さよならガールズ、また会おう
篠宮葵は、荒廃した都市の片隅にいた。
空は赤黒く滲んだまま動かない。太陽は水平線にかかって永遠に沈みきらず、昼と夜の境界を曖昧にしたまま空に留まっている。世界は何も変わらないまま、ただ止まっていた。荒れ果てた建物の間には風が吹き抜け、かつて繁茂していた植物は枯れ果てて白い骨のような枝をさらけ出している。そこにいた人々はいつの間にか消え、葵は一人きりになっていた。
なぜこうなったのかはよくわからない。気づいた時にはもう手遅れで、多くの人々がこの街から、星から、世界から去っていった。私はその流れに乗ることができず、一人ただ生まれ育ったこの街でぼんやりと、やがて来たる”死”を待っていた。もはや「女子高生」という肩書きは意味を失い、身にまとう制服もすっかり色あせている。襟元はほつれ、袖口は擦り切れ、汚れたスカートには泥の跡がこびりついていた。それを洗おうとも、新しい服に着替えようとも思わない。そんな気力は、もう残っていなかった。
かつて急行電車が頻繁に行き交っていた駅のホームで、葵はもう来ることはない電車を待つ。線路には雑草が伸び放題で、錆びついたレールは赤黒い血痕のように目に映る。電車が通ることは二度となく、待合室のベンチもひび割れて崩れかけている。それでも彼女は、毎日この駅に通うのが習慣になっていた。理由なんてなかった。無気力に、でも何かが変わるのではないかという漠然とした期待を、どこかで捨てきれずにいた。
手元には、一本の鉛筆がある。まだ削られていないそれは、彼女にとって特別なものだった。世界がこうなる直前に、父親からもらったものである。彼は職人のような顔をして「どんなことでも、この鉛筆で記録すれば残るんだ」と教えてくれた。しかしその父は、崩壊する世界の中で葵を置いてどこかへ消えた。それ以来、彼女はこの鉛筆を使うこともなく、ただ手のひらで握りしめる日々を過ごしていた。
「この世界に、終わりなんてあるのかな」ぽつりと呟いた言葉は、ただ冷たい空気に溶けて消えていく。
目の前に広がる廃墟の街には、音がない。ビル群のガラス窓は砕け散り、道路には深いひび割れが走っている。遠くの空は、夕焼けのように赤い。けれど、それは夕焼けではない。あれは、永遠に沈まなくなった太陽がこの世界に残した傷跡だ。
この静寂の中で、葵は空を見上げて過ごすことを繰り返していた。何かが起こるのではないか――そう思わずにはいられなかった。けれど、実際には何も起きない。変わらない世界が、ただ目の前に広がっているだけだ。
「終わり」というものがあるのなら、それはいつ、どんな形で訪れるのだろう?このまま時が止まったように過ごし続け、やがて自分もこの世界から消えていくのだろうか。そんな考えが、葵の頭を何度も巡った。
彼女はホームの縁に座り、足を線路に投げ出している。コンクリートに触れても、その温度すら感じられないほど、自分が空っぽになっていることに気づいていた。
「何を待ってるんだろう、私……」
思わず漏れた独白に、葵自身も戸惑った。何かを待っているのは確かだ。でも、それが何なのか、自分でもわからない。ただ無為に過ぎていく日々の中で、彼女は希望の残骸を手放せずにいるのかもしれない。
ふと、彼女は鉛筆を見つめた。
父はこの鉛筆で「記録を残せ」と言った。だが、何を記録すればよかったのだろうか。もう誰もいないこの世界で、書き留めた言葉に意味などあるのか。そう思いながらも、彼女は鉛筆を握りしめたまま離そうとはしなかった。
葵の視線の先には、どこまでも続く廃れた街がある。人々がどこへ行ってしまったのか、彼女は知らない。それでも、彼らの存在が完全に消えたわけではないような気がしていた。彼女がここにいること、それ自体もまた、消えてしまうはずの記憶の一部だ。
