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34歳、人と雑談が出来るようになりました。
昔から、人と雑談することが苦手だった。
理由は、二つある。
ひとつ目の理由として、
「会話を始めたからには、きちんとゴール設定をして、そこに向けて高みに昇ることが出来る自分でいなければ、他人から面白い人認定をして貰えない」
という得体のしれない強迫観念があった。
「会話は、相手に楽しんでもらってナンボ。自分自身のことは、二の次」。
そのサービス精神がいくところまでいききって、その結果、自分が楽しむことが後回しになった。
相手に喜んで貰えるか、楽しんで貰えるか。
そのどちらか1つだけでも得られない発言など、自分などには許されないと思っていた。
小さな頃から芸能界にいたという背景が、大きな要因である気はする。
しかし、同じような経験をしていても私のような窮地に陥らない人も沢山いるはずなので、最後は性質によるものだと思う。
◆
ふたつ目は、昔から何事においても自分が「白黒ハッキリさせたい選手権」代表のような性格だったからだと思う。
10〜20代、女優やアイドルとして働いていた時、仕事相手に対して違和感を覚えると、可及的速やかに相手に対して突っかかって問いただした。
少しでも疑問を感じると、まるで警察のように「これは一体どういうことですか?」と事情聴取をしないと気が済まなかった。
まどろっこしくて、遠回りな「雑談」などを優雅にしている暇などなかった。
それよりも相手の間違いを指摘したり、責任の所在を明確にしたりすることに必死だった。
そうしなければ自分の立場が危うくなる気がして、自分という存在を邪険に扱われた気がして、ストレートに物事を言うよりほか、なす術がなかった。
「最近、どうですか?」とか、「近頃こんなことがあって」などと言う時間があれば、物事の本質だけを追求して見つめたかった。
とにかく常に何かに対して腹が立っていた。
◆
同じ頃、恋愛においても常に腹が立っていた。
自分に好きな男性が出来て、相手もどうやら自分を好きそうだということが伝わってくると、仕事と同様に即、相手の気持ちをすぐ確認した。
相手のタイミングも無視して、可及的速やかに、ハッキリと好きか嫌いか判断を求めた。
いま考えれば、あまりにも性急に相手の気持ちを聴き出すため、
「いや、それはモチロン気はあるけど、さすがに早すぎるだろ。もう少し、なんというか、余韻というか、駆け引きというかさ」
と尻込みをしてしまった男性も絶対いたと思う。
実際、そのようなセリフを言いながら私の元から去った人もいた。
折角、それまで良い感じだったのに。
でも、私は”曖昧さ”を許さなかった。
ふんわりとした状況を続けるのが気持ち悪く、曖昧なプレイを楽しみたいタイプの男性は「どうか私ではなくて、他を当たってくれ」と願った。
真理だけを求めた。
なぜ、そこまでせっかちになる必要があったのか分からない。
しかし、一つだけわかっていたことがある。
白黒ハッキリつけることは一見すると正しいが、得体のしれない息苦しさが常に自分を蝕むということである。
私には、
「自分という人間には、人を楽しませる技術がふんだんにあり、また、その使命があり、会話というものはそれを披露する為のツールである」
という驕りとプライドが常にあった。
会話をしていてゴールが上手く決まらないと、気持ち悪く、居心地が悪くて、どうにかなりそうだった。
◆
こうして会話をする相手に対して全身全霊でコミットし、大袈裟に相槌を打ち、努めてとっておきのネタばかりを投下し、相手が欲しそうなボールを探っては投げまくっていたある日。
その鬼気迫る様子を見ていた親友から、一言こう言われた。
「ねぇ、アンタ、今楽しい?」
「え?」
「そんな会話の仕方で、楽しいか聞いてるの。
私と会話していてるのに、アンタは私のことが見えてないね。
次の発言のことばかり考えて、相手を気持ち良くさせることばかり考えてる。
心が、ここにいない。もっと、今を楽しめよ」
その瞬間、「バレた」と思った。
