商業のダーウィニズム――「売れる本屋」をながめて
「日本最大級のショッピングセンター」という謳い文句が特徴的なイオンレイクタウンに行ってきた。諸事情あって先月くらいにも行ったのでそれほど時間は開いていないが、その間に春のリニューアルが進んだらしく、「こんなんだったかなあ?」とプチ浦島太郎になった。
リニューアルのひとつがTSUTAYAの改装移転である。前回行ったときは既に店舗を閉めて仮設営業だったので、さて開店後はどんなものだか、楽しみにしていた。
最近のTSUTAYAに詳しくない方向けに説明すると、ここ数年CDやDVDのレンタルは下火で、最近はめっきり「おしゃれな本屋」と化している。この店舗も移転を機にレンタル業をやめるのだと仮設店舗に断り書きがしてあった。15年くらい前のTSUTAYAのイメージがあるわたしにはいまいち実感がわかない。
その「おしゃれな本屋」の新住所に着いてみてまず、圧倒された。
なんだろう、これ。本屋じゃない。
入口付近に子供向けの本が並べられ、その奥にプレイランドがオープン予定(現在は暗幕で仕切られている)。しかし入口からより見えるのはぬいぐるみやポーチなどの雑貨が並んだ『パンどろぼう』の特設コーナー。その奥にも児童誌や『サバイバル』などの児童向けの棚が続く。
ふとその流れが切れたかと思えば目に飛び込んでくるのは「コスメ」の文字。白飛びしそうな明るいゾーンに目を向けると、なんと隣接するコスメショップと繋がっている。本の棚に向き直るとそこには本ではなくまた特設コーナー。イラストレーターとインフルエンサーのグッズや関連書籍がギャラリーの棚のように洒落た感じで置かれている。
その横にはレジ。レジの裏側に追いやられるように、やっと一般の本屋らしい文庫本の棚が存在した。これ幸いとばかりに飛んでいって眺めていたが、なんだか表紙のビジュアルがやけにイラストっぽいのが目立つ。今どき東野圭吾も美麗な人物イラストがつけられるのである。こうキラキラした空間にいては、慣れ親しんだ講談社文庫の背表紙よりもタイガやオレンジ文庫のほうが目を引かれる。
「TikTokで大反響!」と帯がついている文庫本。中学生のときに学校図書館で読んで感動したやつだ。感動はしたけれど文章としては稚拙なところがあったし(中学生の自分の感想だ)、いっときの小ブームかなあと思っていた。版を見ると第18刷。なんとなくくやしい。
次の棚、次の棚と見ていたら突然トレーディングカードの白いディスプレイ照明が眩しい場所に来てしまって目が潰れるかと思った。さほども歩かないうちに。どうやらここはトレカを扱うスペースらしい。眩しいのですぐに退散したが、果たしてこのおしゃれ空間にトレカ売り場は同化できるのか、ちょっと気になる。
その先はコミック売り場。レジ前には新刊や今ホットな作品(そのときは『薬屋のひとりごと』コミックの各最新刊)を積んだテーブル、柱のところには『WIND BREAKER』『ちいかわ』のコーナー。そこからしばらく文具売り場が続き、いつの間にかコーヒーやお菓子といったR.O.U.にあるのと同じラインナップのギフトが陳列されており、そこで出口に着く。
ここまで見てきて半分くらいは本じゃなかった。それが驚きでしばし呆然としていた。今出てきたところから店を眺めてみても「本屋」というイメージがどうしてもくっつかない。R.O.U.にしか見えない。いや本棚も見えるから本屋に見えなくはないのだが、だとしたら本以外の雑念が多すぎる。
現に今ここから見える範囲でエヴァの特設コーナーがあるのはさすがに本屋ではない。ここまで歩いてきてもう4つ目の特設コーナーだ。ポップアップスペースを持った雑貨屋というべきだろう。
そのまましばらくぼーっとしていたが、いやわたしは仮にも「本屋に本を買いに来た」身だぞと思い直し再入店した。『薬屋のひとりごと』の文庫を一冊買うために。おまえも大概ミーとハーではないか。
ところでこの店、ラノベはどこに置いてあるんだろう?