ふいに、葵は鉛筆をホームに転がしてみた。乾いた音がカラカラと響く。それだけが、自分がまだ「ここにいる」という証拠のように思えた。
何かを始めるには遅すぎる世界かもしれない。だが、もう一度拾い上げた、手の中にある鉛筆は、まだ使い始めてすらいない。
そして、もし使い切ったその瞬間に――。
「そのとき、何が起きるんだろうね」
誰に向けたわけでもない呟きが、静かなホームに響いた。世界の終わりを待ちながら、少女は今日も、誰も来ない駅のホームでただ空を見上げ続けていた。
誰もいなかった駅に、不意に足音が響いた。
葵は顔を上げる。振り返ると、そこには同じくらいにボロボロの制服を着た少女が立っていた。彼女の名前は神谷詩織。同じ学校に通っていたかつての同級生であり、私の幼馴染だった。
彼女とは出会った時からずっと一緒だった。幼稚園で彼女を一目見た瞬間に、葵は『この手を離してはいけない』と強く感じたことを今でも覚えている。
幼稚園から小学校、中学校と進学するにつれ、彼女の魅力に気づき始める人も増えていった。彼女は誰よりも強くて明るくて優しくて、そんな彼女に「あーちゃん」と呼ばれ、「しーちゃん」と返す、そんなやりとりができることが何よりも喜びであり、唯一の生き甲斐であった。一方で、完璧超人の彼女の隣にいることは、特に秀でた能力のない凡人である葵にはストレスでもあったことは確かだった。
高校時代の彼女は誰からも好かれ、成績も運動も抜群で、いつも教室の中心にいて、クラスメートたちの憧れの的だった。綺麗な黒髪に整った顔立ち、そしてその天真爛漫な笑顔は、まるで太陽のように周りを照らしていた。葵はその光に憧れ、同時に自分と正反対にいる存在だと感じるようになっていった。
葵は彼女が所属していた女子サッカー部の試合で、決勝ゴールを決めた瞬間に多くの生徒や観客から拍手喝采を浴びている姿を思い出す。周囲の女子たちは、詩織の魅力を称賛し、男子たちは彼女に夢中だった。葵はその光景を遠くから眺めることしかできなかった。詩織と話す機会があっても、その明るさや存在感の前に、自分はただの影に過ぎないと感じることが多かった。彼女が自分に優しく声をかけてくれるたびに、葵は一瞬の喜びを感じながらも、その後にやってくる虚しさに襲われた。
どうして私はこんなに無力なのか。複雑な感情が葵を苛む中、詩織の存在は一層際立っていた。クラスの集まりではいつも彼女が中心となり、楽しい会話が繰り広げられていた。しかし、葵はその輪の外側にいて、遠くからその様子を眺めるだけだった。誰もが詩織に惹かれ、彼女が笑うたびに周りの空気が明るくなるのを見て、葵は自分が置いてけぼりにされているように感じていた。次第に葵は詩織との関係を徐々に避けるようになった。詩織がクラスメートたちと楽しそうにしている姿を見るたびに、葵の心の中には小さな妬みが芽生え、自分を隠すように心がけていた。次第に詩織との距離を遠ざけ、一人になることも増えていた。
自分に何か特別な才能があれば、詩織に近づけるのではないかと、心のどこかで思っていた。自分も頑張れば何か特別なことができるのかもしれないと期待しながらも、実際にはその道は遠いことを理解していた。幼い頃から一緒にいた葵は、その笑顔の裏にある、周囲の期待を背負う重さとそれに見合った努力の量を見て、「届かない」と何度も思っていたのだ。
「まだここにいるんだ?」
詩織は軽い調子で声をかけてきた。その顔には柔らかな微笑みが浮かんでいる。まるで、世界が崩壊していないかのような、どこか穏やかな笑顔だった。
