コミュニタリアンの実像

お久しぶりです。

ふぃるです。


そういえば、前回の投稿はtwitterの凍結のご報告の時だったんですね。

その後、無事に復活したのですが、今はtwitterをやめてしまいました。

取り立ててイーロン・マスク氏への抵抗という訳でも無いのですが、色々な事情が重なりまして。

今は、当時仲の良かったFFさんのdiscordの中で生息しております。

もし、哲学的議論など、お話してみたい方がいらっしゃったら、discordなどお誘い下さい。


さて、本題に入っていきましょう。

突然ですが「コミュニタリアンの実像」と言われて、皆さんイメージが湧きますか?


コミュニタリアニズムはマイケル・サンデル氏の名前と共に、確かに広く知られる様になりました。

でも、例えば「保守派」とか「リベラル派」と言われれば、政治家だったり、SNS上での特定の傾向をもったクラスタだったりと「あの人達の事か」と認知できるでしょうが、コミュニタリアンと言われると、サンデル氏や、場合によってはマッキンタイア氏など、代表的提唱者の名前は挙がるにしても、社会の中に実存しているイメージを中々持てないのではないでしょうか。

しかし、ロールズを読んでも、実存するリベラリストが実社会でどう振る舞い、そこにどんな功罪が発生するかという事をイメージするのが難しい様に、コミュニタリアニズムの理解にも実存の認知が不可欠でしょう。

そこで、ここではコミュニタリアニズムがどの様に提唱されてきたのかではなく、どの様に実存するかという点を考えてみたいと思います。


とは言え、「実存するコミュニタリアニストとはこういう人達だ」と言うには、その論拠が必要となる訳で、コミュニタリアニズムがどう規定されてきたかを全く無視して語る訳にはいきません。

なのでまずは簡単におさらいしてみましょう。

コミュニタリアニズムとは、共同体主義とも言われ、コミュニティ(共同体)の価値観(共通善)を重視する思想です。

リベラル-コミュニタリアン論争の中で、コミュニタリアンはロールズの無知のヴェールを「負荷無き自己など想像しえない」と批判しています。

それだけ、共同体によって培われた価値観は個々人に内面化するというのが、コミュニタリアニズムの姿勢なのです。

「個々人が社会の影響を抜きに自由に振る舞うことなどできない」という発想はポストモダニズムにも共通する様に思われますが、ポストモダニズムにとってのそれがどちらかというと批判や絶望のニュアンスと共に語られるのに対して、コミュニタリアニズムはむしろその事を肯定や希望と共に捉え、積極的に秩序形成に役立てようとしている点には大きな違いがあると言えるでしょう。

この様に書くと、まるでコミュニタリアンは右派勢力の様にも見えますが、実際のところは左派、或いは中道左派勢力と見做され、その政策主張としてはリベラル層と一致することが多いとされます。


コミュニタリアンの解説は概ね上記の様なものが一般的かと思いますが、問題は最後の一行の唐突さです。

これだと「アイデンティティに基づく価値観を重視する点で保守的だが、何故かリベラルな結論に至った人達」みたいな印象になってしまいます。

この辺りから、コミュニタリアンの実像を紐解いていきましょう。


突然ですが、皆さんは「女性は男性より低い身分にあるべきか」という命題に対して、どの様に答えるのが"常識"的だと考えますか。

否、という答えになるのではないでしょうか。

我々は政治思想を分類する時に「パターナルな価値観は、共同体のアイデンティティに基づく道徳や常識に担保されたものである。一方で、リベラルな価値観とは、それを革新的に否定するものである。」と前提しがちです。

