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個人主義と自己愛主義
25才の若さで即位したエリザベス2世を軸に、
イギリス王室を描いたドラマ「ザ・クラウン」を見終えた。
リバティプリントが好きなので、
女王のワンピースやブラウスの柄に見とれて、ため息をつく。
海外ドラマを見るのは趣味のひとつだ。
大抵の登場人物は、分かりやすく言うと、だが、
日本人たる私の感覚から見ると、わがままな人が多くて面白い。
そういう少しのズレのような部分を興味深く見てしまうのだけれど、
「ザ・クラウン」は、これに「君主制」の階級社会のあれこれも加わる。
同じ西側社会とはいえ、東洋と西洋の隔たりは大きいように思う。
エリザベス2世の母方に、精神遅滞のいとこが何人かいて、
存在を消されていたことを知った時に、
「ウィンザー家の遺伝子を疑われる」という理由にドキッとする。
支配家が変わればその痕跡を残すものはなかったことにされる。
中国もそうだし、大抵の国々はそうだ。
「存在の抹殺」は重要なことだという社会が過去にあった。
「君臨すれども統治せず」は絶対的権威が必要なのだろう。
いっぽう、庶民にも通ずる一子相伝という言葉がある通り、
この国では古来より役割を受け継いできただけで、
Y遺伝子がどうのという話も散見するが、
役割を果たせるものとしての、資質が大事なのではないかと思う。
役割を受け止めてきた血、とでもいうべきか。
本来の天皇がいるべき御所は、お濠も石垣もなく、食に難儀した時代は、京都の民から、差し入れをされてしのいだと読んだことがある。
集団的な共通意識が薄く敷かれたベースがあって、
知らず知らずに、その認識に溶け込んで暮らしている気がする。
その阿吽の呼吸とも言うべきの、心平らかである安心感があるからこそ、
日本人はどの国の人よりも個人主義が好まれているのではないか、
どの国の人よりも個人主義者が多いのではないか、という気がしていた。
孤独やこだわりを楽しんでいるといってもいいと思う。
そうでなければ100年だの200年だのの老舗は生まれないと思う。
西洋は個人主義に見えて、言うならば、
自己愛主義の言葉の方がぴったりくるのではないだろうか。
ドラマの中では、たとえば結婚の継続について、
チャールズ皇太子もダイアナ妃もどの王族も、
自分の事情のことだけに夢中だ。
最後のシーンでは女王陛下の王配のエディンバラ公が、
ウエストミンスター寺院で床を指し、エリザベス女王に語る。
「ここに入ってしまえば外の騒ぎは聞こえない」
亡くなったあとは、我々の責任ではないということだ。
変化していく世の中に、イギリス王室の存在価値というものが
揺らいでいるのでは、と、心惑わせているシーンから続く。
しかし、そのゆらぎの原因は世界情勢や国民ではなく、
それぞれの時代ごとにつながるべき共通の意識を、
王族が受け継ぐことが難しかったからだと思う。
高い山の頂で、この世界の中心に立つ人。
裾野の大勢の人々を見おろす階級社会。
尊厳は自分自身に中に見つけようとする。
平坦な場所でただ点が集まるだけで、
中心はどこにもなく、おそらくはどこにでもある。
そういう個人主義者の集まりが、まあるい円の世界を描くような気がする。
雑種となる以外に、どこかにこの交わりを見つけられないのだろうか。
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