「……何しに来たの?」
葵は不機嫌そうに返した。詩織は気にする様子もなく、肩に背負っていた古びたリュックから、ノートを取り出した。それは、学校に通っていた頃に使っていたものと同じようなもので、間には無造作に紙片が挟み込まれている。
「世界が終わったから、そのことを書いてるの」
詩織はまるで当たり前のように言った。その口ぶりがあまりに自然すぎて、葵は思わず言葉に詰まる。
「……今さら何を書くの? 誰も読まないのに」
葵の冷たい声にも、詩織は気を悪くすることなく、駅のベンチに腰を下ろした。そして、ノートを開き、鉛筆を取り出すと、ゆっくりと文字を綴り始めた。
葵は苛立ちを覚えながらも、その姿を無言で見つめていた。何かを書くなんて、無意味だ――ずっとそう思っていた。世界が崩壊し、人々が消え去った今、記録なんて残したところで誰も読まない。そんなことをする意味なんて、どこにもないはずだった。
だが、詩織の手は止まらない。一本の鉛筆が、紙の上を静かに滑っていく。その音が駅の静寂に心地よく響くたび、葵はふと胸の奥に忘れかけていた感覚が蘇るのを感じた。
「誰かが読むかどうかなんて関係ないよ。文字を綴ることで、自分がここにいた証を残せるの」
詩織は、鉛筆を動かしながら静かに言った。その言葉は、まるで葵の心を見透かしたかのようだった。
――証を残す。その言葉に、葵の中で眠っていた何かが揺れた。彼女は幼い頃、自分も物語を書いていたことを思い出した。それはただの自己満足だったかもしれない。でも、父からもらった鉛筆で一つ一つの言葉を紡ぐたびに、自分がこの世界に存在していることを実感できていた。
詩織が黙々とノートに何かを書き続ける姿を見て、葵は心の中で小さな葛藤を覚えた。
「……本当に、それだけでいいの?」無意識のうちに、葵の口から問いが漏れた。
「うん、それだけでいいの」
詩織は迷いなく答えた。その瞳には曇りがない。世界がどうなろうと、自分の存在を文字に刻むことだけが彼女にとっての「生きる証」なのだ。
葵はノートの中身が気になり、そっと横から覗き込んだ。そこには、誰に見せるわけでもない、小さな日常の断片が綴られていた。――この駅に来た理由。最初に見た景色。葵との再会。そして、今、自分がここで文字を綴っていること。
「……バカみたい」
葵は呆れたように笑ったが、その笑みにはかすかな安堵が混じっていた。何も変わらない世界の中で、詩織はこうして一人、自分のペースで「生きて」いたのだ。それは、葵が忘れかけていた感覚だった。
「ねぇ、葵も何か書いてみない?」
詩織は鉛筆を差し出してきた。その鉛筆は、葵の手元にあるものと違って古びていたが、まだ書き続ける力を秘めているように思えた。
「……やだよ。意味ないもん」
葵はそう言って顔を背けたが、心のどこかではその鉛筆に触れたい自分がいることに気づいていた。詩織は何も言わず、ただ微笑んだまま自分の作業に戻った。その静かな姿が、葵にはまるで答えそのもののように思えた。世界がどうなろうと、彼女はこうして書き続けるのだ。
葵はため息をつき、手元の鉛筆を見つめた。それは、父からもらったものだ。大切にしていたその鉛筆を、今こそ使うべきではないか――そんな思いが、心の奥から静かに湧き上がってきた。
「……ほんと、バカみたい」
葵は自嘲気味に呟くと、「鉛筆、貸して」と詩織に言った。詩織が少し嬉しそうに差し出す鉛筆と、彼女がリュックから取り出した新品のノートを手に取って、思案する。
「何を書けばいいのかな」
「なんでもいいんだよ。思ったことでも、見えているものでも。なんなら、文字一つでも」
一つ…一文字でも?
