黒崎力弥先生にお話を伺う 『尾﨑士郎と坂口安吾 〜二人の戦後文学〜』 in大田文化の森(大田区記念館講座)
これは2024.03.16の記録です。
大田区山王(さんのう)や馬込(まごめ)という地には、戦前たくさんの文士が暮らしていて、この辺り一帯を「馬込文士村」と呼ぶ、というお話は、文学がお好きな方には結構よく知られたお話かなと思います。
尾﨑士郎先生や坂口安吾先生も、実は大田区で暮らした文士仲間。今回「大田文化の森」でその2人にスポットライトを当てた記念館講座が行われると聞き、楽しみに伺いました。
令和5年度記念館講座
大田区にある龍子記念館、熊谷恒子記念館(2024年9月30日まで休館中)、山王草堂記念館、尾﨑士郎記念館の学芸員さんが、それぞれの記念館にまつわる芸術家のお話をしてくださる文化発信の場。それぞれの学芸員さんが豊富な知識と最新の情報を共有してくれる貴重な機会です!
https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/course
5階にある多目的室が本日の講演会場。令和5年度に4回予定されていた記念館講座の最終回、講師を務めてくださるのは「大田区立龍子記念館」の学芸員で「山王草堂記念館」と「尾﨑士郎記念館」をご担当されている黒崎力弥先生。よろしくお願いします!
大田文化の森の楽しい見どころ
エレベーターを上がって振り返ると、ちょっと必見。大田区にゆかりのある作家さんたちのパネルが並んでいます。ここで北原白秋先生にお目にかかるとは! 師弟関係だった萩原朔太郎先生、室生犀星先生のパネルも、エレベーターを挟んで一緒に並んでいます。
記念館講座を拝聴しよう
私が尾﨑士郎記念館でいただいたチラシによると、キャパシティは50人。中に入ると9割方席は埋まっていました。1人でやってきたのでかなりドキドキでしたが……思ったよりお1人の方もいるかも。良かった~
尾﨑士郎と坂口安吾 〜二人の戦後文学〜
14時になると学芸員の黒崎先生がやってきて、講座が始まりました。
ちなみに今回の主役のひとり、尾﨑士郎先生の「尾﨑」は「﨑(たつさきと呼ぶそう)」、黒崎力弥先生の「黒崎」は「崎」です。 ※この後私が誤字してないといいのですが…
テーマは「尾﨑士郎と坂口安吾 〜二人の戦後文学〜」
大田区ゆかりの文士である2人の友情について、黒崎先生が軽妙な語り口でお話してくださいました。
本日のレジュメ
事前に席に置いてあったレジュメを見ると、講座の外郭がつかめると思います。内容がすごく充実しているので、これをもらえただけでも感激で胸いっぱいです。レポを書くご許可をいただけたので、ここで公開しましょう。
レジュメによると、4つの要点があります。
1 出会いは「決闘」
2 尾﨑士郎と徳田秋聲の師弟関係
3 「決闘」の決着
4 尾﨑士郎と坂口安吾 〜二人の戦後文学〜
ひとつずつ見ていきましょう!
