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ミュージアム通い、初めての外国、運命の出会い。

♦︎museum - 博物館、美術館、記念館など

美術館や博物館といった、ミュージアムと呼ばれる場所によく行く。とりわけ美術館には、毎年何度も足を運ぶ。
私が持つ芸術や歴史に関する知識など微々たるもので、世の知識人には遠く及ばないし、作品を作る技術もないと思う。
そんな私がミュージアムに通うようになったきっかけと、それをやめらない理由を、書いてみようと思う。

 ♦︎きっかけ

美術館や博物館に行くことが趣味になったのは、中学生の頃。正確には、趣味にしたいと意気込んだのが、中学生の頃。

・美術鑑賞を楽しめる人になりたい。
・評価されるものの良さが分かる人になりたい。
・子供の頃に美術館でよく遊んでいたのに(外の広場や工作室で)、母が折角そういう空間に連れていってくれていたのに、成長してから疎遠になっているのはなんだか勿体ない。
・素晴らしいものを1,000円台で見ることができるのだから、尚更勿体ない。
・知らない芸術に触れて感性が育ったら、ピアノ演奏にも反映できるかもしれない(この頃は毎日ピアノを弾いていた)。

そして、

・人の目を気にせず、1人でも楽しめる趣味がほしい。

自力で遠くに出かけることが難しい中学生でも、現実から逃れられる場所を欲していた。


そういうわけで、ミュージアムに足を運ぶようになった。

ミュージアムに行くと、知識欲が刺激されて、そして満たされた。
美しいものを見ると、ときめきと安らぎを得られた。
静かな空間が、日常から自分を守ってくれている気がして、ほっとした。

最初は、この絵はどう見たらいいんだ…?という戸惑いが勝っていたように思う。でも段々と、作品を見て自分の中に起こる感覚を楽しめるようになった。家に飾るならこれだな、といったライトな感覚が多かったけど。
やがて、作品を前にした時の自分の感覚で、自分の状態を確認することができるようになった。作品を見ることで、自分を客観視したり、自分と対話したり、そういうことができるようになってきた。と思う。

これだけでもミュージアムに通い続ける理由には十分なのだが。

忘れもしない。中学2年生が終わろうとしていた頃だ。私は初めて飛行機に乗って初めて外国に行った。その国のミュージアムで、ある作品との出会いがあった。

冬の終わりが近づくドイツ・ベルリンの博物館島で、『ネフェルティティの胸像』と出会った。この出会いが、私をより一層、ミュージアム通いへと駆り立てた。あれから10年以上経つけれど、今でもあの時の光景と感覚を覚えている。

♦︎『ネフェルティティの胸像』

その時の私は『ネフェルティティの胸像』を知らなかった。
一緒にいた友人が、お母さんから必ず見てくるようにと言われたそうで、それを聞いて、なんかすごいものがあるんだな、ということだけは知っていた。でも、まさか魅了されるとは思ってもみなかったし、あんな体験をすることになろうとは、知る由もなかった。

新博物館が再オープンする前で、ペルガモン博物館の2階に展示されていたと記憶している。(でもWikipediaによれば旧博物館に保管されていた時期らしい。ペルガモン博物館の特別展だったのか、私の記憶違いなのか)

長方形の展示室だったと思う。飾られた展示品を手前から順番に見て行った。そうやって少し進んだ時、通路の中央に何人か人が集まっているのが見えた。きっとあそこだ、そこにあるんだ。すごく抗い難いほどに興味を引かれたけど、頑張って順番に鑑賞を続けた。けどやっぱり抗いきれない。端から端まで何一つ見落とさずきっちり見たい派だったのだが、そのこだわりが大きく揺さぶられた。
このとき、少し飛ばして彼女の元へ行ったのか、頑張って順番に見たのかよく覚えていない。
でも、いよいよ『ネフェルティティの胸像』と対面するぞという時のことは、よく覚えている。

彼女が少し目に入った時から、目が離せなかった。彼女に近づきながら、彼女の右側から正面に周り込みながら、何度も息を呑む。呼吸がうわずっているというか、浅く吸い続けてる感じ。惹きつけられる。まるで引力でもあるみたいだった。
大きい訳でも、色彩が豊かな訳でも、煌びやかに飾られている訳でもない。それでも、圧倒された。

♦︎特別な経験

いよいよ彼女の前に進み出た時、あぁ、本物ってこういうことか!と感じた。
これは雷に打たれたかのような、衝撃的な閃きに似たもの、ではなく。身体の奥底から湧き起こりそして身体の中に居座る、大きな感動だった。まるで質量があるかのように、少し重さを感じるような。色があるとすれば黄金色だろうか。その感動が身体と心の隅々に行き渡って、私を支配した。