「そうだよ。どんな文章でも言葉でも、一文字から始まるものなんだから」
一文字…。それを聞いて、ノートの隅の適当な場所に、適当な一文字を書いてみる。
”あ”
そのたった一文字を綴った瞬間、葵の胸にわずかな充実感が広がった。
詩織は嬉しそうに微笑み、葵を見つめる。
「ほら、書けたじゃん」
葵は苦笑しながら、「意味なんかないのに」と小さく呟いた。でも、その手は鉛筆を離さなかった。
その瞬間、止まっていたはずの世界が、ほんの少しだけ動いた気がした。
ノートのページが、風に揺れてパラパラと音を立てた。その音が心地よく響き、駅の静寂の中に優しく染み込んでいく。葵はそれをただ黙って見つめていた。その音に、胸の奥で何かがざわつくのを感じた。
ふと、どうしようもなく文字を書きたい衝動に駆られる。何を書くべきかもわからないのに、言葉が指先から溢れ出してくるような感覚――それは、長い間忘れていた感情だった。
詩織は何も言わず微笑笑んでいた。葵を見つめる彼女の視線には何の押し付けもなかった。ただ、静かに「書いてみれば?」と語りかけるような柔らかさがあった。
葵は少し迷ったが、それに応えたいと思った。何を書くべきか、それはわからなかった。ただ、鉛筆を持つ手が自然に動き始める。頭の中で言葉を探そうとしなくても、指先から少しずつ文字が生まれていった。
「ここにいた」
その短い一文を書き上げた瞬間、葵の胸の奥に小さな火が灯った。それは炎と呼ぶにはあまりにか細く、けれど確かに暖かかった。
世界が荒廃し、全てが失われたとしても、自分がここにいたこと。この瞬間に何かを感じたことだけは、誰にも奪えない。たとえ他人に伝わることがなくても、この証が自分の心を支えてくれる――葵はそんな確信に似たものを感じた。
「……書けたじゃん」
詩織が隣で静かに呟いた。彼女の言葉は温かく、葵の心の炎をそっと育むような響きがあった。
「ほんとに、バカみたいなことだよね」
葵は苦笑しながら、しかしどこか晴れやかな気持ちで言った。無意味だと思っていた「書くこと」が、こんなにも心に影響を与えるとは思いもしなかった。
詩織はそれ以上何も言わず、ただ微笑んでいた。そして、自分のノートに戻り、また静かに文字を綴り始める。その姿を横目で見ながら、葵もノートにさらなる言葉を書き加えたくなった。
「……こんな世界でも、まだ誰か生きているのかな?」
鉛筆を走らせながら、彼女はそう小さく呟いた。かつて、人々が笑い、怒り、涙を流していたこの世界で、今も誰かが生きているのかもしれない。彼女の言葉が途切れると、詩織がまたぽつりと口を開いた。
「生きているよ、誰かがね。私たちだって、その誰かだもん」
その言葉に、葵の胸がじんわりと温かくなった。自分がここにいることを、ただそれだけを信じてもいいのかもしれない。そう思うと、もう少しだけ言葉を書き足したいという気持ちが強くなった。
彼女は鉛筆を握り直し、今度は少し長い文章を書いた。
”たとえ誰もいなくても、私はここにいる。そして、今を生きている”
それを書き上げた瞬間、葵はふっと笑った。言葉にすることで、心の中にあった霧のような不安が少し晴れた気がした。
「ねえ、あーちゃん」
その呼びかけに、葵の心臓が一瞬、跳ねた。
詩織が顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「生きててくれて、ありがとう」
彼女の瞳には、言葉にしなくても伝わる何かがあった。その言葉に、葵は小さく頷いた。
彼女の声は、かつての温かさを思い起こさせた。誰もいないこの世界で、名前を呼ばれることはほとんどなくなった。葵は孤独に耐えながら過ごしてきたが、詩織の声は心の奥深くに響いた。
その瞬間、静かに涙が流れ落ちた。葵は泣きながら、詩織の顔を見つめた。その柔らかな微笑みは、世界が崩壊した今も変わらず存在している。葵は、詩織が目の前にいることがどれほど嬉しいか、そして、失われたものを取り戻すことができるのではないかという希望が湧いてくるのを感じた。
「……しーちゃん、あなたがいてくれて、本当に良かった」
葵は小さな声で言った。詩織は微笑みながら、ノートを閉じると、
「あーちゃんとこうして会えてよかったよ」と応えた。
葵の涙は止まらなかったが、彼女の心の中には、新たな光が差し込んできたようだった。孤独の中で、何よりも大切な彼女との再会が、何よりの贈り物だった。
そして、二人はただ静かに時間を過ごした。風が駅のホームを吹き抜け、二冊のノートのページを軽く揺らす。その風の中で、葵は初めて「今」という瞬間を生きている実感を抱いた。
