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「トーベ・ヤンソンを知る」読書案内#12こぼれ話②:作家≒ヤンソンが子どもの本を書く「必要性」+私の個人的な反省
ずいぶん後回しにしてしまった、「トーベ・ヤンソンを知る」読書案内#12のこぼれ話をようやく書きます。意訳した箇所について書くつもりでしたが反省文になりました。
↓#12
↓こぼれ話①
ひとつの記事にまとめるにあたって、難しい表現をわかりやすいものに言い換えたり、省略する箇所はどうしても出てきてしまいます。エッセイ「似非児童文学作家」は、描写が感覚的で、理解したつもりですが解釈がずれていることがあるかもしれません。また、記事に書いたことが全部でもありません。まとめる上で仕方ない面もありますが、後から考えるとちょっとうまくなかったな、と思えてきたので補足しつつ反省します。
子どもの本を書く「必要性」
作家が書く「動機」「原動力」についてヤンソンはエッセイのなかで「必要性(ett behov) 」という言葉も使って説明しています。この「必要性」については私は記事のなかで触れませんでした。必要性という言葉について、ヤンソンは次のように説明しています。
必要性とは、過剰なエネルギーをやわらげる表現か、あるいは絵を描くこと――そしてそれによって失ってもうないものや実現できないことを経験を求めていることだ。
作者が書かなければならないと突き動かされる強い気持ちがあらわれていると思います。
必要性は短い記事のなかでは説明しにくいな、と思って触れなかったのですが、その理由は、すこし強めの表現をヤンソンが使っていて、そこを短く的確に伝える文章にすることが難しかったからです。作家の個人的な動機に関する箇所で、ヤンソンは次のように書いています。
児童文学作家はとてもひどい方法でかわいそうな子どもたちを利用し、子どもっぽいカモフラージュの下には恐ろしい利己性の深淵がある。おそらく作家は欲望にもとづいて書いているにちがいない。
「かわいそうな子どもたちを利用」「恐ろしい利己性の深淵」といった強めの表現を用いているところに、うしろめたさがありながらも書かずにはいられない作家の葛藤が読み取れます。
解説が難しかったことに加えて、児童文学作家と大人の読者という視点で記事をまとめようとしたときに、どうしてもこのニュアンスまで拾うことができませんでした。
書くこと・読むことで気持ちを「やわらげる」
さきほどの「必要性」を説明する箇所には、「やわらげる」という表現が使われています。
こうして振り返って書いてみて、これは書いたほうがよかったと後悔しているのですが、この「やわらげる(att avreagera)」という表現が大人の読者が子どもの本を読む行為に対しても使われているのが作家と読者の関係を考えるうえで大きいポイントでした。ヤンソンが作家(≒彼女自身)と読者に対して同じ言葉を使っているのは胸アツです。ほんとうに、なぜ書かなかったんだ…。
ヤンソンが考える大人が子どもの本を読む動機について、記事のなかでこの「やわらげる」を省略して説明しています。
サスペンスを読むことで恐怖に触れたい欲求があるように、子どもの本を読むことで優しさに満ちた世界に触れたい欲求があるのではないか
ここは、原文を忠実に訳すと次のようになります。
殺人の本を読むことによって禁止された攻撃性(怒り)をやわらげるのと同じように、子どもの本を読むことによって、許されていない恥ずかしい優しさをやわらげるのかもしれない。
ここでも「禁止された攻撃性」「許されていない恥ずかしい優しさ」という強めというかなかなか難しい表現がなされており、そのまま抜き出すと言葉が浮いてしまい、このエッセイをもっと全体的に、丁寧に書かないと伝えきれないと思い、悩みながら言葉を変えましたが、違う書き方があったかもしれません…。
そういうわけで
いい文章を書けるように引き続き精進します。