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寓話 『 白い手袋 』
「 ねえ明日って、お祖父ちゃんの誕生日よ。」
「 それを言うなら命日でしょう。」
「 どっちだっていいだろう。同じ日に生まれて死んだんだから。」
土曜のランチにお肉と野菜のサラダとリゾットの大皿を囲みながら、白い手袋を思い出した私は切り出し、母が応じ、父が応えた。
我が家はどんな記念日にももう、お祝いというものをしたりはしないのだが、お祖父ちゃんが生まれて死んだ日の前夜には、何となく厳かにご飯を食べる。
このお祖父ちゃんとは父の父で、絵に描いたような頑固者のレンガ職人、というかレンガのような人だった。手は角張ってザラザラしていて、声も言葉もそうだった。私は小さい頃、そんなお祖父ちゃんにはあまり近寄らず、だから記憶も殆どない。お祖父ちゃんについて覚えているのは、白い手袋と、あと、訃報を聞いた父が怒ったり泣いたりした後にぐったりしていたこと、それと、ホスピスのベッドに横たわるお祖父ちゃんの冷たさと柔らかさ。ひんやりと溶けたラムネの瓶のような静けさを、私はよく覚えている。
父はレンガのような人ではなかったが、どこか角張りざらついてはいた。小さい頃の私はそれをどうしてだろうと不思議に思っていたけれど、お祖父ちゃんの人となりを人から聞いていく内に納得し、私の理解は落ち着いた。だから私はよく自分の声と言葉に耳を傾ける。レンガのように砕けそうでいないか、鼓膜とこころでチェックしている。
そうして毎日を過ごしていると、ふと白い手袋が目に浮かぶ日がやって来る。お祖父ちゃん家の埃の積もった屋根裏に、ピカピカのクラリネットが立ててあって、その頭に、真っ白な手袋が掛かっている。その翌日にお祖父ちゃんは生まれて死ぬのだ。
この日が来ると何かが一回、回ったような気がする。それは私の一年なのかお祖父ちゃんの一生なのか我が家の一年なのかは分からないが、ふと白い手袋を思い出したなら、「ねえ明日って」と私は切り出さざる負えない。これを私は義務のように感じている。
ちなみに、その白い手袋はもう無い。最期にホスピスに移るとき、お婆ちゃんは死んでしまっていたし、なによりお祖父ちゃんが頑として希望したから、お祖父ちゃん家は土地ごと売り払われてしまったのだ。お父さんはそれを円滑に処理した。クラリネットはどこかに消えていた。少なくとも我が家で見たことはない。それ以上のことを私は知らず、それ以上のことを父も母も話さない。だから白い手袋の記憶は、私とお祖父ちゃんを、というより私達を繋ぐ楔みたいなものだと思う。
その日の晩、ラザニアを食べながら私はふと、
「 白い手袋ってやっぱりもう無いの?」
と言った。母はもちろん父も反応をせず、というより何のことか分からないらしかった。
「 白い手袋よ。お祖父ちゃん家の屋根裏に、クラリネットの上に掛けてあった。」
私は恐る恐る話を進めた。血が手足から引いていき、世界が冷たくなっていくような気がした。私はこれからどうなるか知っている気がした。
父が応えた。
「何を言っているんだ。お前はお祖父ちゃん家に行ったことはないじゃないか。」
「でも、お祖父ちゃんのクラリネットに、」
「 お前がお祖父ちゃんに初めて会った時にはもう、お祖父ちゃんはホスピスに長く居て、お祖父ちゃん家も人の手に渡っていた。それにもうその時には言葉を話せなくなっていたよ。白い手袋は知らないが、クラリネットのこと、誰に聞いたんだ?」
「 あなたじゃないの。」
「 いや絶対に俺じゃない。」
父母の会話を背景に私の意識はフェードアウトしていった。だから恐かったんだ。私はお祖父ちゃんを知らない。お祖父ちゃん家だって知らない。声だって聞いたことない。覚えているのはお祖父ちゃんの死と沈黙と、それと白い手袋。でも白い手袋なんて見たこともない。
我に返って私は喰い下がった。
「 いや、お父さんが私に話したの。白い手袋。」
「 だから俺は知らないよ。そんなもの。」
「 何をムキになっているのあなた達。」
「 知らないんだ?」
「 知らないんだ!」
私は怒っていて悲しかった。誰も白い手袋を知らないなんて。知るはずもない私以外には知らないなんて。これじゃああんまりだ。私はお祖父ちゃんのために初めて泣いた。怒りと悲しみがぐるぐるした。足元が崩れていく音がした。ガラガラガラガラ。