気づけば、沈んだままの赤黒い太陽も、いつもより少しだけ温かく感じられた。
二人はしばらくの間、静かに文字を綴り続けた。やがて詩織が顔を上げ、遠くの空を指差す。「ほら、見て。斜陽が消えかけてる」
葵が見上げると、赤黒かった空の奥に、わずかながら星が瞬き始めていた。世界が完全に終わる、その兆候のように見えた。しかし、葵の心には不思議なほどの安堵が広がっていた。
「世界が終わっても、私たちはここにいた。それだけで十分だよね」
詩織が微笑みながらそう言うと、葵も小さく笑った。
「その鉛筆、使う?」詩織が、左手に握った新品のままの鉛筆を見て言う。「使うなら、削らないとだよね」
詩織はリュックを開け、中から小さな折りたたみナイフを取り出した。
葵が目を丸くする。「そんなの、どこで手に入れたの?」
「昔から持ってたんだよ。何に使うかもわからず、ただなんとなくね」
詩織は冗談めかして言いながら、ナイフの刃を丁寧に広げる。その刃は使い込まれているが、しっかり研がれていて、反射する斜陽の光を淡く弾いていた。
鉛筆を逆さに握り、詩織は慣れた手つきで刃を当てる。カリッ、カリッ、と木の削れる乾いた音が辺りに響く。葵はその様子をじっと見つめながら、小さく笑った。
「こんなに丁寧に削るのに、書くのは使い古しのノートなんだね」
詩織は手を止め、刃先を見つめたままふっと笑う。「変な感じだよね。でも、今はこれで十分じゃない?」
ナイフが鉛筆を削り進めるたび、風に乗って小さな木屑が舞い上がり、どこか遠くへと流れていく。風に流される削りかすを目で追いながら、葵はついさっきまでの自分の絶望感が、少しだけ薄れていくのを感じた。
「ねえ、どうしてこんなに手慣れてるの?」と葵が尋ねる。
「そりゃ、いろんなところに行きましたから。こういうのは慣れてるんだ」詩織が答える。
葵は小さくうなずきながら、詩織の横顔を見つめる。困難な状況の中でも冷静で、工夫しながら進む詩織の姿が、今でも眩しく見えた。
詩織は削り終えた鉛筆を葵に差し出した。「はい、できたよ。あとは好きなだけ書けばいい」
葵は鉛筆を手に取り、その重みを感じながらつぶやいた。「世界が終わる前に、何を書こうかな」
詩織は肩をすくめて微笑む。「なんでもいいよ。書くこと自体に意味があるんだから」
駅のホームに電車が来ることはない。それでも葵は、今手にしている鉛筆を使い切るまで、書き続けると決めた。世界の終わりが来るその瞬間まで、彼女は自分の物語を綴るだろう。
やがて詩織が立ち上がり、廃墟の街の方へ歩き出す。「また会えるといいね」と振り返りながら微笑むその姿は、まるで消えかけた蜃気楼のように見えた。
しかし、葵は黙ってその背中を見送ることができなかった。何かが胸の奥から湧き上がり、彼女は立ち上がると詩織のあとを追い始めた。
「待って! 一人で行くの?」
その声に気づいた詩織が足を止め、振り返る。驚いたような表情を浮かべ、やがて優しく微笑んだ。「…ついてきてくれるの?」
葵は頷く。自分の存在が無意味だと思っていた世界の中で、詩織と一緒にいることだけは、今確かに自分の足を前へと進ませていた。たとえこの世界が終わりを迎えようとも、二人でいれば何かを見つけられるかもしれない。
「どうせこの世界に目的なんてもうないでしょ?」と葵は冗談めかして言う。
「だったら、どこまででも一緒に行こうよ」
詩織はかすかに笑いながら「そうだね」と答えた。二人は肩を並べ、廃墟の街へと歩き出す。
街の空は、相変わらず赤黒い斜陽に染まっている。荒れ果てたビルの影をすり抜けながら、二人の少女の足音が響く。
手にした鉛筆はまだ折れていない。書くべき言葉を探し、彼女たちは進んでいく。紙もインクも失われた世界で、唯一残されたものは、共に歩む「今」という時間だけだ。
詩織がふと立ち止まり、後ろを歩く葵を振り返る。「どこまで行こうか?」
「うーん、そうだな……」葵は考えながら、空を見上げ、自分たちがいた場所を振り返る。
「終点まで」
詩織がクスリと笑い、再び歩き出す。その背中に続いて、葵も力強く一歩を踏み出した。
世界の終わりが訪れるその瞬間まで、二人は共に歩き、どこまでも進んでいく。電車の来ない駅のホームを越えて、荒廃した街の果てへと。
そして、もしもその先に何か新しい物語が待っているのなら――彼女たちはそれを綴るだろう。
世界の終わりが来るその瞬間まで、私たちはここにいた。手の中の鉛筆が折れてしまう、その最後の瞬間まで。
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