眠ったら朝が来てしまって、朝が来たら身支度をして学校に行かなきゃいけない。 いっぱい寝たいよー
作品を渡したりするとき「将来ビッグになったらこの作品が、 」とかいう話の流れがよくある。 これに自分はなんだかなあと思う節があって、 そもそもビッグってなんなんだと思うし、まず有名であることが良いこととは限らない。 大抵はフォロワーいいねが多いとかそういう現代の名声的なものに惹かれてるんだと思うけど。 作品における将来的な価値を感じてほしいんじゃなくて、外的な評価をシャットアウトできる目を持ってその作品と対話してほしい。 そこにそれぞれの価値を感じてほしいと思う。
自分が知らない世界で生きている人と、自分の頭で理解できない範囲の恋がしたい。 行き先のわからない乗り物に乗って、長く眠りにつきたい。
高校の美術の先生は、自分の人生を大きく変えてくれた。これから先の長い道のりをまだ歩まなくともそこで大きく変わったと断言できるし、既に実感もしている。 模試や定期試験で数学の試験を終えた後、自分の周りでは数学ができる人同士で答え合わせがほぼ毎回行われていた。これは中学生の頃から、いや中学受験で塾に通っていた頃 - 算数時代から周りで起こっていた。 当然だがその場では数学ができる人たちが集まり、数学ができない人たちは集まらない。要するに、その場では数学ができる人たちのみ需要が発
食べ物には賞味期限がある。 それは他の物事に対しても同じだ。歳をとる限り、時間という概念が存在する限りそれがなくなることはない。 人は常に多層なイベントの狭間を生きている。 ◾︎ 学校に行く。仕事に行く。趣味を嗜む。創作をする。課題を消化する。試験の勉強をする。 ◾︎ あの人との予定、準備、片付け。 ◾︎ 勇気を出す。悲しみを堪える。発散する。 ◾︎ 心配、安堵、衝動。 全てのイベント、感情、関係性に期限がある。 ◾︎ あの時の感情で作りたい作品は、もう作れない。 ◾︎
空は綺麗だ。 毎日、毎秒色を変える。 もし今見えている空が昔はずっと真っ黒だったとして、アップデートで今の空が天に映るようになったのなら、その瞬間誰もが感動するんじゃないかと思う。
去年、飼っていたハムが死んだ。 自分は予備校から帰宅してる途中だったが、その瞬間に立ち会った妹と母は死を迎えるハムを見て、とても苦しそうだったと言う。 ハムは生涯二年半、我が家の中で過ごした。外の世界を全くもって知らないまま。 ハムはなにかやり残したことが - 自分がしてあげられることはあっただろうか。 ハムが生涯食べたことのある食べ物より好きな食べ物が人間の世界にはあったと思う。 それが例えハムにとって健康的に毒であっても、自分はそれを食べさせてあげたかった。 毎晩
スーパーマリオが前面に大きく印刷されているTシャツを着てる子供を見て、いいな〜と思った。 あの頃は周りの目も気にせず、自分の好きなものを好きなように身に纏えたと思う。 今これにハマってるんですよと言わんばかりに。 いつだったか - なにか好きなものを全面に出していいんだろうか、と思う時期を迎えた。 これを表に出したらどう見られるのか、関係性 / 立ち位置が変わってしまうのか、とか。 まだそんな時期を迎えていないスーパーマリオの少年に、これからもそのままでいてほしいと思う
人は他人をみるとき、自分が気にしている箇所〈評価ポイント〉を他人に当てはめる。 学歴で生きている人なら人を学歴で見ているし、ファッションで生きている人なら人をファッションで見ている。 これは時の流れ(年齢や時代)によって思想が変容していく。 受験生は当然、自分がどこ大学にいくかを気にしている。そのとき自分もまた他人を学歴で見ていくようになる。大人なら先生や親、友達なら模試の結果などを見て、その人の価値を決定する。 大学生になると、バイトをしているのか、免許を持っているの
ぬいぐるみが好き。 生きてないペットみたいな感覚なんだと思う。 全てを肯定してくれる。 どんな状態の自分でも受け入れてくれている。もしこの相手がぬいぐるみじゃなくて誰かだったのなら、その人に嫌われているかもしれない。 ぬいぐるみをいっぱい持ってたら、ぬいぐるみを欲したら、「男の子でしょ?」ってよく言われたことを覚えている。今でも、ぬいぐるみを欲するときそこそこな頻度で思い出す。 それに対して、だからなんだよと思えるようになったのは高校生くらいだったと思う。 別にいいじゃな
お菓子ください
一定のレベルを超えハズれた作品は、人々に理解されない。それはすごすぎて分からないとかではなく、すごいかどうかの基準に触れることもない。 世でバズっている=広く知れ渡っている作品は、みんなが理解するから広まっていくものである。 高度な言語を喋っても、高度な言語を聞き取れる人にしか届かない。 何周も何十周も何億周も回って辿り着いた地で得た言語はそこに辿り着いた人同士でしか使うことはできない。 理解されようとして、磨いたセンスにまた錆を塗り込んでいく。
アートからは程遠いところにいる友達は、カラフルな抽象画を見て「何がすごいの?」と質問してくる。別にけなそうとしている感じでもなく、ちょっと理解しようとはしているのかただ疑問な感じで。 実際その友達にそれを説明するのは、理解してもらうのは難しいと思う。なぜならその友達は絵を描かないし、普段作品に触れていないから。 その世界にいる人のすごさとか魅力は、自分がちょっとでもその世界に入らないと理解できない。カラフルなだけに見える抽象画も、自分で描いてみたら分かる。そんなに上手くいか
てきとうな創作を繰り返す。 自分でも理解しないままの純度で、文章を書いて、写真を撮って、絵を描いて。 いつしかそれがどこかで繋がっていくことを期待する。意味がないとか、そんなことしてて暇なの?みたいなことが今に繋がっていることを実感するときがあるから。それに多分、今の自分の幸せを形作ってるのは、そういう雑多な過去の断片だと思っている。 そういえば絵画のおばちゃんにも言われた。直近で役に立つと思って物事を始めなくてもいいと。10年後とかにそういう、いらないと思ってたことが効
ねむいんだけど寝たくないというか。 雨が降ってるんだけど窓を開けてる。 季節の変わり目、ちょっとさむいくらいの空気で部屋を満たして、毛布を被ってねむりにつく。
いつものように、妹は寝落ちした。ついたままの電気を消してあげた。母はまだ起きてるかわかんない。餅と卵焼きに醤油をかけて食べた、22:30くらいに。 明日は映画を見たあと、夜行バスに乗って遠くの遊園地へ行くから今は気分がよい。8時間も座ってられるかね。 それにしてもいつも思うが、自分のベッドは居心地が良すぎる。旅行に行くとさらに思う。自分の部屋のベッドで過ごせる時間が幸せだなぁって。今は設計課題にも追われていないし、気が病んでもいない。幸せを堪能するべし。 そして今降って