惹かれるのには、黄金比とか、きっと科学的な理由があるんだろうけど、そんなことはどうでも良かった。これが本物なんだと理解した。それだけで十分だった。心が十分に満たされていた。なんてすごい経験しちゃったんだろう!と思った。

制作したいもの、あるいは制作しなくてはならないものがあって、技術があって、材料も揃っていたとして。それでも、何千年も後に生きる人々が傑作と呼び、ただの中学生の心にも残る。そんな作品が出来上がることはなかなかないのではないか。そういう意味でも、すごい経験をしたなと思う。ドイツ行きの背中を押してくれた先生と、送り出してくれた家族と、作品の存在を教えてくれた友人と友人のお母さんに感謝した。

目を奪われ、胸が高鳴って、作品の存在感に圧倒される。
ネフェルティティとの出会いで得た経験ーーー私がミュージアムに行くのをやめられない最大の理由はここにある。この感覚を味わわせてくれる作品との出会いがあったらいいなと、いつも心のどこかで期待しているのだ。

♦︎個人的な感覚

このnoteを書くにあたって、当時感じたことを文字で表現してみようとしている訳だが、なかなか大変である。これまで『ネフェルティティの胸像』との出会いは何度も何度も思い出しているけれど、何ですごいと感じたのかを、ちゃんと考えていなかったのだ。だって言葉にできると思っていなかった。
私は、普段あれこれ色んなことを考えようとする割に、芸術に関しては感覚優先的なところが大きい。何か感動するものに出会った時は、自分の中でその感動を反芻して1人で悦びに浸る(文字に起こすとなかなか変態ぽい)。なので言葉で理解することを放棄している部分もある。

このnoteを書き起こしながら、私が思った「本物」って、一体どういう感覚のことなのだろうと考えはじめた。ここでいう「本物」は、「真贋」の「真」ではない。なんというか、「傑作」に近いのだと思う。

「傑作」はなんとなく、優れた技巧と表現力が評価されているもの、という認識。自分の中に傑作とは、という確固たる概念がある訳ではない。作品の何が評価されているのかは、本やテレビ等の媒体、展示品の横の解説で知る。
知識をつければ作品の凄さが分かる、作品への理解が深まる、とは思うし、もっと知識をつけたいとも思っている。
でも、知識から得た納得や驚嘆は、作品そのものから得た感動とは、必ずしもイコールじゃないことも分かっている。それに、作品から何を得るかは人それぞれだ。
学術的な評価はその学問に基づいた根拠がある。なので、学術的な評価の高いものが概ね「傑作」なんだと考えている。私は美術に通じていないので、傑作の理由はだいたいいつも自分の外にある。傑作の根拠とする学問が、私の内側にはまだ不足している。

では「本物」は?

『ネフェルティティの胸像』は、繊細でいて神々しさすら感じさせる美しさを放っていた。この時の私にはそう感じられた。
この像を見て、ネフェルティティは美貌、知性、高潔さを備えた、美しい人なのだと思った。彫刻から知性や品性を感じたと言っても良い。

私が見ているのは彫刻で、彼女そのものではない。それに、権力者の姿を模したものだから、その人をどういう人だと思わせるか、崇拝の対象としてどう魅せるかが、制作の目的の1つにあるんじゃないか。そうだとすると、多少、意図的に手が加えられているかもしれない。
そう考える冷静さも頭の片隅にあったように思う。
それでも私は、ネフェルティティは美貌だけでなく、知性や高潔さを持った人なんだなと思ったのだ。あとはもう感動に浸るだけだった。

予備知識なり作品に盛り込まれた情報なりが多ければ、その人がどんな人か、知識として知ることができる。でも、その人がどんな人かを感じ取れるかは、また別の話なのだと思う。だって私はネフェルティティについて知らなかったから。
技巧的な素晴らしさはもとより、鑑賞者に何かを感じ取らせ、圧倒させる作品。それが「傑作」を超えて、鑑賞者一人ひとりにとっての「本物」になるんじゃないかなと、今は思っている。

♦︎鑑賞を通して得るもの

「内側から輝くような美しさ」とか「美しく歳を重ねる」といったフレーズを耳にすることがあるが、それを聞いて私がイメージするのは、あの日出会った『ネフェルティティの胸像』だ。

