![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/149562693/rectangle_large_type_2_b2ba880f7201beb7c3a0cd817d44f632.jpeg?width=1200)
鬼と仏
鬼手仏心
昔の上司がしばしば使っていた言葉です。
「きしゅぶっしん」と読むものと思います。
心を鬼にして、といった使い方もされる「鬼」ですが、しつけ、教育、指導とかには必要な要素と思います。
仏様の慈しみの心を持ち、あえて鬼の手で苦言を呈すこと、ゆくゆくは相手の力になるために必要なプロセスです。
誉めて伸ばす、ロジカルに理解してもらう、といった方法が主流になっている気もします。
そこに鬼手はなく、受け取り側にはインパクトは少なく、心に刻まれるような心得や信条がもたらされるのか、ちょいと疑問です。
鬼手は、事情はどうあれハラスメントと断じられそうな風潮もありますし。
マスコミがよく使われる切り取り報道も、仏心を伝えずに鬼手だけを伝えるやり方が、世間の誤解を招いているケースって、意外と多いのではなかろうかと感じます。
子どもから部分的に報告を受けた親が激昂して、学校にクレームを入れるとか。
マスコミであれ、当事者であれ、あえてミスリードさせる思惑が、そんな介入に至るケースもあるんだろうな。
個人的には、そのやり方(やり口)は武士道に反すると思いますけどね。
良薬は口に苦し、と言いますが、時には苦い何かも人には必要なんじゃなかろうかと、過剰な配慮やサービスを求めがちな、過保護かもしれない現代に生きていて、しばし思うのです。
世間的には甘ちゃんであろう僕でさえも。