ところが、考えてみれば、先ほど考えた"常識"という基準こそが、共同体で現在有効に共有されている価値観である筈です。

そして「否」という答えはリベラルなものです。

ここに「リベラルが常識化している」という捩じれが存在します。

考えてみればこれは当然の事で、共産主義が過ちとされて以降、左派も右派も「漸進」という言葉をキーワードとしてきました。

守旧に徹するのではなく、革命的に物事を変えるのでもなく、一歩ずつ社会を更新する事を、皆で良しとしてきた訳です。

その中では、常識も漸進するのであり、いつの間にか、よりリベラルな世界観が常識となっていても、何ら不思議では無いのです。

常識とまで言ってしまうと、「日本では保守勢力が与党である事が圧倒的に多い」とか「まだまだ女性の身分が男性より低いことを前提した慣習が存在する」といった批判もあるかも知れません。

なので、常識と言う言葉に代わって、共同体が「本当は善いと、内面的に思っていること」というニュアンスで、"共通善"という言葉を用いれば、よりコミュニタリアニズム的です。

つまり、共同体の持つ価値観(常識の様なもの、即ち共通善)を漸進的なものと捉え、むしろリベラルな側にこそ現在有効なそれがあるとした場合、コミュニタリアンの主張は明快です。


この様に考え進めると、例えば「アップデート」という言葉が「世間の常識は既に更新されていて、貴方の価値観はそれに準じた、よりリベラルなものとならなければならない」というニュアンスで用いられる時、それはリベラリズムというより、コミュニタリアニズムに基づく態度であると気付くはずです。

リベラリズムとは、それが社会自由主義であったとしても「自由とは何か」という事に真摯に向き合う必要があるのであって「社会の常識がこうなったから、貴方はそれに合わせるべきだ」という姿勢は許容されないからです。

しかし、コミュニタリアニズムの論理では、我々の共同体が持つ価値観それ自体が論証不要の正当性を持ち得る訳ですから、これは充分有効な主張となる訳です。


そう考えると、コミュニタリアニズムが提唱された時点で、保守派からは「国家内に相容れない異文化が共同体として根を張る」ことやリベラル派から「不寛容な共同体の存在を許す」こととなることを危惧された事も、机上の空論ではなく、現実のものとして具体的に想像できるでしょう。

例えば、系譜的にはリベラル寄りだった筈のフェミニズムが、自らを守ってきた論理を捨て、感情、直感、常識を論拠とする様になり、その一部がTERFに至るといったことが、実際に起きている訳です。


ここまでのコミュニタリアンに対する捉え方には、もしかすると反発があるでしょう。

そもそもコミュニタリアニズムはNHKでマイケル・サンデル氏のハーバードでの講義が放送されたところから広まり、その後発売された書籍などでも、政治活動ではなく、政治哲学の目線で語られてきました。

という事は、現状の左派の反知性主義的な態度に嫌気の差したエリート気質な人々の方が、余程触れる機会が多かった訳です。

更にはトロッコ問題などを通じて、熟議を促す姿勢も、そうした知性派の人々をこそ、惹き付ける事となりました。

その中で、少なからず「現在リベラルを名乗る蒙昧な人々を啓蒙し得る、アメリカはハーバード大学から輸入された最新の政治思想」という期待に基づくバイアス込みでで受け取られがちに見えます。

実際に、日本でコミュニタリアンとされている(数少ない)人物としては宮台氏などが挙げられ、政治活動的なリベラル像から距離を置いた知性派が名乗っていると言えるでしょう。

しかし「実のところ、Jリベラル、WOKEなどと揶揄されがちな、反知性主義的なリベラル層こそが、コミュニタリアニズムを体現した姿なのではないか」というのが私がここで言っていることです。

なので、私の主張するコミュニタリアンの実像は、何だか真逆の事を言っている様に聞こえる人がいる事は想像に難くありませんし、実はそれも正しいのです。


つまり、コミュニタリアンを"自称する"人々の実像は「反知性的なリベラルと、オルトライトの台頭の中で行き場を求めた知性派」が多いですが、実際にコミュニタリアンとして"振る舞っている"のは、正に彼らが批判したい層なのでは無いでしょうか。


さて、今回のお話は楽しんで頂けましたでしょうか。

twitterをやめてからは、中々考えている事に反応を頂ける機会も無くなってしまったので、良かったらコメントで疑問、反論などお寄せください。

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