パースペクティブ (7)
「毎度ありがとうございます」
店員はレジスターを軽快に叩いてドロアを引き出すと、ぼくから受け取った千円札をきちんとしまい、それから五百円硬貨を取り出してぼくの右手にそっと置いたのだが、その時彼女の左手はぼくの右手に触れるか触れないかの距離で自然に添えられたものだから、ああ、いけません、除菌もしていない他人の手をそのように触るなんて、と思わず叫びそうになったのだが、彼女は鮮やかな手並みでぼくの手に触れぬままスッと両手を引き戻したのだった。
ああ、と内心嘆息しながら五百円硬貨を財布にしまい、ビニール袋に入った植木鉢を店員から受け取って樹々をかき分け、ぼくはカウンターを後にした。ぼくは一度も後ろを振り返らなかった。このような心遣いを受けたのは、生まれて初めてだった。そして、もしかしたらサービスとして出発したそれは、だがやがて相手に心を砕く過程で、純粋な好意へと化学変化したかもしれない、そうでないと誰が否定できるだろう、ぼくの姿が樹海に消えるまで彼女はぼくを見送り続けるだろう、そんなことは確かめるまでもなくわかっている。だが、もしぼくが振り返って、その時万が一にも彼女と目でも合ってしまったら、ぼくはそのまま店を出て行くことができなくなってしまうかもしれない、そんな予感が背中に張り付いていたものの、いや、ここはクールに立ち去ろう、そんな見栄と虚栄心とええカッコしいの気持ちがぼくの中でぐるぐると渦巻いていて、とにかく前に進むのだ、この思いを振り切って、と開けっぱなしになっていた自動ドアをくぐり抜けたところでようやくチラリと後ろを振り返ったのだが、そこにはもう誰の姿も見えなかった。
店を出るとどこからともなく漂ってきた中華料理の匂いに、ぼくはすがりつきたいような気持ちになって花屋の前を離れ、ふらふらと匂いのする方向へ歩き始めた。すぐ近くにチェーンの中華料理屋があり、これ見よがしに設置された換気用のダクトからなんともいい匂いが周囲に放散されていて、我ながらチョロいと思いつつも、ぼくは店の前へ歩いて行くのを止められない。中華料理屋らしい赤を基調とした看板が掲げられ、外壁の一部に取り付けられた透明のガラスの箱には、ラーメンやら炒飯やら酢豚やらのサンプルが日に焼けてややくすんだ色をしつつも、燦然と輝く味のミラクルワールドを演出し、道ゆく人々に好奇の目を投げかけさせずにはいない。立ち止まってガラスの中のサンプルを眺めていると、まだ外は明るいというのになんとも腹が減ってくる。そういえば本日の午餐はいつ頃だったか、何を食べたかさえ思い出せないが、夕飯にはやや早すぎるタイミングだ。だが、とぼくは右手にぶら下がっているビニール袋を見下ろして考える。これから自分はこの植木鉢を抱えて家まで帰らねばならい、植木鉢は大きさの割に存外軽い、プラスチックの軽量化および強度強化について、近年の技術革新は凄まじいものだ、しかしこれから電車に乗って自宅へ戻るとなると、道中相当な労苦が待ち構えていないとも限らない。百キロを踏破するウルトラマラソンのランナーたちはレース前にカーボローディングと称して消化の良い炭水化物を摂取し、過酷なレースを完走するに十分なエネルギーを自らの体内に蓄えるという。ならばぼくもここで滋養強壮の充実に努めるべきだろう、見上げれば窓の向こうの店内はそれなりに客が入っているものの、飛沫感染防止に必要な離隔距離は十分確保可能と考えられる。そうと決まれば話は早い、ドアについた円柱型のバーをぐっと掴み、ぼくは店内へと足を踏み入れた。
