仕事に詰んだら_ヨガへ行こうのコピー

所詮、他人事

「あんたに迷惑かけないように、私でどうにかオチをつけるから」
そう言い残し、叔母は足早に電話を切った。

「墓じまい」「法事」「義理関係」

子どものころは分からなかった「義理」という関係。
私にとってはどっちのおじいちゃんもおばあちゃんも義理ではないし、叔父も叔母も義理ではない。

私が21歳になる前に父は亡くなった。10年の歳月が経った。母にとっては義理の母と妹との関係にこの10年悩んでいたのだろうと、2か月前に亡くなった祖母のお葬式の時にふと感じた。

叔母の話しを少しばかし。
叔母は独身で子どもがいない。癌患者でありながら一人で生活をしている。なぜか祖母のことを「あんた」と呼んでいた。決して結婚の話しはさせないピンと張り詰めた空気感。去年の春頃から少し足腰の弱った祖母に、心配はするけど「甘え」や「弱気になっているだけ」と叱咤激励。
「これで筋力を鍛えなさい」と与えるだけの健康器具。電話の受話器があがっていて心配してかけつけ、翌週に持たされたiPhone。そこにはいつも「友人」というMさんという男性がいること。
「彼氏」とは決して言わない、10年来の付き合いのMさん。祖母の通院に1人で付き添ったと聞いた時は「おいおい、家族でもない人が病状を聞くのはNGなんだけど」と元病院の相談員として思う。

情緒的な繋がりを求めていない叔母にいつもどこか寂しさを感じていた祖母。

祖母の話しを少しばかし。
15年前に夫(私の祖父)、10年前に息子(私の父)を見送り亡くなるまで1人暮らしを続けた祖母。亡くなる3か月前に介護保険を申請して1か月半だけヘルパーや訪問看護を利用。編み物が大好きで料理が得意。おしゃれな祖母でべっぴんさんだった。
「あの子は仕事しないとダメだから」病室でもしきりにその話をしていた。

「ミーハーな人」と紹介された祖母のお葬式

祖母のお葬式でお坊さんが故人の人柄を話す時「ミーハーな人で…」と喋りだした時、こんな最期の場所の一言目にミーハーと言われた祖母のことを「そんなことないよ。皆の事を気にしてたんだもんね。」と心の中で偲んだ。決して人のことを面白おかしく言う祖母ではない。少なくとも孫の私にはそう見えていた。

叔母からの聞き取りだけのようなので、このような紹介になったのだろう。しかしどうしてだろうか。なぜ最期の時に…という思いを2か月半たった今もよく分からないままにいる。

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労いは無意味なのか

「大変だったね」「辛かったね」「頑張ったね」「これからどうしようかな」「心配だね」「何ができるかな」

そういった情緒的な繋がりや労いの言葉を無意味と捉えるのはどうしてだろうかと考える。

自分の問いかけに明確な答え「しか」求めないのは「効率的」だからだろうか。労いの言葉は時間の無駄なのか。

叔母は労いの言葉を突っぱねる。つまり、受け取らない。
こちらが投げかけるだけ「無駄」だと思うようになってから会話はなくなった。

必要最低限の「情報」のみのやり取り。

私はここに苦しさを感じていた。そしてその苦しさをもっと感じていたのは母である。義理の関係だから聞けないと長らく悩んでいた。義理の母がいてこその義理の妹との繋がりだったこと。

四十九日を境にきっと交流はなくなる

四十九日はあいにく悪天候で私は参列できなかった。四十九日の法要にあたり気が乗らなかった。余裕をもって日取りの設定がされておらず、結局都合が悪い日に設定されたからだ。

結局「情報のみ」のやり取りだから、こうなる。

祖母のために…と母からも言われ、いろんなことを飲み込んで納得させて挑もうとした。

叔母に直接会って今後のお墓の維持管理のことや果ては墓じまいのこと、お金を残しておいてくれないと困ること。全部直接会って言おうと思っていた。

ほぼ、母からの願いでもあった。義理の関係の自分は言えない、自分が墓に入ったあとの話しだから。としきりに言っていた。
母を安心させるためにも、ここは唯一、血縁関係にある私が言うしかないと思っていた。

しかし、血縁があっても話しは難航する。触れられたくない話題となっていることほど、人は逃げるし他人事だ。

所詮、他人事となるのは防衛反応なのか?
傷つけようとしていないことを伝えるために情緒的な話をすることすらできないのであれば、もうこれは「おじゃん」ということ。

「あんたに迷惑かけないように、私でどうにかオチをつけるから」
足早に電話を切りたかったのは、必要な情報を伝えたからであろう。
私を不安にさせないためではない。
自分がこれ以上突っ込まれた話をされたくないからだろう。

