中二病的「人は見た目が9割説」
デパートの開店の時間を待って足を踏み入れたら、
京都フェアをやっていたせいで、
芸妓さんと舞妓さんも並んで出迎えてくれた。
まとった空気がとても穏やかで綺麗。
舞妓さんのお姿と接するのは初めてで、感激した。
背の高い今どきのプロポーションの女の子。
20代の初めに、花嫁衣裳以外は習ったけれど、
その美しい着付けと、美しい立ち姿に惚れ惚れしてしまう。
サラサラと絹ずれのするような、優しいおじぎや微笑み。
思わず私まで背中を伸ばして、気持ちをシャキッとして、
足の運びを真っ直ぐにして、歩いてしまう。
その日一日はなんとなく、すべてが上手く行った一日になった。
気持ちの持ちようって面白い。
私が私を意識する。
政治を語るのは難しい、と言う話のさわりを耳にした。
浅学の身で語れば恥ずかしく、知識をひけらかすのはみっともなく、
いつからか語られるようになった自己責任とは哲学を伴う、というような。
子供には子供の見え方があり、その仕事や立場からの見え方もあり、
興味ある部分も人それぞれに違うのだから、
難しいのは当たり前ではないだろうか。
間違えたら、ごめんなさい。
教えてもらえば、ありがとう。
人を介した知識や経験を積み重ねることは、
そのようなシンプルさを繋げるやり方ではいけないのだろうか。
専門家と称した場合は、責任と確固たる意見を述べる必要はあるけれど、
繋がりとしてまとまっていく過程では、
てんでんばらばらの感触や意見が当たり前だ。
真面目に、見間違えがなければ、目的を共有し合うことは大事なはず。
そのようなことを考えるとつい、「何のために生きているのか」という
中二病のような命題に突き当たってしまうが、
いくつになってもふと頭をよぎる問題ではある。
外側に利便的な方法や、世間との対処の仕方、大人としての在り方など、
理想と現実のあれこれを防御として身に付けただけの、
中二病だらけの人間が世の中というものでは。
それはいけないことなのだろうか。
「何のために」と考えることは、
自分を生かすことであり、意識することであり、
その結果「霞のように暮らしたい」と思ったとしても、
それはその人にとって心地いい楽な積極的な暮らし方だと思う。
自分が批判にさらされた時に、傷つきはするが、
どうでもいい人にそういった批判が集まることはないので、
自分の立ち位置や存在価値というものを知ることになる。
どうでもいい人はどうでもいいから、批判の対象などにはならない。
羨望と嫉妬はまったく違っていても、見た目は良く似ている。
その違いを受け入れるひとりひとりの度量は違う。
批判を批判で返すのか、やり込める方法を選ぶのか、
永遠の憎悪を保ち続けるのか。
オブラートにくるんだ言葉をイケずと評されるけれど、
長い年月をかけた立ち居振る舞いとともに、
柔らかい笑顔で包んでしまう生き残り方は洗練されていると思う。
人と争ってはいけない。
涼しい顔でやり過ごすための苦労を見せてはいけない。
人に怒りを感じさせてはいけない。
だけどきっぱりと語るべきことは語らなければいけない。
翌日クレーマーさんとしか表現しようのない方とお話していて、
よくもまあこれだけ世の中と他人に不満があるものだと妙に感心した。
毒舌という表現も面白おかしい意味で耳にするが、
毒の意味を本当に分かって話しているのだろうかと思う。
単に考えなしのストレートな物言い、に過ぎないのではないだろうか。
私の話す言葉に毒はないのか、
振る舞いは人の胸の棘になっていないのだろうかと、考えてしまう。
死語になってしまった「花嫁修業」という言葉があるが、
その昔、形から入って学ぶことで身に付けさせたい考え方というものが、
親にはあったのだな、と思う。
知ることでものおじしないこと、人との交わり方で礼を身につけること、
所作の丁寧さで中身のガサツさも隠せること、
美しいものと触れ合うことで懐の幅をひろげること。
それだけ女性性は現実的で、繊細からほど遠いと、
昔々から共通の認識として、親に知られているのではないだろうか。
その場に立っているだけで明るさを振りまいているような、
苦労も涙も隠して、穏やかな安心感を人に感じさせてくれるような、
自分を語るのではなく、希望を語るような、
そんな人が国のトップになってほしい。
人は見た目が9割であると本当に思う。
それは決して美醜の問題ではない。
だけど彼は、あの彼は、眼差しは母性本能をくすぐるほど暗い。
めっちゃ暗いんだけど。