ああ来年はどうしたらいいのだろう。いや来年までどうしたらいいのだろう。何によって何を思い出せばいいのだろう。何によって何を記憶していけばいいのだろう。どこまでも進んでいく疑問と軽さに耐えられず、私は目を閉じ眠りに落ちた。
目を覚ましたのは夜中だった。ラザニアはまだお腹の中にある。隣の部屋からは話し声が聞こえる。サラサラと途切れるような声が砂のように聞こえる。父が誰かと喋っている。
私はベッドからそっと足を下ろし、音のないように立ち上がり、扉を開け、風のように父の部屋へと入っていった。そうしなければならないことを夢で見ていた。
父は父と話していた。カセットテープから流れてくる自分の声と話していた。相槌を打ったり、頷いたり、応えたりしていた。
私はそのカセットテープを知っていた。それはお祖父ちゃんが死んだ日に、怒ったり泣いたりした後ぐったりしながら父が、自室の椅子に沈みながら自らの父の全てのことを、回顧しつつ吹き込んだものだった。
自分の父がどこでどのように生まれ、どのように育ち、どのように出会い、どのように別れ、何を目指し志し、そしてどのように挫折したのか。なぜ子を設けたのか。どれほど子を受け入れ、どれほど子を拒んだのか。最期に子をどのように感じ、触れ合おうとしていたのか。
私はそれを聞いたことがあるのだ。いつだったかは分からない。何回かも覚えていない。父と一緒に聞いたのか、父の目を盗んで聞いたのか、それとも父が吹き込んだ夜に、私もその部屋に居たのか、隣の部屋から耳をそばだてたのか、覚えていない。残った記憶は白い手袋だけだった。
カセットテープは一周し、二周し、何周もした。私達は永遠に聴き、そのイメージを吹き込み続けた。
父のサラサラとした砂のような声が回り続ける。お祖父ちゃんは腕のいいクラリネット奏者だった。軍楽隊に所属していて、音楽で暮らしていた。いつかお婆ちゃんと出会いそして父が生まれ、お祖父ちゃんはレンガ職人になった。そして死ぬまでレンガを作り続け、レンガのようになりながら死ぬ頃には、言葉を話さなくなっていた。
カセットテープのどこにも白い手袋は出てこない。埃の積もった屋根裏も、ピカピカのクラリネットも、真っ白な手袋も出てこない。だから私は思い出した。初めてテープを聞いたとき、私の中で白い手袋が生まれたことを。最期の演奏を終えた日、屋根裏に上がり、軍楽隊の制服を脱ぎ、クラリネットを立て掛け、そこに白い手袋を置いたお祖父ちゃんのイメージを、私が作り上げたことを。そして私に焼付き、忘れられなかったことを。
カセットテープに白い手袋は出てこない。それは私達の間にある。私とテープとお祖父ちゃん、そして多分、父の間に。
気がつくと音が消え、カセットテープは終わっていた。レコーダーの淡いディスプレイライトに照らされて、父は静かに揺れている。
「 ああ思い出したよ。白い手袋。俺が生まれて。白い手袋。屋根裏にさ、錆びついたクラリネットと、黄ばんだ白い手袋が、」
父はサラサラと泣いていて、声は水のように流れていった。
私は叫んだ。
「 そうなの、白い手袋!」
私は何か大きなことに気が付きかけている。そうなのだ。白い手袋はあるのだ。私達の間にあるのだ。私達はそうしてもたれ掛かっているのだ。
お祖父ちゃん、あなたは明日、生まれて死ぬ。けれどほんとはあなたは知らない。あなたが生まれた日も、あなたが死んだ日も、あなたの白い手袋も、あなたは知らない。でも私達は知っている。あなたが生まれて死んだ日も、あなたの白い手袋も。そうしてあなたに教える。あなたは私達に生きている。
ある日の屋根裏、若き日のお祖父ちゃんが、クラリネットを立て掛け、白い手袋をまだ柔らかい両手から外そうとしている。私は上から後ろからそれを見ている。彼は私に気がついて、私をゆったりと振り向く。その顔は納得を含んだ穏やかな笑顔で、そうさ私達は生きていると、語りかけてくるような気がして、私の瞼は重くなり、いつか眠りに落ちていった。
*****
翌朝、いつもより朝ごはんが豪華だった。ハムがちょっと高いやつで、トーストはフレンチトースト。
「 お父さんが散歩の帰りに買ってきてくれたのよ。ハムとシナモン。」
「 ああ今日は、お祖父ちゃんの誕生日だからな。」
私が頷く。父も頷く。私達はもたれ合いながらぐるぐる回っていく。いつまでもいつまでも繰り返す。多分それで大丈夫だと思いながら齧りつくフレンチトーストはジューシーで、シナモンが思いのほかピリ辛い。