいいませんが四文字熟女大集合なかんじでした。
フォグメーカーはウルトラマンの特撮ネタとして小学館の学習雑誌の中でも紹介されていたので記憶に残ったのでしょう。
オイルを噴霧する仕掛けなので子供のころは面白がっていましたが潔癖症気味の現在ならノーサンキューです。
大学時代に地元のことを説明するのに「砧は日本のハリウッドなんだぜ」と冗談めかして言ったことがあります。もちろん友人も笑い飛ばしましたが、今思えば当たらずとも遠からじな表現だったのではとか思っちゃったりもします。
小さいころから私のまわりには映像関係が溢れていた気がします。先述のように東宝撮影所と円谷プロは近所でした。ちなみ円谷プロは小さな会社だったこともあり父の仕事場に修理や改造を依頼するカメラを持ちこむ際に地球防衛軍的なウルトラな車にのってやってきます。すると近所の子供たちが集まってくるのですが車から降りたお兄ちゃんたちが私の家に入っていくのを子供たちが不思議そうに眺めている様がなんだか誇らしかったです。
映像関係の会社がもうひとつ、今のTMCスタジオがある場所には国際放映というテレビドラマを中心に制作する会社があって正面玄関には現在放映中のドラマのタイトルが札に書かれて掲げてありました。「ケンちゃんシリーズ」とか「太陽にほえろ」とかで、ロケもよく近所でやっていました。
小中学校の同級生のおばあちゃんの実家は某テレビ局のタレントクロークでもお馴染みYかつらでしたし、中学校の同級生にTレーシングの息子がいて、彼自身もその後日本を代表するスタントマンになりました。ついでにいうと中高の同級生で俳優になった男がいるのですが、こないだも「嗤う淑女」なんかに出ていました。(これは地域性とは無関係ですが連想式案件ということで…)
大学の時、地元(住所は成城)の東宝撮影所の敷地内に店舗をかまえる東宝日曜大工センターというホームセンターでバイトをしていたのですが、古株スタッフの多くは元映画関係者らしく、昔のお仲間という全身カウボーイスタイルでモデルガンで巧みにガンさばきをするという謎の人物を目撃したりもしました。今でも覚えているのは元照明マンの方は高温な現場で脱水症状になりついには結石ができてしまったのですが、医者にビールを飲めと言われて石を流し出したというハナシ。
ミーハーな母に500円やるから配達用の地図をコピーしてこいといわれたことがあります。成城の芸能人のうちが満載というわけです。母はミーハーなので加山雄三さんが池端さんだということを知っています。今ならアウトな案件だと思うかもしれませんが、それは業務用でもなんでもなく町内の店などが広告を出して作られ、無料で一般宅に配られるやつですからギリセーフでしょう。もっとも今はそうした地図は廃れているかもしれません。
父のシゴトのことを思い出したもうひとつの出来事を今思いだしました。おそらく父の最大の取引先だったS映材社のトレーラーを最近になって環八で何度か見かけ記憶が甦ってきたのです。
今思えば「ショーグン」の時にお迎えにきたのもS映材社だったような気がします。
母がS映材社のYさんはすごいとよく話してたのですが、東京・関西間で大量の機材を運ぶにあたってスタッフのひとりだけが新幹線のチケットを買いあとは入場券だけ買ったスタッフたちが出発駅と到着駅でひたすら積みこみと積み下ろしをするのだそう。そしてYさんは夜中でもなんでも対応していたのだとか。
私がみかけた巨大トレーラーはそうした変則プレイはもう必要としない、もしくその方法では手に余るまでに成長したということなのでしょう。なんか感慨深いなぁと思ってしまいました。
S映材社は撮影用の機材をレンタルする会社なのですが、映画評論家の町山智浩氏によれば最新型のシネマカメラ(先述のALEXAなど)はレンタル代もバカ高いからとても日本のドラマでは使えないのだとか。だから「エルピス」や「アンメット」などでシネマカメラが使われるとそのことが話題になってしまうのだと。
そしてこのシネマカメラまわりを掘ってみるとある日本の縮図が見えてきます。「アンメット」の使用カメラについて調べるとなんとALEXA35は撮影監督・Yohei Tateishi氏の私物だというのです。レンタルもままならない高額品を個人で持っている?
