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「疑似科学」よりたちの悪い「疑似哲学」

TBSラジオの「荻上チキ・Session」の中に「哲学対話」という謎のコーナーがあります。
 永井玲衣というひとと哲学対話をするというのですが毎回私は

「?????????」

なかんじです。

ある回のリスナー(49歳研究職男)からメール
「役に立つって何?」
我々の部署に配属された新入社員の女性の歓迎会の席で
彼女が所信表明をしました
「少しでも早くみなさんのお役に立てるように頑張りたいと思います」
年配の男性中心によくいったとばかりに拍手がおこりましたが
私はグロテスクだなと思い拍手はしませんでした

だそうです。

このメールとそれに反応するパーソナリティ陣の盛り上がりがむしろグロテスクに感じました。
 まず思ったのは投稿者がザワついたという「役に立つ」はそもそも女性が言ったんでしょ?ってことです。

するとMC陣はウルトラCに出ます。
彼女はあくまでテンプレート通りの挨拶をしたのだと。
彼女は無罪で盛り上がったおじさんたちが有罪なのだという論理。
そもそも「盛り上がった」のでもなく、それこそただテンプレート通りに拍手をしただけで、そこに多少、飲酒による高揚があったということでしょう。現場の男女比、年齢層などの構成比が明かされないのはフェアではありませんが、ふだんからおじさんを捕まえる気満々の偏った目線で暮らしているのではないですか?

 このメールで逆に思ったのは、彼女目線では、ひとりだけ不快な表情で拍手もしない先輩がいたことになりますがもそれについてはどう思ったでしょうか?
アタマのいい人というのは人のきもちがわからない方々がけっこういます。
被災地で新聞を発行しているという女性が出演したときのチキ氏も信じられない一言を発して、ゲストを困惑させていました。

 こういう細かい「拾い」をするのだったらこっちも言いたいことがありますよ。
私だったら「我々の部署」という言い方はしません。
「私の所属する部署」
または
「わたしが勤務する部署」
という言い方をします。
別にふつーに使っているのでしょうが、「われわれ」って「役に立つ」なんかよりも、ずっとずっとおじさん的なボキャブラリーだなと思ってしまいます。
 投稿者さんはこれが「みなさん」のお役に立つではなく、「社会」や「世の中」であれば違和感を感じなかったなどとおっしゃっていましたが、そっちのほうがむしろ違和感でしょう。

そしてもうひとつ
「戦争について考えるとはどういうことか」
というお題の日。
永井さんは
(戦争を)
「遠いもののように感じて」
「身近に考えるには…」
「自分ごとのように考えるには

ということを言う人にはざわざわするらしいです。
戦争は近いとか遠いとか考えるものではないのだとか。
「兄弟げんかも戦争ですよね」というのは
「ちげーよ」ってことらしい。

ところが出演者のひとりが
兄弟げんかのように小さなところから考えるということは私もやってしまうといったら、突然、
いいんですけどそれで議論が終わってしまうのは残念だということです
などとさきほどの全否定状態を否定しました。
「兄弟げんかって戦争だよね…以上」
なんて会話聞いたことがありません。
だいたいはとっかかりとして使うでしょう。

というか私は 「兄弟げんかも戦争ですよね」というのは全然ありだと思いました。
「ニュー試」の神回のおかげで、哲学を意識するようになった今だとさらに哲学的なとっかかりだなとさえ思えます。

私はこれを見て2つのことを思い浮かべました。
1つは70年代に流行り、最近またリバイバルヒットしているという多湖輝氏の「頭の体操」の中の一問。
 2人の人間がかたちのちがう2つのコップでジュースを円満に分ける方法は?というやつ。
 答えは…
 一応、ネタバレに気を使ってこの答えは文末に記すとします。
 私は当時は面白がっていただけですが、いま見ると哲学的だなぁと思えます。
 そしてもうひとつ思いだしたのは、かつて国際扮装解決人といわれた東京外国語大大学院教授・伊勢崎賢治さんのことば「戦争はセクシーである」。
(小泉某氏のように浅くはありませんよ。)

 さあ、これは永井氏が禁じている「エラい人のことば」ですが、真の哲学が賛否ぶち当てて答えを目指す以上、「引用」は不可欠です。
 いかにも「わかりきった常識」について両論併記は不要という荻上チキ一派らしいメソッドですが、それこそがリベラルが負け続けている理由のひとつであるとは前にもふれました。

とりあえず、「哲学対話」は哲学ではありません。


て、頭の体操の答え
二人のうちの一方が、そのカタチのちがう2つのコップで均等にわけたと納得できる分け方で分ける。
 そしてもう一方の者は好きな方をとる…です。

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