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パースペクティブ (1)

 ある春の日、土の上に小さな二枚葉が顔をのぞかせていた。

 知人の冷蔵庫に入っていたその種を一年前に蒔いたことは覚えていても、何ヶ月経っても芽を出さないので、保存状態が悪かったせいでもう死んでいたのだろう、そう思い込んでいたのだが、その日ベランダで伸びをしていたら、片隅に置いてある植木鉢の端から、小さな緑が顔を出しているのを見つけたのだった。

 植木鉢をのぞき込みながら、すごくない⁉︎ とぼくは言った。水をあげていない時期もあったのに、今になって芽を出したのだ。これを生命の神秘といわずしてなんといおう。

 小さな双葉の上にはもう一組の細長い葉がついていて、発芽してからしばらく経っていることがわかる。人の目があってもなくても植物の芽は出るのだと思うと不思議な感動を覚えるが、考えてみれば当たり前だ。人間の都合など植物にとっては関係ありゃしないのだ。

 ネットで調べてみると、植物の種というのは存外保つものらしい。ほうれん草やインゲン豆は三、四年保つらしいし、トマトやスイカは六年以上経っても発芽するのだそうだ。そんなの知ってた? ぼくは知らなかった。それともこれは常識なのだろうか。ぼくは高校で生物を履修していたが、種がこんなに保つなんて教わった記憶がない。もしかしたら教わっていたのかもしれないが、見事に忘れている。

 さらに調べてみると、密封した袋に入れて冷蔵庫で保存すると種の寿命が長持ちするらしい。種は発芽のためのエネルギーをその内部に蓄えているが、高温や湿気によってエネルギーの消費は早くなる。エネルギーが尽きた種は、残念ながら、もう芽を出すことはない。そう考えると、種を冷蔵庫に入れていた知人は正しく保存していたということになる。保存状態が悪くて芽を出さないなどと思っていたぼくが無知だったのだ。

 鉢の中の若葉は小さく、だが元気に満ち溢れている雰囲気もあって、見ているだけでこちらが勇気づけられる。すごい、とぼくはベランダで再びつぶやいた。ぼくよりずっと小さなこの存在から、見えない生命エネルギーがほとばしるのを感じる。この感動を誰かに伝えたくて、だがぼくは友達がいないので、こうして今これを書いている。SNSに書き込めば誰かがイイねをつけてくれるかもしれない、だがそんなもの何になる。ぼくは承認欲求をお手軽に満たしたいのではない、目の前で息づく小さな生命の、だが偉大な力を目の当たりにした感動と喜びを、誰かと共有したいのだ。

 友達がいないと書いたが、この感動を共有する相手として、種をもらった知人に連絡することも考えた。だが無理だった。知人、とぼかして書いたが、実は以前付き合っていた彼女のことだ。別れた相手に連絡するというのは、あまり心穏やかなものではない。大人になれば恋人と別れても平気である、そう思っていた自分が浅はかだった。いくつになってもふられるのは辛い。

 ぼくはもう一度鉢の中を見る。この植物がどれくらい大きくなるのかわからないが、今の鉢は少々小さい気がする。小さいより大きい鉢の方が植物も快適だろう。人間だってそうだ。ぼくの部屋も、お世辞にも広いとはいえない。1Kというのだろうか、八畳ほどの居室兼寝室と、ドアの向こうにキッチンがある。風呂場とトイレは別々で、彼女にはそこを褒められた。ユニットバスというのは、いくらシャワーカーテンを厳重に締め切ったとしても、床が案外濡れてしまうものだ。そんな時に便座に腰掛けて用を足していると、足の裏が冷たい。靴下なんぞ履いているとびしょびしょに濡れて不快ですらある。心身の健康維持のためには、足の裏はなるべく冷やさない方がいいのだから、風呂場とトイレの別を主張していた彼女は、わりかし健康に気を遣っていたのかもしれない。

 健康といえば、彼女はぼくの部屋が常に清潔に保たれていることを求めた。少なくとも三日にいっぺん、できれば毎日部屋に掃除機をかけ、ベッドのシーツは定期的に洗濯するようにとぼくに要請したのは、彼女が重度の花粉症だったからだ。そのくせ、彼女は自分の部屋で猫を飼っていたのだが、猫を飼う方がアレルギー的に大変ではないだろうか。なにせ相手は室内のあちこちに毛を撒き散らす獣である。所構わず毛がつくのであるから、猫の毛がぼくの部屋で見つかったことも一度や二度ではない。毎日部屋の掃除をするより猫をつまみ出した方がアレルギー反応は落ち着くと思うのだが、残念ながら彼女は愛猫に退去を求めたりはしなかった。

 猫。可愛くも忌まわしいあの猫。ブルーグレーの毛をしたその猫は彼女の寵愛を一身に受け、あらゆる特権を付与され、彼女の中のヒエラルキーにおいて、常にぼくより上位に位置していた。そのことを最もよく理解していたのは他ならぬあの猫自身であり、彼女との付き合いが二年を過ぎようとしていた最後の時期でさえ、ぼくを見るあいつの目は、移籍でやってきた新参者を見るチーム最年長選手のそれだった。一番腹に据えかねたのは、彼女の部屋で愛を語らい、ベッドの上で愛を交わしているその時でさえ、奴はベッドに上がり込み、人間同士の交接に特段おかしなところはないか、仔細に我々を観察することだった。彼女は気にならないようだったが、誰かに見られることで興奮する性癖はぼくにはなく、猫に注視されながら果てた後には、決まって寂寥とした心地になるのが常だった。それもあってぼくの足は次第に彼女の部屋から遠ざかり、気が向いた時にだけ彼女がぼくの部屋にやってくるというスタイルになったのだが、今思えばぼくと彼女の関係に暗雲が立ち込め始めたのは、あの猫がベッドに上がってくるのが原因だったのかもしれない。

 だが猫のせいにするのはやめよう。それは男らしい態度ではない。あらゆる生命に寿命があるように、どのような関係にも同じく寿命があるのだ。永遠に続く関係というものなどありはしない。猫がいようといまいと、終わるものは終わるのだ。むしろ終わるべき時に終わらなかった関係ほど悲惨なものはない。そう考えると、ぼくはむしろあの猫に感謝した方がいいくらいだ。高慢な態度は最後まで気に食わなかったが、あいつはあいつで果たすべき役割を果たしたのだ、そう思えば多少の敬意すら払いたくなってくる。敬意こそ人が持ちうる最も崇高な感情の一つであり、人と獣とを分かつ境界線である。

 敬意はあらゆる対象に払われなければならない、そう考えると、この狭いベランダの片隅にすっくと茎を伸ばし始めた小さな植物にも、相応の敬意を払う必要があるだろう。だが残念ながら、現状この生命は充分な敬意を受け取っているとは言い難い。なぜなら、この小さな植物は植木鉢の端ぎりぎりから芽を出してしまっているのである。鉢の内側に寄り添うように立っている姿を見ていると、なんとも窮屈な印象を抱かずにはおれない。この若葉は敬意を求めている、そして敬意は大きな植木鉢によってのみもたらされる、そう思うや否や、ぼくは部屋の中に戻り、狭いデスクの上に置いてあった箱から不織布マスクを一枚引っ掴むと、財布と鍵とスマホをズボンのポケットに押し込み、紺色のジャケットを羽織って部屋を出た。

(つづく)



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丸山 篤郎
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