誰もが不慣れだし、誰もが初めてなことばかり

人が生まれる時も誰しも初めての経験だし、人が亡くなる時も誰しも初めてなことがある。

しかも当事者となる、主体的に自分が動かなければいけないという場合となって初めて分かることなんて多々ある。

妊婦になって初めて妊婦のしんどさが分かる。それも1回目と2回目で違うこともある。

親を亡くして初めてお葬式の段取りが分かる。少なくとも喪主となるのは1回?2回?自分が生まれた順番や結婚の有無によってそれも変わる。

私はどうしても、情報だけのやりとりが苦手だと分かった。分からないなりにでも力になりたいという気持ちがどうしてもある。

そこには諦めきれない何かがある。
困っているであろう人に手を差し伸べることを、情緒的な言葉をかけることを「しなかった自分に後悔をしたくない」

この気持ちはきっと「情報だけがほしい人」には理解不能なのだろう。

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所詮、誰しも他人事。だからこそ自分がしっかりしないといけない

自分が情緒的な繋がりを重んじるからといって、自分がそうされるとは限らない。一方通行であっても「いい」という覚悟が必要。

一方通行でもいいと思える関係性はそんなに多くない。人は案外、脆い。だから大切にしないといけない、それは自分もそうである。

自分自身が想うことが必ずしも相手が「想ってくれてありがとう」にはならないことを、どこかで納得しよう。そして無理して付き合うのはやめよう。

情緒的な繋がりを重んじる時、実は自分自身のメンタルが弱っている時だということも分かった。仕事のこと、育児のこと、夫婦関係のこと、実家のこと…。自分だけじゃ荷が重いと思う時、誰かの言葉が欲しくなる。客観的な意見が欲しいのと、解決しないことへの辛さや苦しさの共有をしたいのは「甘え」だとは私は思わない。

母親でも妻でもない、個としての自分が「寂しい」「どうすればいいのか聞いてほしい」とシクシク泣いている時、そっと寄り添えるのはやっぱり自分であるということ。その自分も時に厳しいことをしてしまう。そしてメンタルが崩壊してしまった過去の自分がいる。
いつも誰かがいるわけではない、それは家族がいてもそう。

所詮、他人事

これは同化をさせないために必要な言葉なのかもしれない。冷たいようで実は現実的な距離感を取るための目覚まし的な存在。
時に、自分が相手以上に問題にのめり込んでいる時もこの言葉は言えるのだろう。

誰もが敵に見えてしまう時、夫や妻、父や母、姉や兄、妹や弟、そして子どもまでも。誰もが自分の悩みに「距離感」を感じた時はこの言葉を思い出してほしい。

そして自分だけが自分を守ってあげられる存在であること、自分だけには嘘をつかないようにしたい。

自分の想いの着地「点」を見つける

どうなりたいのか、どうしたいのか。そこに集中する。「面」となって考えるから、あれこれ欲張ってしまう。

「行きたい」のか「行きたくない」のか。
ここに他人を介さないのはすごく難しい。例えば「聞いてほしい」のか「聞かないでほしい」のかとなると「相手という他人」が存在するから。

自分だけの感情に向き合う時、他人はどうでもいい。環境もどうにでもなる。あなたがどうしたいのかを知ることはすごく難しいけれど、無視はすべきではない。今のあなたはとても大切な存在だから。これを読んでくれた人のとって、私は誰か知らない人。そんな人に言われて気持ち悪いかもしれない、本当にそんな風に言ってほしいのは家族だったり恋人だったり自分が大切に思う人だというのも痛いほど分かる。

でも、その人たちから受け取れない寂しさを「ないもの」にしないでほしい。ロボットじゃないから「私のことが大事だと言え!」ではない。

我慢しなくてもいい。違う環境に身を置くことを「絶対にありえない」なんて思わないでいい。
今いる環境から離れることが悪だと思わなくていい。

どこかで情緒的な繋がりを求めたい時、人はとても脆い。だからこそ自分の感性や思いを止めてはいけない。
今あなたを寂しい思いや苦しい思いをさせている、本当の出来事は何なのか。そして落ち着くための「点」はどんな思いなのか。

宗教じみたことを言っているなと自分でも思う。でもこういった心の揺れ動きに、宗教は大きな味方でいてくれるから、何千年も前から廃れずに存在をしている。そして今もなお、勢力がある。SNSが発達しようが、機械がたくさんできようが、人の心は今も昔も「脆い」ことに変わりはないんだろう。

私の想いはどこへ向かっていくのだろう。

そんな中で日常は回る。どうかあなたが自分なりの「点」を見つけられますように。






純粋にありがとうございます。いいんですか?