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スプリングスティーンはマジで誤解されているのか?~所詮コトバは弱い

ボスことブルース・スプリンクスティーンのも70歳だってよ。

 映画評論家の町山智浩氏は『カセットテープ・ダイアリーズ』(Blinded by the Light)という映画を紹介する中で世の中の人がいかにブルース・スプリンクスティーンの歌を誤解しているかと力説していました。が、世の中を変えたいとか、何かを売りたいと考えるようなプラクティカルなひとたちにとっては、そこで終わっていては意味がありません。
 言葉も「誤用」が多数派になりそれが長く続けば「慣用」になります。多分ですが、誤解している人たちを啓蒙・説得するよりは、誤解の生じた仕組みを理解してのっかってしまうほうが効率が良くメリットは大きそうです。

 誤解の内容を確認しておきましょう。「Born in the USA」はクソみたいな町で生まれてベトナムに送りこまれ人殺しをさせられその後もろくでもない人生…みたいな内容なのに、愛国歌のようにレーガンやトランプのキャンペーンに使われてしまっていると。
 そう、英語のわからない日本人ならまだしも、ネイティブなアメリカ人まで誤解しているのはどうなんだい?ということらしいです。ただ、どうでしょう、歌詞の乖離ということはしばしばおこりますし、それにはいろんなパターンがあります。
 たとえば結婚式における「別れの一本杉」問題。結婚式の余興で親戚のおじいさんが「別れの一本杉」を歌ってしまったというトホホエピソードです。
 これは構造的には簡単です。おじいさん世代のカラオケ好きのレパートリーは演歌が多い。演歌は悲恋ものが多い。そもそもカラオケの選曲の段階で歌詞なんてさほど重視してない。どうせ余興の歌なんて誰もまともには聴いちゃいねーからいいっしょ。
 と、こんなところでしょうか。

 もうひとついえば時に「音」というのは「歌詞」よりもよほど説得力があります。人はインストでも泣くことができますし、ワーグナーの曲で心が鼓舞されたりもします。だから稚拙であったり共感できない歌詞であっても歌が素晴らしければ人は感動してしまうことがあるのです。

 実際のところブルース・スプリンクスティーンの「BORN IN THE USA」の国内盤には訳詞もついてたので少なくともレコードやCDを買った人は日本人とて歌詞の意味をちゃんと読んでいたはずです。
 私も今回、町山氏の説明を聴いていて「そうだそうだ」と思ってしまったのですが、まてよ?私の記憶は都合よく改変されてないか?「バカ」の側においやられたくないから何かを誤魔化してないか?という疑念もわいてきました。

記憶をしぼりだしてみると、多分、当時の私の結論は「なんだかんだ言ってもアメリカっていいよね、自由っていいよね」だった気がします。たしかに歌詞の主人公は底辺でもがいていますが、戦争というものを完全否定するような感じでもありません。ただしんどさを表現する断片が列挙されているだけで「因果」については直接的には語られない逆AI状態です。因果の接続がないまま「BORN IN THE USA」というリフレインになだれこむ。

 なにより映像とサウンドのチカラです。ドラムトラックには80年代を席捲したゲートリバーブのエフェクトがかけられています。ゲートリバーブの説明はフツーなら省略するところでしょうが、知っていると今後、何かと楽しいかもしれないので説明させてください。とばしたい人は次の「★」マークにとんでください。

 さてゲートリバーブとは「ノイズゲート」と「リバーブ」を合体させたものです。リバーブというのはいわゆるエコーです。いわゆるエコーというのは「エコー」「ディレー」「リバーブ」と3種類あるのですがとりあえずそこらへんは省略。「リバーブ」は「ディレイ(遅延音)」や「やまびこ」ではなく「残響音」というニュアンスでしょうか。お風呂場サウンドを想像してみてください。
 で「ノイズゲート」はノイズをカットする装置です。たとえばマイクやラインの何も弾いてない歌ってない時の「ジーーーー」みたいなノイズ。一定以下の音量の時は信号そのものをカットしてしまう文字通り「門」なわけです。とはいえいきなりゼロになると「ブチ感」がまる出しなので短い時間ですばやくフェイドアウトさせることで自然にカットできるわけです。本来はノイズカットのための「ケツぼかし」を「残響足し装置」と組み合わせるとあの「響いてるのにケツがシャープに減衰」というあのサウンドになるのです。