仲良き写真の男たち
お話は、講座の参加申し込み用紙にも使われていたあの写真から。尾﨑士郎先生と坂口安吾先生、そして尾﨑一雄先生が写っているお写真です。黒崎先生によると、これはとても仲のいい3人で撮ったものだということ。真ん中に写っているスーツ姿の男性が尾﨑士郎先生なのですが、こんな風にちょっと気の抜けた雰囲気であるのは珍しい、とのことです。(目の前にある大量の酒瓶も影響があるのか?と仰っていました…笑)
実際、記念館にある尾﨑先生の写真は端正な男性、といった雰囲気のものが多く、このお話は納得でした。キリっとした写真が多い尾﨑先生が珍しく寛いだ雰囲気を見せているところも、魅力のひとつになっている写真ですね。
坂口安吾の親友は誰だ
写真の右に写っている眼鏡の人物は、国語の教科書や映像作品でも良くお目にかかる坂口安吾先生。戦後の混乱の最中発表した『堕落論』『白痴』で一躍名声を得た「戦後派作家」、『桜の森の満開の下』は日本幻想文学屈指の名作といわれています。
そんな作品を発表しながら、放蕩無頼な生活や文学を指して「無頼派作家」と呼ばれていた坂口先生。太宰治、織田作之助、檀一雄(敬称略)は無頼派の仲間、特に太宰先生とは親友関係であると言われていますが、実は実際に会った回数でいうと、決して多くないといいます。
(それでいて『不良少年とキリスト』で太宰先生の本質をズバリ語っている坂口先生。すごいなぁと思います)
小栗旬さんが太宰治役、藤原竜也さんが坂口安吾役を演じた『人間失格 太宰治と3人の女たち』でも、太宰先生の良き(?)理解者でありました。
そんな坂口先生が20年以上なんだかんだと付き合い続け、文士として背中を支えあったのが尾﨑士郎先生。黒崎先生によると、2人の関係はまさに親友。それも、日本近代文学史上稀にみる大親友だった、とのこと。
1898年愛知県生まれの尾﨑先生に対して、1906年新潟県で生まれ育った坂口先生。生まれも育ちも年の差もある2人を結び付けたのは、いったい何だったのでしょうか。
尾﨑士郎とはどんな男だったか
大田区に今でも邸宅が残っている尾﨑士郎先生。出身地の愛知県を出て馬込村中井に転入、界隈を転々としつつも大田区周辺を離れず、大森山王に居を構えると、そこが終の住処となりました。お家はというと、平屋の家にぐるりと囲うお庭があります。
大森山王の家の入口に行くと、作家の生涯を簡単に振り返ることができる案内板があります。建物は現在「尾﨑士郎記念館」として公開されています。
大田区には「馬込文士村」と呼ばれる一帯があり、多くの文士が住んだことを先ほど書きましたが、実は現存しているお家はさほど多くありません。蒲田に住んでいた坂口先生のお家は、近年まで新潟の大新聞社「新潟日報」の持ち物として保存されていましたが、現存していないそうです。ちなみに…なぜ新潟日報なのか?については、坂口先生のお兄さん(坂口献吉氏)が新潟日報社の2代目社長だったから。とのこと。黒崎先生は現地の写真と昔の写真をお持ちで、スライドで比較して見せてくださいました。歴史って深いなぁ…!!
立地的には割と近くにやってきた坂口先生と尾﨑先生…しかし何故2人がお近づきになったのか? この出会いを坂口先生は「世に出るまで」で振り返っています。曰く、2人の文士は「決闘」を果たすべく出会ったのでした。
文士なのに決闘…??