さっき見た文庫本はだいたいラノベだったような気がするのでそこまで引き返したが、ラノベ文庫は置かれていなかった。単にわたしの認識がたいへん失礼だっただけだ。しかし今となってはラノベと現代文学との間を隔てるものってなんであろうか。
ダメ元でコミックの棚をかいくぐって進むと、なんとびっくり、奥の壁に見覚えのある背表紙がずらり。こんなところに。
こんなわかりにくいところに置かれてかわいそうにねえ……と思いつつ平置きされている『薬屋』をゲット。ラノベって今でも肩身狭いのかしらん。
セルフレジで会計しながら、わたしは先日Twitterで盛り上がっていた話を思い出していた。「売れる本屋」についてである。
毎日新聞の "「売れる本屋」のコツ教えます 経産省が専門チーム設置へ" という記事が引き起こした紛糾である。ただし、当該記事は内容が薄かったためリンクは類似の別記事で失礼する。
曰く、経済産業省が昨今の出版不況に対応するために専門チームを作って対策に乗り出そうというものである。
その対策内容が「カフェや文具店を併設する」とか「イベントを開催する」とかだったためにTwitterの本好き諸氏がお怒りになった。
諸氏の意見をすべて引くのはなかなか億劫なことなので割愛するが、概して彼らが敵視していたのが他でもない蔦屋書店である。
諸氏曰く「あれは本屋ではない」。本屋のあるべきは本のある場所であって、雑貨やカフェが入り込む隙間はない。確かにそうである。本が好きで神保町の古書店街に入り浸るような人々ならなおさら、あの煌びやかなTSUTAYA店内で空虚な思いに浸ることだろう。
だがしかし、今日実際にその「売れる本屋」に入ってみて、一介の本好きは「ここの本屋は売れるんだろうな」と思ってしまった。商業的な正解がここにある、その感覚が確かにあったのである。
文庫本の棚にビジュアルの良いライトな哲学書があった。中身もカラフルな図解でとても見やすく、正直文庫ではなくもう少し大きめのサイズで刷ってもよかったんじゃないかと思えるレベルだった。ただすぐ思い直したのは、この本を「売る」ことを考えたからである。
ソフトカバー、ハードカバーに関係なく、大きいサイズの本はそれだけで手に取ってもらいにくい。大きめサイズの本は棚がそれほど広く割り当てられないうえ、この本は小説ではないためさらに脇に追いやられてしまう。売り出すために入口付近のテーブルに置いてポップでも立てれば売れるだろうが、それほどの広告コストもかけられない。つまり大きめだと沈むのである、この本は。誰の目にも触れず、静かに絶版になっていく。
一人でも多くの客(購買可能性)にアプローチするためには、棚も広く客も来やすい文庫本にするのがいちばんいいやり方なのである。書籍本来のよさを多少潰してでも、全体が死なないことを優先する。たぶんそういう選択をしたのだ、この本は。目に触れること、読まれることを本の本性とし、買われることを本屋を維持するエネルギーだとするなら、この選択は正しい。
この店舗の入口はモールとモールを繋ぐ連絡橋の出口にくっついていて、脇道にそれる形で店内を通り抜けられるようになっている。連絡橋を渡ってきた人々は魔法のようにその脇道へ流れ込む。見ていて本当に不思議だった。
ここがもし「普通の本屋」だったら、こんなふうに人が吸い込まれただろうか? そんなことはないだろう。目に見えて綺麗で興味を引かれるから、ふわふわ吸い寄せられてしまうのだ。そして処々にある美しい装丁の本に惹かれ、手に取り、気に入れば買う。さながらウィンドーショッピングだ。
これまでの本屋が「本を買う」という固定的な意識からしか購入が発生しないものだとすると、ここは浮動的な購買意欲をそのまま購入に繋げられるのである。商業的にはここが大きな強みだろう。Twitterの本好き諸氏は本を見たくて本屋に行く(買うかどうかは浮動的だ)が、それすら全体からすれば固定的意識だったのである。
当たり前のことだが、本屋は本が一冊も売れなければやっていけない。出版も同様。つまり売ることは生きること、店≒自分たちの維持に繋がる。売る努力は生きる努力である――そう読み替えることもできる。
現代ではそういう読み替えがどこにおいてもよくみられる。これは本屋を「本を売る」ところと認識しているからであり、本屋の本性を「本を売ること」と認識しているからである。逆説的に言えば「本が売れない本屋は本屋ではない」。
実際、売れなければ死ぬところはもっともである。しかし「売れない本屋」の否定は一介の本好きとしてどうも飲み込みにくいところがある。
確かに昔と比べて読者の数も読書への関心もなくなってきているのかもしれないが、かといって本屋が消えるわけでもないだろう。なんだかんだで需要はあり続けると思う。赤字にはなるかもしれないが、売れないからといって本屋が淘汰され切るということはあるまい。
恐れているのは本屋の消滅ではなくて、赤字だろう。赤字になっては本屋を続けているリターンがないから本屋業から撤退する。赤字なのに変に需要があるせいで続けざるを得ない貧乏くじを引かないために、リターンを出して続ける理由となる利益を生み出したいのだ。
赤字になった産業は淘汰される。淘汰。どこかで聞いたな、と思ったら社会ダーウィニズムである。適者生存の法則を社会に適用してみた、あれだ。教科書でオブラートに包みつつも「的外れ」と批判されていたあれが、奇しくもTSUTAYAに存命だった。
本屋は確かに本を売るところではあるが、それ以外にも様々な役割を暗に担っている。売れない本にも「売れない理由」以外に様々な要素があって、ある日そこに魅力を感じた人がぽっと買っていくかもしれない。売れないからといって魅力がないわけでも「無駄」というわけでもなく、削ぎ落とすべきとは一概には言いがたい。蔦屋書店的な本屋はバリエーションとして構わないと思うが、本屋が全部これになるべきだとは考えていない。むしろ非常に恐ろしいことだ。
本に限った話ではない。例えばゲームやアニメといったエンタメにおいても、大衆に受け入れられなかったり本数が売れなかったりしたからといって「ダメ」だったとは一概にはいえない。それでもそうしたことを理由に批判されるのは「生きる努力が足りなかったから」真っ当だともいえるが、それだけが作品を善し悪しを量る尺度ではない。売れなかったから続編が出なかった、それは結果の話である。そのゲームをプレイしたあなたの心に美しい思い出が残っているのなら、それだけでそのゲームには価値があったのではないか?
商業的にみれば適者生存なのだろう。大衆やターゲットに刺す努力をしない、受け入れられない、利益を出せないものは切られて当然。自然淘汰と呼べなくもない。
ただ、その一辺倒は危険すぎる。それのみを追求した先にあるのは「生きるために生きる」生産性のない活動だ。
タイパやコスパを重視する効率的なこの世の中、効率的か否か、それだけに依って判断されつつあるのがなんとなく気持ち悪い。「30秒で泣ける」「5分でどんでん返し」のポップも本に失礼な気がする。
社会ダーウィニズム的な誤謬に陥る前に、そうではない尺度も大事にしてほしいと思う。効率でAIの右に出る者はいないし、AIほど読んだ本の中身を理解できない存在もいない。
商業トーシローのわたしとしては、10年後のTSUTAYAが何屋さんなのかすごく気になる。気になってあと10年は死ねないなあ。
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