教育における「政治的中立性」とは
「教育」と「政治」、そのセンシティブな関係
教育基本法第14条によると政治教育は、「①良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。 ②法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と定義される。
教育において「政治」をどう扱うのかというのはセンシティブな問題である。
宗教教育などと同様、領域を規定した法律である本条文は、政治教育の重要性と、そこに内在する難しさを物語っていると言えよう。
また本条文は民主主義のあり方とも関連している。
これは民主主義の持つ性質と関わってくる。
民主主義はたゆまぬ努力によって初めて維持されるものである。
この観点からすると教育基本法第14条は、国民の主権者としてのあり方を問うものであると言える。
この条文については、解釈の違い・および論争が起きやすい。
その論点は、「公の性質」を持つ学校において「政治的中立性」をどのように扱うのかということである。
①・②との関係において、有倉は「②は、①に定める政治教育実施の内在的限界、もしくは前提条件を注意的に規定したほどの意味しかもちえない。」としている〔有倉:1986〕。
しかし私は、昨今の状況を思うに、②についてはさらなる検討が必要であると考える。
これは2015年の公選法改正により、選挙権の年齢が20歳から18歳にまで引き下げられたこととも関係している。
確かに、政治教育を考える際、政治的教養は尊重されなければならない。
しかし私が思うに、政治的教養というのは、一朝一夕で身に付くような性質のものではない。
法改正により、18歳の(未)青年が、制度上は選挙権を手に入れ、投票に行けるようになった。
「投票に行く」行為自体は民主主義の根幹をなすものであり、重要なことである。
しかし問題は別にある。
はたして18歳のその(未)青年は、政治的教養を身に付けていると言えるのだろうか。
私は少なくとも、「十分に」身に付けているとは言い難いと考える。
なぜなら、政治的教養というのはその個々人の生き方・考え方など「トータル的な要素の詰め合わせ」だからである。
言わば、人間にとっての「成熟」が、政治的教養と密接に結びついている。
そうであるから、①で提唱される政治的教養は、「公教育」という制限の下では、「達成する」ということはなかなか難しいであろう。
以上のことをゆえんに、私は②に焦点を絞り、話を進めていきたい。
「政治的中立性」という幻想
まず第一に確認しておきたい事項として、「純然たる政治的中立性」というものが存在するのかどうかということである。
公教育の場で教えている各教師は、個人による程度・度合いの差はあるにしろ、彼ら/彼女らの政治的信条を抱えている。
しかしながら現状の政治教育を鑑みるに、教師たちは、自らの政治的スタンスを表明することを抑制するよう強いられているように感じる。
それは「政治的中立性」という「錦の御旗」の下、ある種の思考停止状態に陥っているに近いのではないか。
先に述べたように、そもそも民主主義とは、それを守ろうとする努力によってかろうじて維持されるものである。
そうであるから、思考停止状態(つまり「政治的中立性」に囚われること)と民主主義とは、あまり噛み合わせが良いとは言えない。
なぜならば「常に考え続ける」姿勢こそが、民主主義を成立・存続させていくために必須な要件なのだからである。
現場の実状はどうであろう。
もちろん中には、「政治的中立性」という制約がありながらも、授業に工夫を取り入れ、自分なりの政治教育に力を注いでいる教師もいる。
しかし、そこにはやはり無視できない制約・条件がある。
「政治的中立性」という言葉は、しばしば客観的な中立性を帯びたものであるという解釈の下に使われる。
だがしかし、「客観性」というのは各々の「主観性の集まり」である。そうであるから、「政治的中立性」というものは時に、『「客観性」を盾にした主観の集まり』によって構成されうる。
つまり最初に提起した「純然たる政治的中立性」というものは存在しない。
このことから、「政治的中立性」を厳密に守ろうとすることが、そもそも不可能に近い営為であると言えよう。
しかし、それでもなお「政治的中立性」というものにこだわりを持ち、それを実際の公教育の場で取り入れていくとしたら、それは、有権者(ここでは18歳になった高校3年生を想定する)の生活感覚に沿ったものでなければならない。