決闘の理由は、坂口先生が発表した『枯淡の風格を排す』。この随筆の中で、坂口先生は自然主義の大家であった徳田秋聲先生をボコボコにしています。これが尾﨑先生の怒りに火をつけてしまい、坂口先生の本を出していた竹村書房を立会人として、決闘を申し込まれます。
しかも坂口先生もこれを「面白い!」と受けてたつという。
お2人とも無頼ですね…
これが1935年(昭和10年)頃。尾﨑先生37歳、坂口先生29歳頃のお話です。
尾﨑士郎と徳田秋聲の師弟関係
では、尾﨑先生はどうしてそこまで怒ったのか? それを語るためには、尾﨑先生と徳田秋聲先生の関係を知らねばなりません。尾﨑先生は徳田秋聲先生の門下。文学の師であり、文士として食えない時期を助けてくれた恩人でありました。『人生劇場』がベストセラーになった後でも一門筆頭として徳田先生を支えようとしており、「あらくれ会」でとりまとめを行う親分肌な一面があった尾﨑先生。華のある尾﨑先生が徳田先生をそこまで慕う…というのが少々意外なところもありましたが、引用されていた『徳田秋聲を憶う』から、とっても尊敬されていたことが伺えます。
「決闘」の決着
「決闘」に出向いた坂口先生と尾﨑先生がどうなったか…この結末だけは、ご存じの方も多いかもしれません。結末は、尾﨑先生が坂口先生の顔を見て一言、「もうすんだ」と言って、坂口先生と握手を交わしました。殴り合いも口論もなく、あっさりとした解決です。(某馬込文士の「椅子をふりまはせ」事件を思い出しますね)
黒崎先生が引用で紹介してくださったお手紙によると、坂口先生が尾﨑家にお邪魔したのではないかというお話もあり、実際御殿山だったのかは不明ですが、2人が一緒にお酒を飲んだという話は確かなようです。2人で2晩飲み明かし、坂口先生は家に帰って血を吐いたと……壮絶ですが、これが2人の距離をぐっと縮めました。
ご近所に住んでしょっちゅう行き来する仲になった坂口先生と尾﨑先生。記念館に飾られたお手紙からも、親密な交際具合が伺えます。そんな2人の交友に影を落としたのが、太平洋戦争でした。
尾﨑士郎と徳富蘇峰
「尾﨑士郎記念館」からほんのすぐそば、「カタルパの小径」という街路の先に「山王草堂記念館」があります。ここに住んでいたのが稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰先生でした。明治・大正・昭和の3つの時代を通して日本の言論界のトップに立っていた大実力者です。その徳富蘇峰先生が尾﨑先生の『高杉晋作』を激賞したことからご縁が生まれ、尾﨑先生の人生が大きく変わっていきます。
日本が国際社会から孤立し、戦争へと突き進んでいこうとしていた1938年、流行作家の仲間入りを果たしていた尾﨑先生もペン部隊の一員として従軍することになりました。
その後アメリカとの戦争が激化する1942年、国家の国策を広く知らしめるために設立された「日本文学報国会」で尾﨑先生も筆を執ることになります。
この時代の言論活動について、戦後その責任を問われた尾﨑先生は、1948年公職追放の身となりました。
尾﨑士郎と坂口安吾 〜二人の戦後文学〜
実は大田区も戦時中の空襲で大きな被害を受けた地域でした。本門寺公園周辺で起きた空襲をはじめ、区内で901人の死者が出ています。そのため尾﨑先生は静岡県伊東に家族を疎開させ、終戦の時を待ちました。東京にもなかなか戻れず、やっと戻れたと思ったら、今度は公職追放の咎を受け、文筆も制限される身に。しかし、この時尾﨑先生を救ってくれたのが、坂口先生でした。
尾﨑先生が「日本文学報国会」に関わっていた時は距離を置いていた坂口先生が、尾﨑先生が公職追放になると聞いて、すぐに駆け付けてくれました。伊藤に疎開していることを知らず、以前の尾﨑先生の住まいにやってきた坂口先生。当然尾﨑先生には会えずに戻ろうとしたところ、たまたま東京に戻ってきた尾﨑先生と出会うという、運命的な再会を果たします。
坂口先生から尾﨑先生に宛てた手紙の一部を、黒崎先生の資料から引用させていただきます。
この手紙が書かれたのは1945年9月29日のことです。8月15日に終戦し、なにも残っていない東京を見ながらひとり友のことを思っていた坂口先生は、その後尾﨑先生のために秘書という名目でGHQ戦犯事務所へ赴いて、徹底的に友を弁護します。
