煙と風の間
夜の路地裏を歩いていると、いつも薄暗い明かりの下で佇むおじさんがいる。彼は無口で、誰とも話さない。いつも麻のコートを着て、手には古びたパイプを持っていた。私はそのおじさんの存在に最初は興味を持たなかったが、ある夜、思わず声をかけたくなった。
「寒くないんですか?」
おじさんは顔を上げ、無言のまま私を見つめた。彼の目には何か深い哀愁が宿っているようで、その目に引き込まれた私は、立ち去ることができなくなった。私が再び口を開こうとした時、おじさんはパイプを咥え、ゆっくりと煙を吐き出した。
「寒いさ。でも、麻は暖かいんだ」
その声は驚くほど低く、重く響いた。私はどうしてもその言葉の意味が気になってしまった。麻のコートがどんなに暖かいとしても、この寒い冬の夜には不釣り合いだ。そんな疑問を口にしようとしたが、おじさんは再びパイプに火をつけ、煙を吸い込んだ。
「昔、俺は職人だったんだ」
突然のおじさんの告白に、私は驚いて聞き入った。彼の声には少しずつ柔らかさが加わり、語りはじめると共に、私の中に眠っていた何かが目を覚ましたような気がした。
「麻を使ってな、色んなものを作った。ロープや袋、服なんかもな。でも、仕事はどんどん減っていって、最後には誰も麻を必要としなくなった」
おじさんは再び煙を吐き出した。それはまるで彼の人生の残骸が形を変えて空に消えていくように見えた。私は言葉を失い、おじさんの語る声だけが路地に響いていた。
「それでも俺は麻が好きだったんだ。丈夫で、長持ちする。時が経てば柔らかくなる。人間みたいなもんさ。俺の仕事が消えた後も、麻は俺の傍にいてくれた。俺の人生を支えてくれたんだ」
その時、私はおじさんがただの物作り職人ではなく、麻を愛していた男だと気づいた。彼の人生は、時代に取り残され、誰からも見向きもされなくなったが、それでも麻だけは彼を裏切らなかったのだ。
「それに、パイプもな」
おじさんは自分のパイプを見つめ、少し微笑んだ。パイプの口からは煙が薄く漂い、その煙はおじさんの顔に絡みつくように流れた。
「このパイプは、俺の父親が使ってたものだ。若い頃はこんなものを吸うなんて考えられなかったが、今ではこれが唯一の友達だ」
彼の言葉は、煙のように漂い、風のように消えていくようだった。おじさんの手に握られたパイプは、その歴史と重みを感じさせた。彼の父親から受け継がれたこの小さな器具は、彼の過去を物語り、今の彼を支える象徴なのだろう。
「結局のところ、人間は何かに縋って生きてるんだろうな。俺にとってそれが麻とパイプだった。それだけだ」
その言葉に、私は自分が何に支えられて生きているのかを考えさせられた。誰かにとっての支えは人であったり、物であったり、何かしらの形で存在する。おじさんの人生は時代に忘れ去られたものだったが、その中で彼は自分の居場所を見つけていた。
おじさんは再びパイプを口に運び、ゆっくりと煙を吐き出した。その煙は、夜空に吸い込まれていくように消えていった。少し黙っていた後、おじさんは静かに言った。
「人はどこに行くのか、わからない。でも、忘れられることはないさ。さよなら、若い者。」
そう言って、おじさんはそっと立ち去り、夜の闇の中に溶け込んでいった。
その日を境に、おじさんの姿を見ることはなくなった。
彼のことを噂していた人たちも、おじさんがどこにいったかは知らないようだった。
数日後、わたしはあの路地裏を再び訪れた。
そこは元から誰もいなかったように静まり返っていた。
おじさんが立っていたあたりにひとつだけ、袋が落ちていた。
麻でできたその袋の中には、小さなパイプが入っていた。
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