らっしゃいやーせぇーっと景気のいい声が厨房の奥から聞こえ、肉や野菜を炒める油の匂いが充満する空気をマスク越しに吸い込むと、餃子を焼く鉄板に水を注入していた店員がこちらを振り向くのと同時に、ぼくは人差し指を高らかに掲げ、単身客であることを無言で告げた。入り口すぐのカウンターに置いてあるアルコール消毒液を手指に吹きつけ、ぼくはぐるりと店内を見渡す。四人掛けのボックスシートや二人掛けの移動可能式のテーブル席を一瞥後、やはりここはカウンター席だろうと当たりをつけ、その白くツルツルとしたカウンターが積年の油でさらに光り輝く様を見て、思わず目を細める。かなり使い込んである、これまで千万の客たちを迎え入れ、その空腹を満たし、店内で繰り広げられたであろうドラマをじっと受け入れ続けてきたあのカウンター席に、自分も座りたいものだ、そうでなくとも今日はもう大冒険をしてきた気分、何の為にか分からないが、一人孤独な祝杯をあげるとしようじゃないか、そんなことを思っていると前かけで手を拭いた店員がやってきて、一名さん、どーぞぉーっとやけに大きな声で指を差したその方向は、予想と違わぬカウンター席の、しかも端席であった。一人客の孤独を癒すにはこれ以上ない席である。
スツールに腰掛け、足元に植木鉢を置くと卓上のメニューに手を伸ばす。実はパンデミックこの方、飲食店に入ったことがなく、これはほぼ一年ぶりの外食だ。メニューの冊子に触るのは正直気味が悪かったが、店員が入念に殺菌消毒しているはずだ、なあに、気になるようならすぐそこのアルコール消毒液を再び使えばいい、と気持ちを奮い立てて冊子を取り、ページを開く。この店は餃子が売りのようだが、何も考えずおすすめメニューに飛びつくのもつまらない。記念すべき一年ぶりの外食ということでもあるのだし、ここはひとつ、熟慮をもってかかるべきだろう、そう決意し冒頭の餃子特集ページをさらりとめくり、いよいよメニューの組み立てを考えようと思ううちにも、店内には香ばしい油の匂いが充満し、まだ夕刻だというのに食欲をかき立ててやまないのだから罪な話だ、そうひとりごちながら前菜、主菜、麺やご飯ものを一とおり眺め終わると、ぼくは卓上の透明なボタンを押す。ピンポーンと遠くで音が鳴り、カウンター一番さん、すぐお伺いしまあーす、と厨房から威勢のいい声が聞こえる。中華料理屋はとにかく元気と勢いだ、とぼくは深くうなずく。気取った高級店はいざ知らず、ここは空腹を満たし活力を得るために人々が訪れる町の中華料理屋なのだから、自ずと店に充満するプラーナも赤と黄金の極彩色に染め上げられ、店員は無闇に大声を張り上げなければならない、そして客もそれを求めているのだ。ああ、と目を閉じ腕を組んでぼくは深く息を吐く。一年ぶりの外食にここを選んでよかった、この湧き上がるようなエネルギー、猥雑な喧騒、店内にこだまする安っぽいジャパニーズ・ポップス、全てが完璧だ。このフィーリング。世界は混沌に満ちており、絶え間なく鼓動は打ち鳴らされ、足元から突き上げるようなエネルギーが天へと放たれては、生と死が色めきたち、そして厨房ではオーダーを復唱する料理人が元気よく叫ぶ、イーガーコーテイ!
悦に浸っていたぼくは、注文お伺いしまーすとすぐ横で発する店員の声で目を開き、相互の意思疎通に誤りのないようメニューの写真を一つひとつ指差しながら淀みなく注文を告げた。店員はマスクの上の目をやや細め、素早く手元の機械にこちらの告げた注文を打ち込んでいき、最後にご注文確認しまーす、中生一つ、ニラレバ炒め一つ、それから天津飯の京風だれと玉子スープでお間違いございませんか、と矢継ぎ早に復唱するのだが、こちらとしては中生ではなく生中、ニラレバではなくレバニラと告げたはずだと違和感を禁じ得ないものの、文化的相違をいちいち訂正するのも無粋なことだとそこは呑み込み、こちらの寛容さを示すべく鷹揚にうなずいた。
(つづく)