尾﨑先生が文筆活動を制限され、編集者や同人誌に活動の場を移していった時代は、坂口先生にとって飛躍の時代でもありました。『堕落論』『白痴』『桜の森の満開の下』など、代表作を次々に発表。流行作家となった坂口先生の仕事量は前年の13倍というのですから凄まじいものです。膨大な仕事量から逃げるように大酒を飲み、薬に逃げ、また書くといった繰り返しで、身体を壊していきました。文学者としての黄金時代と破滅の時代を、尾﨑先生は伊東へ共に静養しに行くなどして家族で支えます。
坂口安吾先生の文学でキーワードとしてよく出てくる「堕落」について、黒崎先生が仰っていたことがとても良かったのでメモをしておきます。
坂口先生の言う堕落とは、「自主的なストッパー」のことではないか。『堕落論』が発表された時代背景を考えると、前年までは戦争のために皆右向け右、思考停止して言われた通りすることを強制されていた。飢えて力が出ず、思考する気力もなかった。私たちは自分たちの国を失い、後はもうなにも残っていない。しかしこれからも生きて行かねばならない。そんな時代に私たちは何を導にして生きるか。「自主的なストッパー」なのだ。もうこれ以上堕ちることができないというところまで堕ちてみるがいい。どれだけ底がないように見えても、必ず底はある。堕ちるところまで堕ちれば、自主的なストッパーが働くだろうから、やってみるがいい。戦後は自分でストッパーを見つけるところから始まる。
といったような要旨だと私は受け止めました。
2人の最期の交友は、1954年末、新潟でお相撲を見た時です。尾﨑先生と2人お相撲を楽しんでいる写真と、海を見ている写真が残っているのですが、その後すぐに坂口先生は脳溢血で帰らぬ人となります。体調を悪くしていた坂口先生の遺書には尾﨑先生の署名が、そして葬儀委員長を務め、新潟県寄居浜に「安吾碑」を作りました。「故郷は語ることなし」という坂口先生らしい言葉が、裏に尾﨑先生の筆が刻まれています。
終わり
駆け足でざざっとまとめてしまって少々恐縮ながら、この面白いお話をぜひ知ってもらいたいという一心でnoteを書きました。
わかりやすく教えてくださった黒崎先生に心からお礼を申し上げます。
先生はこれからも坂口先生と尾﨑先生の交友についてお手紙など調べて行かれるとのことなので、またお話を伺えたら嬉しいです。
おまけ
私の個人的趣味で、徳富蘇峰先生と尾﨑士郎先生のその後が気になり、黒崎先生にお伺いしてみました。
蘇峰先生は戦犯の指名を受け、尾﨑先生ともども公職追放になりますが、尾﨑先生の公職追放は1950年に、蘇峰先生は1952年に解除されています。
その後尾﨑先生は、蘇峰先生の『近世日本国民史』が完結したお祝いの席に列席して、一緒に写真を撮っています。また、尾﨑先生がお子さんが生まれ、名前を決めたとお手紙を差し上げたこともわかっている、とのことでした。
公職追放で大変なことがたくさんあった後も、尾﨑先生が蘇峰先生を尊敬していた事実は変わらなかったのだと知ることができてよかったです。
【施設情報①】
名 称:尾﨑士郎記念館
住 所:東京都大田区山王1-36-26
電 話:03-3772-0680(大田区立龍子記念館)
開館時間:9:00~16:30(大体16時過ぎには閉館準備をされています)
入場料:無料
※通常施設内への立ち入りはできませんが、毎月第一土曜日に学芸員さん立ち合いで見学することができます!予約制なので、お電話でお問い合わせください。
【施設情報②】
名 称:山王草堂記念館
住 所:東京都大田区山王1-41-21
電 話:03-3778-1039
開館時間:9:00~16:30(入館16時までですが、余裕をもって行かれることをお勧めします)
入場料:無料
※芥川龍之介先生の香典返しや、菊池寛先生の直筆本、斎藤茂吉先生の原稿など、面白いものがたくさん展示されています。写真資料も豊富です。
長いnoteを読んでくださってありがとうございました。
またどこかに出かけたらnoteを書きます。
内容に問題があれば、遠慮なくお知らせください。(冬哉)