カメラを個人で持っている人のはなしを思い出しました。
2001年にフジテレビで「レイメイキ」という新人クリエイター発掘企画があったのですが参加者のひとりである和田健太郎氏はベストな環境でコンペにのぞむべく撮影用カメラとしてアレクサミニを調達したのでした。そしてそれはCMをやっている知人の私物なのだそう。
実は先述の撮影監督Yohei Tateishi氏もCMの出身なのです。要するにCM最強ってことです。「エルピス」についての大根仁監督もそうした現状をなおわせる発言が出てきます。
「変な話」と断ってくれているのがせめてもの救いですが、「映画並みの画質」ではなく「CM並みの画質」と表現しちっゃてるわけです。
その場で視聴者が確認しやすいのがCMとの比較だからともいえますが、一般の視聴者にはCMが日本の映像コンテンツにおける最強画質であるという事実はあまり浸透してないでしょう。
会長主導で制作されたCMが話題になったハズキルーペですが、会長は…
と明かします。
フジテレビの第31回ヤングシナリオ大賞『パニックコマーシャル』は賞を取るためのおしゃれなCMを撮るべきかクライアントの要望をきくべきか葛藤するなどというハナシですがその二択自体につっこむ人がいないのが日本の現状です。
これらが何を意味しているかというと事実上クライアントよりも広告代理店のほうが立場が上ということです。広告代理店が日本人の価値観をつくっているのです。たとえば紅白や朝ドラは普通に民放でとりあげ賞賛しますが、フツーに考えれば裏番組のスポンサーが怒ってもいいようなものです。きっとはるかむかしに「そこは怒るところではない。あれは日本の風物のようなもの。みなさん受け入れている」と代理店が洗脳したのでしょう。
「みんなそうしてる」「それがギョーカイの標準」
はきっと日本のすべてのジャンルで通じてしまう説得ワードでしょう。
ひょっとしたら夕方のニュース番組の中で新製品の紹介をあたかも報道局が取材したニュースのように放送することでバランスをとっているのかもしれません。ああしたものが広告代理店がガッツリからんだ案件だと知ったのはビッグコミックスピリッツの長寿連載4コマ漫画「気まぐれコンセプト」ででした。完全に失速しているこの漫画がいまだ続いていること自体、広告代理店最強説をうらづけるものではないでしょうか。
この漫画は定期的に総集編のような記念豪華本が発行されているのですが電通のパワハラ事件などがあったあとではいくつかの悪乗り案件は黒歴史として削除されるのだろうと思ったらガッツリぜんぶ載っていました。そのひとつが「ラップフェラ」です。営業マンがクライアントのいちもつをラップでつつみ口でいたすといういろんな意味で今はダメなはずのやつです。いや本来遡ってもダメでしょう。
あの五輪汚職を思いだしてみてください。やっぱり日本の価値観やルールを決めているのは広告代理店だと思えてしまいます。先述の夕方ニュースの案件は本来はステマとして禁止されているものではないでしょうか。色々とセーフだと言い張る理屈は用意されているのでしょうが。
ステマといえば先述の大根監督の「エルピス」ロングインタビューですがシネマカメラを使いましたといってARRIでもREDでもなくVENICEって…と突っ込む声が聞こえてきそうです。
VENICE2というと国産では最高級クラスですが世界的にはまだまだマイナーなカメラです。
ここでそのむかし読んだ海外の大物ギタリストのインタビューで
「こないだ日本人が何十本もギターを持ってきたんだよ」といっていたのを思い出しました。
要するさまざまな調整のギターを提供して、合うのがあればぜひわが社のギターをお使いください、ということなのでしょう。
ソニーのVENICEについては「エクスマキナ」についてとりあげたこんな記事があります
Ex Machina” is one of those rare movies not shot on film, Arri Alexa, or a Red camera.
エクスマキナはアレクサやレッド以外のカメラで撮った珍しい映画だ。
また、
紙の上では先輩カメラのスペックに迫る勢いのはずだがSF映画専用カメラというニッチな用途に陥ってしまっている
と軽いディスリも。
何が言いたいのかというと、大根監督は予算がどうとかいっていましたが、ソニーのムービーカメラは市場ではまだまだ売り出し奮闘中なので「エルピス」にもソニーのほうから提供されたのではないか?ということ。
もうひとつ思いだしたのは先述のギタリストは日本人がもってきたギターを弾いた感想で「不思議なことに日本製なのにユダヤ人が作ったみたいな音がしたんだ」など言っていて読んだ当時は何言ってんだかと笑っていましたが、今になって思うとこれは「日本人には哲学がない問題」につながるのではないかと思えるのです。
そしてそれはまたソニーの最高峰シネマカメラが十分なスペックを備えながら苦戦していることにも通じるのではないかと。
人やモノといった文化には「哲学」を刺すスロットがあって、そこに何も刺さなくてもとりあえず動作してしまうことに気が付いた日本人はそれ以来ずっと無哲学でやってきたのではないかというのが私の仮説です。
「ライトアンドマジック」を見ていても皆さんとても哲学的でした。大御所コマ撮りアニメーターは哲学的にCGを批判していましたし、大学でCGを学びながらも学位は哲学だったり、文系と理系を分けないのも哲学的です。文系理系を分けないメリットというのははかりしれません。
ところでVENICEは「トップガン マーベリック」にも採用されたようですが、それでSF向けカメラからは脱したといえるでしょうか。結局、あのインタビュー自体がソニーのシネマカメラのステマになっていましたね。
まったくまとまりのない文章でしたが「超並列」ということで。冒頭に記したように加筆・修正するかもしれません。