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金を貸し春を売る〜不安猜疑権威羞恥つまり死への恐怖から〜


不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖を陶冶できれば、滅却まで行かずとも統制できれば、多くの行為についてニュアンスそしてバリエーションが低減するだろう。例えば、金は貸されるのでなく与えられ、春も売られるのでなく与えられるだろう。またはそもそも、行為以前に物事そのものさえもが数を減らし、よりクラシックな物事へと収斂していくかもしれない。例えば、少なくとも現在の形態で存在する金銭等は、それを行為する際のニュアンスそしてバリエーションが低減されていく過程のどこかでそれそのものが姿を消しつつ他の物事へとその力を与えるかもしれない。例えば、なんだろう、今の私には分からない。

私たちは不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖を動機として、あらゆる行為についてニュアンスを生みバリエーションを増大させてきた。何らかのニュアンスを孕んだ何らかの行為のバリエーションが一定の力を獲得した時、言い換えればそれが集合を構成する人々の大多数によって行われ始めた時、それは(当人の意志が端緒として関与する、というような自意識が許されるような営みとしての)行為というものを越えて物事として成立してきた。

この記事において注力されるのは、行為や物事といった term にどのような個人的意義を与えているかを詳述すること、では決してない。私は出来るだけ通底普遍するところから自然に流れるように言葉を燻らせたい。さておき、要旨、より正直に言えばここ数年に私の頭の奥底を渦巻き続けている気づき satie と欲求 want について、ここで一度改まって記しておきたい。

気づき satie とは、

・私たちの人生・意識的時空を構成する様々な行為と物事を整理する枠組みがあるとして、その一つは以下のようなものとなるだろう。それは、行為と物事を、「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」に起因するニュアンスを加味されたバリエーションと、そのようなニュアンスから解放されたオリジナル、に分けるようなものだ、ということ、そして、

・バリエーションは増大の一途を辿っており、その圧倒的な情報量に対して破綻してしまうような(情報処理機構としての)個体が増えている一方で、ある程度の適応を獲得したような個体も生まれているということ、そしてその適応とは「死への恐怖一般を払拭して行為や物事のオリジナルに注目注力するようにする」と表現されるものである、ということだ。

そして欲求 want とは、

・ある程度の適応を開始した個体として、私は行為や物事のオリジナルのみに注力したい、いやそれを越えて、私の意識世界を original な行為や物事のみで満たしたい、ということだ。そのためには「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」を陶冶統制していくことが必要になる。強度の高い具体的実践の中で。強度の高い具体的実践の中で。強度の高い具体的実践の中で。逆から言えば私は、「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」を陶冶統制していくための、強度の高い具体的実践を行い続けていきたい。今現在の行為、具体的実践に梃入れすることになるのだろう。つまりこれは自然な流れなのだ。

さてここで一度、論旨を翻して行為や物事の発生に立ち返りたいと思う。まず持って明らかであったはずであるが、実際のところ全ての行為や物事の発生因とは「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」であり、死への恐怖に対して身動きすることこそがあらゆる行為や物事のオリジンであったはずだ。というか生命とは、いや動物とはその中でも社会的動物というか社会とは「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」で織られる敷布であったはずだ。

ではなぜ私はこの記事でその逆を言っているのか。歴史というか自然の発生過程を逆から捕まえるようなことを言っているのか。ここで言えることは、多分このプロセスは、意識というものが発生してからの歴史(惰性と変異の濁流)の、主要な進行因の、少なくとも一つであるのだと思う。つまり、

意識一般が発生する以前の歴史から、または単にある時点での意識より前の歴史から、ある行為や事柄についてその発生過程を逆から捕捉したような認識を抽出・構成・獲得しつつ「それ以後」を構成するような生の style こそが、歴史の、少なくとも変異点を形作って来たということだ、というより、私は今そう思っているということだ。

例えば後世の人々が「人民あって王あり」と言って反旗を翻し革命を成すようなことだ。しかし本当の実際としては、少なくとも意識的なレベルでは王こそが人民に先行している。(囲い込まれる者は囲われるまで気がつかない。むしろそれが囲われる資質である。)他には何だろう、独占と共有といった事柄についてもそう言えるかもしれない。ここまで言ったことを穏当に一般化すれば、original と variation についての認識が温存されているものもあれば、ある時点から逆転しているものもあり、そしてこの認識の逆転こそが人間の歴史に(意識的な)転換をもたらしてきたということだ。

と、言うことは、私がこの記事において最も積極的に主張している内容とは、次のように(再)構成されることになるだろう。いつもながら書きながら思考してしまった。紙の日記とは違って telling する相手となる他者を、どこかにマイルドに想いながら。現在より後のどの地点かは分からないが、人間は「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」という origin から解放されつつ逆転され、どこかに着地してどちからかを向いてまた進んで行くのだろう。あまりにも一般的となった最終論旨を下支えするより具体的な事柄としては、金も春もただ与えられるようになるだろう、その過程で金という物事そのものが変異しているだろう、そして勿論、春に人々が与えるニュアンス、人々が孕む春へのイマージュは大きく変異しているだろう。補足しておくが、ここで金と春とは、歴史の展開に際して最も大きな転換をもたらす起点となる物事として挙げている。価値と性愛という風に並べ直すこともできる。

ここで手放すように記事を終わらせてもいいがもう少し蛇足してみようか。じゃあなぜ私は今現在に至るまでに、このような認識を発達させたのか。言い換えれば、平均という概念が示す地点から離れて、「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」から解放されているような言動をしているのか。シンプルに考えて以下のような背景があり得るだろう。

・「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」を加算醸成するような育成環境になかった。つまり、飢餓貧困や戦争虐待と言った事象に見舞われなかったから。

・上記のような環境で生育しながらも、「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」を払拭し切れず、そのようなギャップを意識していて、そして加えて、そもそも持って生まれた感性からして「不安、猜疑、権威、羞恥、総じて死への恐怖」を莫大に感じて来たため、これをやはり払拭する必要性もまた莫大に感じている、から。

・人々や物事への観察眼が細かく広かったため、人々や物事が何に捕われているか、つまり人々や物事の意外性や流動性を低減している要因は何かが、透かし絵のように見えていたから。

・生まれつき前頭葉らへんが(相対的に)発達していたから。

恐らくは上記の全てと、上記の全てが絡み合って出来上がる何かこそが、私にこの記事を書かせている動因なのだろう。さて、自己言及に立ち返り続けたこの記事の終わりに、他者や「ここではないどこか」へと私を続かせるような事柄、それでこれから何をするのかを記しておこうと思う。

・Lakukan pekerjaan yang Anda lakukan di tempat yang berbeda dan dengan nama asli Anda.
・Valójában játssz egy meccset, hogy megszerezd a dominanciát és megteremtsd a nevelést.
・Fumana kwaye ukhuthaze isikhundla njengomthengisi kunye nokuhamba ukusuka kuso. Njengoqheliselo lwexeshana elifutshane, nika ingqokelela yemibongo kwiimbongi neemagazini.

おわり

入り組み立ち返り中途断絶しつつ分裂しながら気ままに統合した文章だけど、記憶に制限を与えずに全体の輪郭を察知するにはこうなるよ このような認識を構成してその下で実践、生活していくことが、長期的には無理なく効率的であるように思う 狭くて固い文章からは無理ある実践や生活しか生まれないから それとして伝達されやすいけど求めているのはそれじゃないよね




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