あー、はいはい、長年の自分の癖がバレましたよー。
バレた、バレた。
あー、ようやくバレた。
でも、ようやく気が楽になったと明確に思った。
辛くて痛いジャブではあるが、親友には私の悲痛な社交術がスケスケ丸見えだったのだ。
続けて彼女は言った。
「会話も人間関係も、もっと適当で、曖昧なものでいいんだよ。
どこにも着地しないような、ふんわりしたひとときがあって良いと私は思う。
私はアンタのことを、何があっても、そう簡単には嫌いにならないよ。
なんでも短期間で成果を求めようとしたり、即席で人に気に入られようとするな。馬鹿者」
ハッキリと、そう言われた。
その言葉は、今まで自分の人生で思い描いていた概念を覆すほどインパクトの大きいものだった。
真っ向から人格を否定された気すらして、すぐには受け入れられないほど腹が立った。
それに、親友の言う「世の中は白黒だけじゃなくグレーもある」と言う言葉は、あらゆる不正を許容し、肯定しているようにも思えた。
人間関係において曖昧さを許容してしまったら、全てがルーズでダラダラとして不誠実な付き合いになるのではないか。
そして、会話においてもマッタリとしすぎて、何も得るものが無い、方向性の不安定なものになってしまうのではないか。
そう危惧した。
しかし、それでも、彼女の言葉が胸に刺さる。
決して認めたくなかった。
認めるのは、すなわち敗北を意味していたから。
しかし、心のどこかが「その考えも一旦、受け入れてみろ」と私に囁くのだった。
もう私は、とっくの昔に「自分の会話のスタンス」にウンザリしていたのかもしれない。
◆
34歳を迎えた今、ようやく私は「曖昧さ」を重視できるようになった。
むろん完璧に悟りを開いたわけではない。
未だに「その会話で一番伝えたいことは?」、「あなたは私に対してどう思っている?」と発作的に相手を問いただしたくなる日もある。
しかし、それでも「会話も人間関係も、曖昧で不安定な部分があって良い」と受け入れたことで、だいぶ心が楽になった。
相手に対しても自分に対しても責任を求めず、全てにおいて、「どう転がっても良い」、「余白、余白」と思えるようになった。
誰かと話している時、「この会話はどう転んでも自分のせいではない。ただバイブスを楽しむ」と覚悟も決められるようになった。
ここで言う「バイブス」とは、その日の自分のコンディションであったり、相手の体調だったり、その日の天気も含めて総合的にエンジョイするということである。
すると、視点がかなり俯瞰的になった。
相手に対して怒ることが減り、仮に省エネモードで人と接してもきちんと楽しいという、とんでもなく未知なるゾーンを知ることが出来た。
それにより、とても気が楽になった。
今までの私は、人と会う前に「会話のネタ帳」を心の中にメモしておいた。
会話中の無言が怖いので、話すネタが無くなった時にすぐトークテーマが差し出せるように、入念な準備をしていたのだ。
しかし、最近では、もうそれも必要なくなった。
どんな話を、その場でするのか事前に決めておくのではなく、その日、その場でしか発生しない即興のコミュニケーションがあると知り、そして、それこそが楽しいということを知ったのである。
正直に言えば、まだ、雑談は怖い。
しかし、怖いということは、つまるところ相手のことを信頼せず、ジャッジしていることになる。
私は1つの会話の中で何も解決しなくて良いし、何も得なくていいし、何も変わらなくていい。
そんな、簡単なことにどうして、これまで気づくことが出来なかったのか。
これからはもっと曖昧で、気楽で、適当で、余白を大切にして生きていきたい。
そうすることで、見えてくるエレガントな世界線がどこかにあるはずだから。
この技術は、簡単なようでいて難しい。
時には、努力するほうが簡単なこともある。
しかし、それでも私は、あの日、ロボットのように感情を殺して生きていた私に親友が放ってくれた一言に、今でも感謝している。
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