『ネフェルティティの胸像』は名前の通り胸像であるから、装飾できる範囲が限られてる。背景はないし、手に小物を持たせることもできない。ネフェルティティその人の情報を託せる部分が少ないと思う。
それに、現在の『ネフェルティティの胸像』は本当にシンプルに見える。王妃とは思えぬ質素さすらあった。盛ってないし映えって感じでもない。でも上品で奥深い美しさがあった。ドライな感想なんて一個も浮かばなかった。すごいと思った。美しく、高潔な精神を持ち、知性があった。母性のような深い愛情も感じたかもしれない。

頭で理解するのは楽しい。作品に巧妙に隠された情報を読み取っていく面白さもある。背景を知って作品に対する理解が深まることもある。だけど、そういう作品が、感覚や感情に訴えかけてくるとは限らない。

もちろん、何を感じ取るかは人によるし、タイミングにもよると思う。その人の感性、精神状態、体調、持っている知識、経験。色んなものが影響し合って、私たちは作品から何かを受け取る。

あの時の私は、そういう色んなものが上手く噛み合っただけかもしれない。今『ネフェルティティの胸像』を見たら、全然感動しないかもしれない。技巧や科学的な理由から、頭で傑作と判断するのかもしれない。

もう1度、いや何度でも見たいと思うけど、あの時と同じほどの感動が味わえるだろうか。そう思うとちょっと怖い。あるいはまた違う何かを感じるのだろうか?それを確かめるにも、やはり何度でも見たいと思うのだ。

 ♦︎「運命の出会い」

「運命の出会い」。
私にとって『ネフェルティティの胸像』との出会いはまさにこれ。他にいい表現が思いつかない。

当時の私には、写実的だとか神秘的だとか、比較的分かりやすい美しさを感じ取れる程度の感性しか育っていなかったのだろう。古代の技術が現代に劣るとは思っていなかったが、古代の作品はどこか無骨で、美しさに魅了されることはないと思っていた。

そんな謎の上から目線というか、思考のバイアスというか、固定観念というか、そういうつまらないものを持っていた。『ネフェルティティの胸像』は、それを粉々に打ち砕き、私の感性を刺激し、私を美術鑑賞という沼に引き摺り込んだ。

『ネフェルティティの胸像』については、この出会いが十分に幸せなことなのだが、もう1つ幸せだと感じることがある。
先述の友人とは『ネフェルティティの胸像』を一緒に見たのだが、日本に帰ってきてからも、何年か経ってからも、すごかったね、見れてよかったねと話をする。当時その友人とは上手くいっていなかったのだけど、でも大切な友人だった(今も!)。大切な友人と同じ時に同じ場所で同じものを見て、今でも興奮を分かち合える。これが私にとって、すごく幸せなことなのだ。

いま(2023.1

今の私がミュージアムに行く理由は、

・美しいものを見て癒されたいから。
・何を見てどう思うか、何を美しいと感じるかを知りたいから。
・またこれによって、自分の状態を確認することができるから。(主にメンタル面の疲労具合が分かる気がする)
・知識欲が刺激されて満たされるから。
・静かで落ち着いた空間に身を置いて、ゆっくりしたいから。
・思い込みを打破したいから。

そして、

・美しさに目を奪われ、胸が高鳴る作品を、この目で見たいから。
・その場を離れ難く感じるほどに、作品に圧倒されたいから。

そんな作品との出会いをどこかで期待しながら、私はミュージアムへ行く。

雑誌やテレビ、ネット等で「何これすごい!」「好き!」「見てみたい!」と思った作品をミュージアムで実際に目にしたとき、ネフェルティティのときに近い感動を得ることがある。ミュージアムで初めて知った作品と良い出会いがあった時もまた、近い感動を得られる。でもいまだネフェルティティを超える感動には出会えていない。いつか出会える日が来るだろうか。

不思議なことだが、あんなに感動したネフェルティティは、媒体を介して見ると全く心が動かないのだ。

実際にこの目で見ないと感動を味わえない。
きっと、そういう作品が沢山あるのだろう。その可能性に希望を感じる。

ネットで様々な作品に出会える現代だけど、直接この目で見ることの自分なりの価値を14歳で得られたことは、有難いことだと思っている。

 ♦︎最後に

このnoteは何度も書いては消し、試行錯誤して書きました。溢れる感動を文章化するのが難しく、読みにくい部分が多々あると思います。
また、ドイツで撮った写真データが手元にないため、写真を載せることができず、大量の文字で埋めた形になりました(冒頭の画像は国立西洋美術館です)。
そんな読みにくいnoteでしたが、ここまで読んでいただきありがとうございます!
私はこれからもミュージアムに通うと思います。
2023年が始まってまだ1週間ですが、すでに2回行っています。
それでは!🏃‍♀️


fin.

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