つまり彼ら/彼女らが政治問題を自分事に引き寄せて考える「土壌」を提供するというのが、公教育における政治教育のある種の「到達点」ではないであろうか。
難しさから、目を背けてはならない
政治教育は難しい。これは疑いようのない事実である。
だからこそ私たち(および、現場の教師たち)にできることは、後に生徒が政治について考えるようになったときに、あとから振り返って、あのときの(政治)教育は意味があったと思えるようなものを提供することが、最大限「できること」なのではないのだろうか。
ドイツの政治教育を通して考える
以下に、ドイツにおける政治教育を参考にして、その望ましいあり方について検討していきたい。
日本とは異なり、ドイツでは政治教育は正規の教科である。文化や政治システムの発展に必要不可欠なものとして、政治教育は教科として独立した地位を保っている。
では、そのような教育政策はどのようなプロセスを経て可能となったのか。その過程を確認したい。
ドイツ特有の歴史事情が、ドイツにおける政治教育を要請した最大の要因である。
ドイツ国民は、ナチスの犯罪を一部の指導者に限定するのではなく、その指導者を選んだ国民自らにも責任があるということを自覚した。
負の歴史と真摯に向き合うために、民主主義的な国民を育てる教育が必要とされたのである。
もう一つの要因は、同国における政治教育が手段ではなく、それ自体が目的だったということがあげられる。
政治教育を通して、民主的であろうとする国民自らの意思を確認することを意味していたのである。
以上がドイツにおける政治教育の歴史的背景である。
そこには二度の大戦を通じて、ドイツ国民の中に内面化された、真摯に歴史と向き合う意識が感じられる。
言わばドイツにおいて政治教育は、「目的」なのである。
政治と歴史は密接不可分な要素であり、歴史的背景を抜きにしては政治を語ることはできない。
ドイツ国民はこのことを自覚し、政治教育を自らの使命とすることを引き受けたのである。
しかし現状日本において、この事実を認識している者がどれほどいるのだろうか。
政治について考える際、私たちは常にその背後に潜む文脈に目を向けなければならないのである。
ドイツの教育における「政治的中立性」
次にドイツの教育における「政治的中立性」の問題について考えたい。
やはりドイツにおいても公教育における政治教育は議論の的となる。
ここではドイツの公教育における「政治的中立性」の解釈と実践を、日本におけるそれとの比較・検討をふまえながら考察したい。
ドイツでは教師が自らの政治理念を表明することは、それが憲法に反さない限りにおいて認められる。
教師が自らの考えを率直に表明することは、生徒一人ひとりに、政治的問題についての思考を求めるものとなる。
このように、ドイツの政治教育では、「政治的中立性」という問題について比較的緩やかな解釈をしている。
意見が割れるような政治的な問題についても、それを論じる際、厳密に中立であるということは必ずしも要求されない。
ドイツにおける政治教育は、意見の多様性を前提とし、対立する意見を尊重することを意味する。
以上のことからするに、ドイツにおける政治教育は、政治教育における本質的な要素を備えているように感じられる。
広田によると政治教育は、「『対立があるから教えない』ではなく、『対立を理解させること』を目指す必要がある」〔広田:2015〕。
ドイツの政治教育は、違いを重んじるという点からしてもこのことを満たしているのではないか。
「借り物」ではない本物の模擬投票
またプラクティカルな面についても触れておきたい。政治教育を促進させるものとして「模擬投票」がある。
ドイツの模擬投票は、本格的である。実際のポスターを使い、実際の選挙と同時期に実施される。
さらには本物の投票箱まで借りてくるというのだから、その真剣さは日本における「お遊び的な」模擬投票とは色合いが異なる。
そしてドイツの、その模擬投票における「厳然たるリアリティー」こそが、生徒に民主主義の根幹となる「熟議」の技法を伝達するのである。
それでも政治教育は必要だ
最後にまとめとして、政治教育の必要性・および重要性を強調しておきたい。
種々の議論が展開されており、政治教育のやり方、またどこまでが政治教育なのかなど、考えなければならない課題は多い。
しかしその、なにがよりよい(ベターな)政治教育なのかを追求するという行為そのものが、民主主義のあり方と深く関わっているのではないのであろうか。