おばあちゃんが死んでしまう前に、母と3人でプリクラを撮りに行った話。
おばあちゃんが死にかけている。
というと、呼吸は乱れ、意識が朦朧とし、気管血管尿道などなど管だらけになっていて、家族親族その他諸々に囲まれて「おばあちゃん!」と声をかけられている姿を連想させてしまうのかもしれない。
だけどわたしは知っている。
人は、そんなドラマや映画みたいな死に方はしない。
ある日、歩けなくなって。
ある日、食べられなくなって。
ある日、昼夜の境目がわからなくなって。
ある日、訳のわからないことを言って。
ある日、死んだおじいちゃんがそこにいると指差して。
ある日、わたしのことを忘れてしまって。
ある日、気づいた時には、おばあちゃんは死んでいるのだ。
わたしは幸い、そんな死への道標をたくさん見てきた。
だからわたしは知っている。
そんなに遠くない未来に、おばあちゃんが、ある日突然、死んでしまう可能性があることを。
もう死に片脚を突っ込んでいて、これまで通りの不自由ない生活は崩れ始めているから。
だったら。
まだ歩けるうちに。
まだ食べられるうちに。
まだよく眠れるうちに。
まだ会話が成立するうちに。
まだあの世からお迎えが来ていないうちに。
まだわたしのことを覚えているうちに。
まだ生きているうちに。
やりたいことをやっておこうと思った。
だからおばあちゃんを誘って、母と3人でプリクラを撮りに行くことにした。
ーーー
近頃おばあちゃんのお出かけというと、近所(と言ってもわたしの足でも徒歩30分かかる駅前)のスーパーまでで、電車に乗って街(おばあちゃんが梅田のことをそう呼んでいる)まで出向く機会はほとんどなかった。
残念ながら、その近所の駅前にあったラウンドワンは何年か前に潰れてしまって、プリクラなんてキラキラした機械はおばあちゃんの庭にはない。
だからよっこいせと重い腰を上げてもらって、わたしと母はおばあちゃんを街へ連れ出した。
おばあちゃんは「病院に行ったら病気になる」という感じの病院ぎらいで、今のところ特に持病の確定診断もされておらず、まだ自立生活を送れる状態で日々を生きている。
それでもここ数年、足取りが覚束無くなった。
よたよたと左右に身体が揺れて、足もしっかり持ち上がらなくて、階段は手すりがないと怖いと言う。
すっかり、老いているのだ。
わたしのおばあちゃんも、例外なく、老いているのだ。
そんなことを思いつつ、おばあちゃんの隣を歩いた。
わたしと母が、なんでプリクラにこだわるかというと、特に大した理由なんてないけれど、ただおばあちゃんとお出かけして、その記憶を記録したかったんだと思う。
写真なんて簡単に遺せる世界で、それでもわざわざ隣を歩いて、街までプリクラを撮りに行く。
ついでにいろんな話が出来るし、美味しいねっておなじものを食べられるし、要するにプリクラじゃなくてもよかったんだ。
ただ、なにか手元に、もしもの先も、わたし達が強く生きていけるようなモノが欲しかった。
それだけなんだと思う。
ーーー
これは余談なのだけど、今時のプリクラも白髪老婆を顔認証で化けさせる機能は備えていなかったらしい。
これはすごい面白い発見だなって思った。
こんなに技術が発達して、目が宇宙人みたいに大きくなったり、顎が別人並みに削げたり、勝手にキラキラのうるうるのちゅるんちゅるんにしてくれる機能が備わっているのに。
白髪老婆をの顔を認識できなかったのだ。
次は黒い帽子でも被ってもらおうかなんて、母と話してみたりする。
またそのうち、おばあちゃんが元気に生きているうちに、プリクラ撮りに行けるといいな。