清水の舞台から

結婚!

ここのところ、次から次へと友人や先輩の吉報が届く。

なんとまぁ目出度い!

有り難いことに多くの友人が祝いの席に招待してくれるので、一生でたった数時間、だのに一生忘れない「結婚式」に幾度も参加させていただきました。

するとポツリ、独身の友人が「あーうらやましい、、」などとため息を落とす!私は面食らってしまう。

なぜ?

彼女には「うらやましい」結婚が、いささか私にとっては「うらやましくない」のだ、、!

いいえ、これは皮肉や妬みで言っているのではありません。

純粋にまだまだ、わたしにはやりたいことが多過ぎるのです。

「結婚」し、家庭を守るなんぞ、そんな超ハイパー重大ミッションに参加できる覚悟を、今の私は持ち合わせていない。

だから「結婚おめでとう!」と新郎新婦に拍手を贈る時はいつも、彼らの門出を祝う以上に、その壮大な旅へ出る決意をかためた、若い両名の勇気と覚悟に賛辞を送る想いで、胸がいっぱいになる。

恩着せがましく聞こえたなら申し訳ないが、二人の背中を押すような、友にエールを送るような、そんな気持ちになる。

そう、「結婚」は、築きあげた「幸せ」を守っていく終わりなき旅のようなもの、、、(ミスチル大好き)と、私には思えるのです。だってゴールはないのだから。

なにもキラキラした温かい食卓を囲む毎日を「幸せ」と呼ぶのではないでしょう。

口もきかない朝の苛立ち、子育てに疲れた妻の横顔や、気づけばおじさんになっていた旦那の寝顔の、その全てを愛していく日常。

そんな日々に散りばめられた笑顔や、温もりを、きっと「幸せ」と呼ぶのではないでしょうか。


そして続いていく日常のなか、女の人は少しずつ、ささくれを作っていくように思う。


満たされている人特有のささくれ。両手に幸せを抱えた人は、そのひとつも取りこぼすまいと、どこか一生懸命に見えます。

汗水垂らして自分と、自分以外を想って懸命に生き、家路につく電車の中、ふぅと疲労をまぶたに乗せ目を瞑る。そんな誰かの顔を見かけるたび、あぁ素敵な疲れの面影だ。と私は思う。


一方で、満たされていない人の、どこか空を仰ぐような淡い余白が、キラキラと潔く軽やかで素敵に見えるのです。

そしてまた、なにかを一度手放したあの人の強さは、魔法のように美しい。

「恋をすると美しくなる」

これもまた、恋がいつも不安定で、どこか危なげな要素を持ち合わせているためではないでしょうか。

好き、の後ろには寂しい、が隠れていて。
会いたい、の前にはさよなら、がいる。

だからきっと、不安を抱えながら逢いに行く大切な誰かの前では女の子は可愛い。
だからきっと、ひとりきりの休日にはスッピンでだらしなく終日パジャマを着ていたい。

そう、届きそうで届かないものに手を伸ばす、あなたのその姿のなんと愛おしい。

二人でいると、メイクは崩れていないだろうか、とか歯にノリがついてないだろうか、とかそんな事ばかり気になって、いざ一人になると相手の事ばかり考えてしまう。

あぁ、かわいい、かわいい矛盾!
私は心のどこか、普段触れもしないどこかが、こそばくなってしまう。


この話には結論などない。

お断りしておくがどちらが良いとか悪いとか言う話でもなければ、満たされているだとかいないだとか、そんなふうに人間をふたつにぴっちり切り分けられるものでもない。(自分で言っておいてなんだが、断じてそんな単純ではない。だから人間は愛おしい。)

ただ私は、空腹を抱え乗り込んだ普通電車の、混み合う車内のそこここに見かける素敵な疲労の面影に、お疲れ様です。と声を掛けたくてたまらないだけ。

結婚!

に向かっていく友人たちに、子を育てあげる母たちに、また家族を想う不器用な父たちに、心からの尊敬と畏怖を持って。


さぁ、晩ご飯はなんだろう。

今日も私は、自分のことばっかり考えて、何かおもしろいことを見つけようとジタバタしているのである。

覚悟もないままに奔放に生きる私もまた、終わりなき旅路を進んでいるようです。

20210304

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