「★」(せつめいとばしの方はここから)

 イントロからのシンセとゲートリバーブのかかったドラムによる教会のような荘厳なアンビエント(キーは陽気なBメジャー!)。そしてスプリングスティーンのパワフルなキャラ。これは「盛り上がるしかないっしょ」という典型的なスタジアムロックの様相です。
 ボーンインザUSAのリフレインに入る時、ボスは軽くですがこぶしを振り上げます。当時のツアーでサビにあわせてこぶしをふりあげるファンの姿が目に浮かぶようです。
 右派や保守のキャンペーンBGM採用はともかく、これを何かの「応援歌」や「アンセム」と解釈してしまうことは決して不自然とは言いきれない(by ぺこぱ)。

少なくともなにかしら肯定的なニュアンスのほうが残る。
「なんだかんだいってもアメリカはアメリカだよねー」
とか
「生きていくんだそれでいいんだ」という玉置浩二の「田園」みたいな…

政治利用にしても
「そうです、そうなんです。このように自由世界のために血を流してくれた方々が不幸になる世の中ではいけないのです」
などと偽善的な補助線がいくらでも足せそうです。

 あのスタジアムロックにノリながらコトの深刻さもつねに意識しろといいわれたら、竹中直人の笑いながら怒る人みたいなことになってしまい、なにひとつ楽しめないでしょう。

 さて、同アルバム収録の「Dancing in the Dark」も『カセットテープ・ダイアリーズ』の中でキーとなっているそうですが、このサイトを見ると「なんだよ感」がさらに沸き上がってきます。

Brian De Palma Week: How "Dancing in the Dark" starts a fire

「Dancing in the Dark」のビデオクリップをかのブライアン・デ・パルマ監督が手掛けたこと自体は「スリラー」のジョン・ランディスとならんで当時からよく知られていました。
 コンセプトはブルースをセックスアイコンに仕上げることですって。まぁセクシーな社会運動家がいてもいいので深刻さをスポイルしてもいい理由にはならないかもしれませんが、気になったのはジャケ写についてのくだり。アニー・リーボヴィッツが撮影したジーンズのおけつショット。これまたセクシーを追及しているようで、アルバムはもとよりこのジャケ写真がブルースを社会派ロッカーからポップアイコンへと変貌させのだとか。

 なんだよブルース・スプリングスティーンは陣営をあげて「ドロ臭さ」を消しにかかってるぢゃないですか。そもそもこのビデオ見てごらんなさい。
 シゴトから帰ってくると寝るだけのボロボロな地獄のような毎日を歌ってるというんですが、「Hey Baby !」と呼びかけコートニー・コックス扮するファンの女の子をステージに引き上げて踊る演出なんか見てると、いっきに「キミさえいればダイジョウブ」というハッピーエンドになだれこんでしまう。それも誤解?だとしたら送り手自らミスリードしていることになります。エルヴィスが乗り移ってるというくだりはライターさんの解釈かもしれませんがこの表現、妙に腑に落ちます。

 さて、結局なにがいいたいかというと、「誤解」が事実だとしても
それは今そこにある現実だということ。
それが多数派だとしたら、なおさらそれを受け入れた上で次を考えなければならない
あいつらはバカ
あいつらアタマ悪い
と吐き捨て切り捨ててしまったら、ますますこちらが少数派になるばかり
そして
時に、というかむしろ多くの場合
コトバは映像や音楽と比べて弱い、弱い、弱っちぃ
ということです。

するてぇと「ネーミング指南」を標榜するこのサイトはおしまいか?
いへいへ
タイトル、なまえ、といった「最小単位」は感覚的に脳に入りますから意外と強力
むしろ記号に近い存在なので時にピクトグラムに近い訴求力があります
速読家ならずとも一瞬で把握できるので
スピード感では音楽より上です。

あ、ここって社会運動マガジンではなくあくまでネーミング指南ですよ。
しかもマーケティングよりのね。
ただコトバにはパワーがあるので取扱注意なんです。

そんなわけで引き続きよろしくお願いいたします。

※またまた蛇足
偶然にも今回「田園」の二文字が登場し
またもや単語しりとりが完成してしまいました
だからといってどうというわけではないのですが…

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